*立春*


 今日は立春。

 暦の上では春ということだ。

 だが、そんなことは嘘だろうと、香穂子は思う。

 今が、一年のうちで一番寒いのだから。

 流石に、臨海公園での練習は厳しいし、森の広場で練習をしている生徒もほとんどいない。

 誰もが練習室で練習しているのだ。

 香穂子は、外での練習は、解放感があって大好きではあるのだが、流石にこの寒さは耐えられそうになかった。

 ヴァイオリンを弾く指先が悴んでしょうがないのだ。

 休日も学院の練習室で練習だ。

 あと一月もしたら、再び臨海公園や街で練習することも出来るだろう。

 春ならば、春のチャーミングセールあたりから始めれば良い。

 香穂子は、今日も学院に向かう。

 大好きな誰かさんも、きっと仕事をしているに違いない。

 香穂子が商店街を歩いていると、ふいに花屋が目に入った。

 春の花であるバラが、可憐に咲きほこるのを見るだけで、春になったような気持ちになり、わくわくする。

 よく見ると、バラの小さな花束が特価になっている。

 理事長室に飾ったら、春が来たように思えるだろう。

 香穂子はバラの小さな花束を買い求めた。

 花を持って店を出ると、春めいた気分になる。

 ほわほわとして、今すぐスキップしたくなってしまうほどだ。

 香穂子は、先程と比べて全く寒くないと思った。

 気持ちだけでも春が来るのが、こんなにも違うのだと、改めて思う。

 ふと、パティスリーが目に入る。

 パティスリーでも、すでに春は始まっている。

 ベリータルトが、春らしく売られている。

 一番寒い季節だというのに、商店街は、すでに一足早く春に模様替えをしているようだった。

 ブティックも靴屋さんも、冬はもう端に追いやられてしまい、春になっている。

 香穂子は、パティスリーのベリータルトが気になり、買い求めることにした。

 店に入り、香穂子がベリータルトを買うと、お試しでローズティーのティーバッグを付けてくれた。

 お茶とベリータルトはとても合うに違いない。

 香穂子は嬉しくてたまらないと思いながら、更に軽やかな足取りで学院へと向かった。

 港から厳しく吹き抜ける海風なんて、気にならない。

 それほどに、香穂子はほわほわとした気分でいた。

 

 学院に着くと、香穂子は直ぐに理事長室へと向かった。

 当初の予定では、練習室で練習をすることにしたのだが、折角、素敵な春をつかまえたのだから、大好きな人にそれを見せたかった。 

 大好きな人に、いち早く春を感じて貰いたかった。

 香穂子は、理事長へと軽い足取りで向かう。

 きっと大好きな人は、仕事をしている。

 だからこそ、少しでも温かな気持ちに浸って欲しいと香穂子は思う。

 理事長室のドアをノックすると、よく響く声が聴こえてきた。

「日野です。理事長」

「ああ。入りたまえ」

 吉羅の艶やかな声が聴こえ、香穂子は静かにドアを開けた。

「失礼いたします」

 香穂子はゆっくり丁寧に部屋に入る。

 吉羅は相変わらず仕事をしていた。

 クールだ。

「君は自由登校だろう?今日は練習に来たのかね?」

「はい。それと、春を連れて来ました」

「なるほど」

 吉羅は、香穂子が抱えている花束を見つめて、納得するように頷いた。

 香穂子は、理事長室にある小さなパントリーに向かう。

 そこで、バラの花を活け、お茶の準備をする。

 いつもは珈琲派の吉羅ではあるけれど、今日は華やかな香りを滲ませるバラの花のお茶を楽しんで貰いたかった。

 香穂子は花を活けて、先ずは吉羅の視界に入る場所に飾る。

 そのあと、お茶を淹れ、とっておきのベリータルトを皿に置いた。

 これだけですっかり春が来た気分だ。

 吉羅に少しでも春を感じて貰いたかった

「理事長、少し、休憩されませんか?」

「ああ」

 吉羅は、パソコンの画面から視線を解いた。

 疲れているのか、目頭を押さえた。目薬もさしている。

 かなり疲れているのだろう。

 このひとときだけでも春を感じて、心を癒して欲しかった。

 吉羅は、バラの花に視線を向ける。

 すると僅かに和んだような表情になる。

「今日は珈琲ではなく、紅茶ですよ」

 香穂子は楽しげに言うと、吉羅にベリータルトとバラの紅茶をそっと差し出した。

「有り難う。春だね」

「はい、今日は立春ですから」

 香穂子の言葉に、吉羅はカレンダーを見る。

「そうか……。もうそんな時期なのか……」

 吉羅は、気づいていなかったようで、溜め息を吐いた。

「まだ外は寒いですが、少しでも春を感じて頂きたくて」

「有り難う」

 吉羅はクールに呟くと、香穂子を温かな眼差しで見つめ返した。

 香穂子は自分のベリータルトと紅茶を応接セットに置いて食べる。

「春の味です!」

「確かに、君が言う通りに春の味だね」

 香穂子と吉羅は、互いの顔を見つめて、うっとりと微笑みあった。

 この視線の甘さに、香穂子はついつい微笑んでしまう。

 春の味覚よりも、香穂子には吉羅の眼差しのほうがほわほわと温かくて素敵だと思った。

「目と舌で春を感じさせて貰ったが、今度は耳で感じさせて貰いたいが、構わないかね?」

 吉羅の期待に満ちた、柔らかな春の眼差しのような視線に、香穂子は頷く。

 直ぐにヴァイオリンを取り出すと、立ち上がった。

「ヴィヴァルディの春はいかがですか?」

「定番だね……。悪くはないだろう」

「では、定番中の定番を弾きますね」

 プリマベーラ。

 春の女神がやってきたような、その陽射しにふさわしい音楽を奏でる。

 温かな気分だ。

 香穂子は、姿勢を美しく伸ばすと、そのままヴァイオリンを奏でた。

 春名曲と言うのは、奏でるこちらまで、春が来たような気持ちになる。

 香穂子は、吉羅にもっともっと春を感じさせたくて、ヴァイオリンの調べを爽やかに清らかに華やいだものにする。

 理事長室に春が到来したような気分になった。

 香穂子がヴァイオリンを奏で終わると、吉羅は拍手をしてくれた。

「春を有り難う」

 香穂子を見つめる吉羅こそ、その笑顔で、温かな春を運んできてくれたのだ。

「こちらこそ、有り難うございます」

 香穂子が礼を言うと、吉羅はその身体をそっと引き寄せてくる。

「有り難う、私の春の女神……」

 吉羅は香穂子の頬にまろやかなキスをする。

 今年も春がやってきた。

 香穂子にも、吉羅にも。

 一足早く素晴らしい春がやってきたのは、言うまでもなかった。



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