*無限の夢が生まれるとき*


  世紀の天体ショーが日本でも見られる。
 今度見られるのはかなり先になるからと、吉羅は家族を連れて、皆既日食を見に行くと宣言した。
 船で見るツアーに参加して、決定的な瞬間を見ようというのだ。
 横浜港発着のため、かなり行きやすいから是非にということだ。
 これには香穂子も驚いた。
 確かにヴァイオリニストとしての感性を高めるためにも、皆既日食を見るのは良い機会なのかもしれない。
 香穂子はそんなことを考えた。
「暁慈、皆で日蝕を見に行こうか?」
 吉羅が息子に声を掛けると、小首を傾げた。
「にっちょく?」
「太陽がお月様にすっぽりと隠れてしまうことをいうんだよ。ほんの短い時間しか見られないから、かなり珍しいんだよ。是非ともお前とお母さんとあさひと一緒に見たいんだよ。そのために、お船に乗るんだよ」
「お船にっ!」
 船に乗ったことはないからか、暁慈は途端に興奮する。
「お船に乗りたいっ!」
 日蝕よりも船に乗ることに対して、暁慈は興奮している。
 些か困ったことではあるが、乗り物が大好きな暁慈らしいとも思った。
「暁慈、船の中で眠るんだよ。楽しみにしていなさい」
「ありがとっ!」
 暁慈はすっかりご機嫌になっている。
 親子三人で皆既日蝕を見られることが、香穂子には嬉しくてしょうがなかった。

 暁慈を寝かせた後、吉羅とふたりだけの時間になる。
 幸せな時間だ。
「皆既日蝕を君と暁慈、あさひと見られるのが嬉しいね。友人がチケットを取っていたのだが急に行けなくなってしまってね。譲り受けたんだよ。私たち家族は運が良かったということになるね」
「そうですね。嬉しいです」
 香穂子は親子四人水入らずで日蝕を見るのが、何よりも楽しみだ。
「あきちゃんにも良い想い出になると思います。あさひには早いですけれど」
「そうだね。彼らには良い経験を沢山させてあげたいんだよ。懐の深い、良い人間になって貰いたいんだよ」
「はい。それはそう思います。あきちゃんやあさひにはグローバルな視点を持って貰いたいです」
「ああ。そうだね」
 ふたりは意見を一致させると、にっこりと微笑んでみせた。

 前日、日蝕ツアーの準備で随分とバタバタした。
「ママー、これなに?」
 暁慈は日蝕グラスを触って、不思議そうに見ている。
「それは日蝕グラスといって、太陽が欠けていくのを見るものだよ」
「た、太陽が欠けちゃうの? ネズミにでもかじられたの?」
「違うよ。お月様と重なるから、見えなくなるんだ。何も心配しなくても大丈夫だよ」
「おちょくじはしないの?」
「食事? 太陽は月には食べられないよ。どちらかと言えば、太陽大好きって、お月様が寄って行くんだよ」
「まるでママが大好きって寄っていくあきちゃんみたい」
 暁慈は香穂子に擦り寄ると、甘えるように笑った。
「太陽さんにお月様が結婚こーんしたいって言うんだねー」
「まあ、そのようなものかな」
 香穂子は上手く真実を伝えることが出来なくて、曖昧に答えた。
 吉羅が苦笑いを浮べるのは解ってはいたのだが。
「あきちゃんの荷物もまとめたから、準備はこれで良いかな?」
「あきちゃんのおもちゃが入ってない…」
「直ぐに帰ってくるから、おもちゃは沢山は持っていけないんだよ。あきちゃんの大好きな、しましまじろうのぬいぐるみは入れたから」
 香穂子は息子に言い聞かせるように言うしかなかった。
「ママ、あさひは平気なの?」
「あさひは大丈夫だってちゃんとお医者様から許可を貰ったから、大丈夫だよ」
「良かった!」
 暁慈は安心したように笑顔になった。

 いよいよ横浜港から船に乗り込む。
 一家で本格的に旅行をするのは初めてだ。
 旅行をすると言っても、吉羅はしっかりと仕事を持参している。
 こうして船の上でも普段通りに仕事が出来るのが吉羅の強みだ。
 何処でも仕事が出来ない場合もあるが、大概の案件はこうしてしっかりと仕事をこなす事が出来た。
 ただミーティング関係が難しいということだけなのだ。
 吉羅はかなり精力的に仕事をこなして、今日からの旅行にこぎ着けた。
 今回は船上でも仕事が出来ることから、戻ってからもかなり余裕のある仕事が出来た。
 親子四人で船に乗り込む。
 四人家族の個室が用意されていて、のんびりと過ごすことが出来た。
「ママ、外出たい」
「香穂子、あさひは私が見ているから、ふたりでデッキに行ってくると良い」
「有り難う。じゃあ、あきちゃん、行こうか」
「あいっ」
 香穂子は息子の手を引いて、デッキへと出る。
 海と空の色が素晴らしい。
 思わず見入ってしまう。
 しかも爽やかな海風が吹いて、香穂子は心地よい時間を過ごすことが出来た。
「しゅごく気持ちが良いよ」
「そうだね。あきちゃん、船の上は気に入った?」
「…あいっ!」
 暁慈は、瞳を輝かせて、空と海を見つめている。
 息子にこのような機会を与えてくれた吉羅に、香穂子は感謝以外の何もなかった。

 昼下がり、家族みんなで海を見ながらランチを食べる。
 暁慈の燥ぎようは相当のものだった。
 吉羅も香穂子も、本当に連れていって良かったと、思わずにはいられなかった。
 暁慈はランチを食べた後、ぐっすりと眠ってしまい、あさひもまたおっぱいを飲んだ後で眠ってしまった。
 ふたりの愛しい子どもの寝顔を見つめながら、吉羅も香穂子も深く癒された。
 こんなにも癒されることは他にないのではないかと思った。

 いよいよ皆既日蝕当日。
 朝から暁慈は落ち着かなかった。
 周りの大人の雰囲気から、とても素敵なものが見られるのではないかと思ったからだ。
 皆既日蝕が始まる直前に家族でデッキに出た。
 日食グラスを掛けながら、吉羅に教えて貰った方向を眺める。
「太陽さんっ!」
「そうだ間も無く欠け始めるよ。暁慈が生まれた世界の神秘だ。しっかりと目に焼き付けておきなさい」
「あいっ」
 暁慈が目を凝らして見ると、太陽がしっかりと欠けていくのが解った。
「うわっ!太陽しゃんが綺麗に隠れてる!」
「周りもご覧? お昼間なのに夕方みたいだろう?」
「本当だあ…」
 海と空が神秘的に蒼から茜色、そして柔らかな紫でグラデーションを作り出している。
 海と空の境が解らない程の見事な一体感に、香穂子は泣きそうになるぐらいに感動した。
 あさひはまだ分からないかもしれないが、この美しさを知って欲しいと思う。
 やがて空が暗くなり、太陽が月に完全に隠された形になった。
 コロナが輝いて見えるだけだ。
「うわっ! ママのしゅてきな指環みたいっ!」
「そうだよ、あれがダイアモンドリングというんだ。素晴らしいだろう? 本当に綺麗だろう?」
 太陽の光が月のクレーターに反射することによって起こるダイアモンドリングを、暁慈はうっとりと恍惚と見つめていた。
 やがて空と海は明るくなり、短い宇宙の奇蹟は終わった。
 あちこちから拍手が沸き上がり、暁慈も一生懸命手を叩いていた。
「しゅごいっ! しゅごいっ!」
 暁慈が見ている間、ずっと吉羅は息子を抱き上げていた。
 その優しさに香穂子はまた恋をしてしまう。
「とーしゃん、あのふしゅぎをお勉強ちゅるにはどうしたら良い?」
「宇宙飛行士になるか、天文学者になるかだね」
「それになるっ!」
 暁慈は決意を込めて表明している。
「君にはお父さんの会社も継いで貰いたいんだけれど、まあ、お母さんがいっぱい跡継ぎを産んでくれるから構わないか」
 吉羅の言葉に、香穂子はまた真っ赤になってしまう。
 出来れば沢山の子どもが欲しい。
 皆既日蝕に想いを込めて、香穂子はお願いをする。
 それはきっと叶うから。



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