*リング*


 久し振りに学院の高等部に顔を出すと、衛藤桐也と出くわした。
「香穂子先輩」
「衛藤君! もう三年生なんだよね。調子はどう?」
「まあまあかな。ウィーンへの留学と大学の進学も決まったから、後は、それまでに更にヴァイオリンの解釈を広げるように頑張るだけだよ」
「私も負けないように頑張るね!」
 香穂子の力強い言葉に、衛藤は笑顔で頷いてくれる。
 照れたように髪をかき上げた時に、指環が光った。
「衛藤君、ずっと不思議に思っていたんだけれど、学院のカレッジリングをずっと着けているよね? 新しく作ったにしては、味が出ていると思うけれど…」
「ああ、これ? 暁彦さんにねだって貰ったものなんだよ。かなり粘り強く交渉したけど」
 少し自慢げに言う衛藤が羨ましい。
 吉羅のカレッジリングだなんて、なんて素敵で羨ましいものを持っているのだろうか。
 香穂子がじっと見つめていると、衛藤が苦笑いを浮かべた。
「本当に羨ましそうな顔をしているね。暁彦さんの従弟の特権かな? 香穂子さんなら、もっと良いリングを貰えるんじゃない?」
「え…?」
 もっと良いリング。
 その言葉に香穂子はドキリとする。
 吉羅にリングを貰ったことはない。
 そんな思わせぶりなことは決してしないから。
 吉羅とは、きちんとした形で男女の付き合いはしているが、まだまだ将来の確約とかをする段階ではないと判断されているのだろう。
 ある意味慎重過ぎる吉羅らしい。
「…こればっかりは、いくら香穂子さんでも譲れないかな? 申し訳ないけれど…」
「うん、解っているよ」
 衛藤がどれほど吉羅を慕っているかを、香穂子はよく解っているつもりだ。
 だからこそねだったりは出来ない。
「じゃあ俺は授業があるから。またヴァイオリンを聴かせてくれ。大学の定期演奏会にも顔を出すよ」
「うん、衛藤君。有り難う」
「ああ」
 衛藤と別れた後、香穂子はゆっくりと校舎に入り、理事長室へと向かった。
 吉羅に呼び出されていたのだ。
 香穂子は背筋をシャンと伸ばすと、ドアを慎重にノックした。
「理事長、日野です」
「ああ。入りたまえ」
 吉羅のいつも通りの硬くて冷たい声が響き、静かに理事長室へと入った。
「すまないね、呼び出したりして」
「いいえ」
 香穂子が笑顔で答えると、吉羅がじっと見つめてきた。
「桐也と楽しそうに長い間話していたようだが、何を話していたのかね?」
「衛藤君がしているカレッジリングについてです」
「ああ。あれは私が作ったもので、桐也にあげたものだ」
 吉羅は懐かしそうに言うと、フッと笑う。
「それがどうかしたのかね?」
 ねだるなんて香穂子には出来ないから、ただニッコリと笑う。
「素敵なリングだと話していたんです」
「そうか…」
 吉羅はフッと目を閉じると、僅かに口角をあげた。
「今日はどのようなご用ですか? 理事長」
「ああ。横浜市の音楽フェスティバルでまたオーケストラの要請があってね、今度は土浦君を指揮者に、君をコンミスに指名したいと思っている」
「有り難うございますわしっかり頑張りますね」
 香穂子が笑顔で答えると、吉羅は深く頷いてくれる。
「ああ。頼んだ」
 吉羅は一呼吸置くと、香穂子を柔らかなまなざしで見つめてくる。
「それと、授業の後、時間はあるかね?」
 吉羅はゆっくりと近付いてくる。
 そのまなざしがとても艶やかだった。
「もちろんです」
「だったら、いつものカフェで待っていてくれないかね」
「解りました」
 ふたりだけの甘い時間。
 それがどれほど大切で貴重かを、ふたりはお互いによく解っている。
 こうして一緒にいることだけが幸せなのだ。
「オケと指揮者の顔合わせは後日行なう。ヴァイオリンには桐也も入って貰うから」
「はい」
 香穂子は、吉羅から書類を受け取ると、キリリと返事をする。
 すると、吉羅が近付いてきて、耳元で囁いた。
「楽しみにしているから…」
「はい…」
 香穂子はほんのりと頬を赤らめた後、吉羅に深々と頭を下げて理事長室から出た。
 今夜は吉羅と過ごせる。
 それだけで嬉しかった。

 香穂子は待ち合わせのカフェに向かい、ゆっくりとお茶をする。
 美味しいケーキを食べながら大好きなひとを待つのは、珠玉の時間だ。
 香穂子がケーキを食べ終わる頃、吉羅がゆっくりとカフェに入ってきた。
「お待たせしたね」
「良いタイミングです。ケーキを食べ終わったばかりですから」
「そうか」
 香穂子が吉羅に微笑むと、向かい側に座ってくれた。
 吉羅はコーヒーを頼むと、香穂子を甘く見つめてくる。
「今夜は私とずっと一緒にいられるかな…?」
「お母さんには連絡をしておきました。だから大丈夫です」
「良かった」
 吉羅は本当に蕩けるように微笑むと、香穂子の手の甲を、一瞬だけ柔らかく撫でてくれた。
「私も暁彦さんと一緒に過ごせて嬉しいです」
「有り難う」
 ふたりで軽くお茶をした後で、駐車場まで向かう。
「今夜はうちで過ごさないか?」
「はい。嬉しいです」
「ふたりでゆっくりとしたいのでね。あ…、パスタとイベリコ豚を使ったサラダ、それにスープを作ろうか、お嬢さん」
「私も手伝いますね」
「ああ」
 素敵な夜景を見ながらうっとりと高級レストランで食事をするのも良いが、香穂子にとっては吉羅の家でゆったりと温かな食事をするのが、何よりも楽しかった。
「私…、暁彦さんとふたりきりで食事をするのが何よりも幸せなんです。素敵な時間だって思います」
「私もだよ。ふたりきりで私の家で食事をするのが、一番気に入っている」
ふたりの心が重なったようで、香穂子は嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。

 吉羅の家に行き、ふたりで仲良く食事の支度を始める。
 イベリコ豚を使ったリーフとビーンズがたっぷりのサラダ、鯛のカルパッチョ、菜の花と帆立てのパスタ、根菜とチキンのスープ。デザートは途中のパティスリーで買ったロールケーキ。
 勿論少量のワインも欠かせない。
 ふたりで準備を終えた後、いつものように乾杯をする。
 ようやくアルコールを口に出来るようになったから、少しずつ慣らしていっている。
「ではお疲れ様ということで」
「はい」
 ふたりだけで乾杯をして、ワインと食事をゆったりと楽しむ。
 お互いに嗜む程度にアルコールを味わった。
 力を合わせて作った料理は、どれも美味しい。
 香穂子はにこにこと微笑みながら食事を楽しんだ。
 ロールケーキまで食べ終わった後、後片付けをしようと立ち上がると、吉羅に制されてしまった。
「少し座っていてくれないか?」
「…はい…」
 言われた通りにすると、吉羅は立ち上がって寝室へと向かった。
 戻ってきた時には小さなジュエリーケースを持っていた。
 吉羅は香穂子の前で跪くと、左手を取る。
「…君にはカレッジリングよりも違うリングを渡したくてね…」
「暁彦さん…」
 香穂子が鼓動が苦しくなるほどにときめいて、泣きそうになった。
「…君には…カレッジよりも…エンゲージと付いたリングのほうが相応しいからね」
 吉羅はそう言うと、香穂子の左手薬指にリングをはめてくれた。
「…結婚を約束してくれないか…? 君と…私は近いうちに結婚したいと思っている…」
 いつかそうなれば良いのにと、くすぐったく想像していたプロポーズ。
 それが起こるなんて、香穂子は思ってもみなかった。
「…有り難うございます…。喜んで…」
 嬉しくて泣けてきて、後は言葉にすることが出来なかった。
「有り難うございます…。本当に嬉しいです…」
「私こそ…有り難う…」
 吉羅と香穂子は立ち上がると、お互いに抱き合ってキスをする。
 カレッジリングよりも素敵なリングに、香穂子は幸せを感じていた。



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