*桜色*


 春が訪れた。
 柔らかな春が。
 美しく切ない桜の花が満開になるのを、香穂子は嬉しく思った。
 ベッドから見上げれば、窓の向こうに桜が見える。
 窓の外から見える美しく麗しい桜をもう少し近くで見たくて、香穂子は窓辺に寄る。
 窓辺から桜を見ると、本当に綺麗でうっとりとしてしまう。
「…どうしたのかね…?」
 背後から抱き締められて、香穂子は甘いときめきを感じずにはいられない。
「…暁彦さん…。桜に誘われたんですよ」
「私のヴァイオリニストさんは詩人だね…」
 吉羅は更に強く抱き締めてくると、香穂子の耳朶に甘いキスを送った。
「…私としては、もう少し君とベッドで一緒にいたかったけれどね…。私は桜に負けてしまったのかな…?」
「そんなことはありませんよ」
 香穂子は苦笑いを浮かべると、お腹に回された吉羅の手を握り締めた。
「…君は本当に綺麗だね…。桜の花より魅力的だと私は思うよ」
「有り難う…」
 香穂子は吉羅に総てを預けるように凭れかかると、ゆっくりと目を閉じた。
「…お花見に行きませんか?」
「お花見ね…。良いかもしれないね。以前、君と仲間たちと一緒に花見をしたことがあったね…」
「そうでしたね、あの時はもう暁彦さんが大好きでしょうがなかったですから…、私はドキドキばかりしていましたよ。そばに理事長がいるって…」
「私も既に君に夢中になっていたからね…。君がそばにいるのが、とても幸せだったよ」
 ふたりはお互いにフッと笑みを浮かべると、互いの手をしっかりと握り締めた。
「もう一眠りするかね? それとも…、花見の準備をするかね?」
「花見の準備をしましょうか。お弁当を作って行きましょう」
「そうだね」
 吉羅はようやく抱擁を解いてくれたが、手を繋いで寝室へと向かう。
「明日はふたりでゆっくりとしよう。君も余り疲れないほうが良いだろうからね」
「はい。有り難うございます」
 香穂子は笑顔で吉羅に言うと、頬に口付けた。

 着替えた後、香穂子は朝食とお弁当を作る。
 お弁当は花見に相応しい、おにぎりや卵焼きなど定番のおかずや、チキンやポークといったものを入れる。
 本当に定番ばかりを重箱に詰め込んで完成だ。
 お弁当を手早く作り終えた後で、定番である茶粥の朝ご飯を食べた。
「お花見なんて本当に嬉しいです」
「そうだね。久しぶりだね。来年は、もっと賑やかな花見になるね」
「そうですね」
 香穂子はくすりと笑うと、吉羅を見た。
 香穂子のお腹はかなり大きくなってきている。
 初夏には生まれる予定だ。
 こんなにも嬉しいことはない。
 ふたりで愛し合った証が、かけがえのない命として誕生するのだから。
「来年はバギーカーと一緒だね」
「そうですね」
 香穂子は手早くお弁当の準備をすると、吉羅に笑いかけた。
「お待たせしました」
「じゃあ行こうか」
 吉羅が荷物を持ってくれ、ふたりは車に向かう。
 もうすぐ子どもがやってくるから、吉羅はランボルギーニから、安定感のあるBMWを新たな愛車にした。
 車に乗り込んだ後、吉羅は香穂子に訊いてくる。
「香穂子、何処に行きたいかね?」
「桜が綺麗なところは沢山あると思うのですが、私はやっぱり…学院が良いです」
「確かに学院の桜はとても美しいとは思うが…、花見に絶好な場所があるのはあるんだが…、理事長がその妻のヴァイオリニストと一緒に花見をしていたら、皆、じっと見ないかね?」
「大丈夫です。皆が知らないようなとっておきの場所があるんですよ。それに今日はお休みだから、皆は来ていないですよ。だから大丈夫です」
「…それなら構わないのだがね…」
 吉羅はしょうがないとばかりに苦笑いを浮かべる。
「私も学院の森が美しい桜のスポットであることは解っているからね…。だから今回はそこにしようか」
「はい。来年も、赤ちゃんに綺麗な桜を見せてあげたいですから、赤ちゃんのためにも来ましょうね」
「君には構わないね…」
 吉羅は笑みを浮かべると、学院に向かって車を出してくれた。

 学院の駐車場に車を停めて、吉羅と静まり返った学院をゆっくりと歩く。
 時折、音楽科塔から楽器を練習する音が聞こえてくる。
 オーケストラ部の練習する音もだ。
 恐らくは火原が今日も顧問として大車輪ぶりを発揮していることだろう。
 香穂子は聞こえる音色が総て柔らかくて素晴らしいと思いながら、にこにこと笑っていた。
「胎教に良いですね。学院の雰囲気は」
「そうだね」
 吉羅はごく自然に香穂子と手を繋いでくれる。
 もう恥ずかしくはないのだろう。
「さてと、君が桜のベストスポットだと思っているのは何処かね?」
「森の中ですよ。こちらです」
 香穂子は吉羅の手を引っ張るように歩いていく。
 森の中に入り、香穂子はにっこりと楽しい気分で笑ってしまう。
「あの先にあるんです。偶然、猫を追いかけていって発見した場所なんですよ」
「そうなのか」
 香穂子は目的地が見えてきて、つい笑顔になる。
「暁彦さん、あちらですよ」
 香穂子は吉羅を学院一、いや、横浜一美しい桜スポットに案内した。
「これは…見事だね…。私もかつては学院の生徒だったのに、気付かなかったよ」
 吉羅は目の前の風景に、息を呑む。
 それほど美しい風景だ。
 薄いピンクの花びらが天蓋のように空を覆っているように見える。
 透き通った桜の宝石だ。
 いつまでも見ていたいと思うほどに素晴らしい。
 子猫のくしゃみで花が散ってしまうのかと思うほどに、儚さを秘めている。
 こんなに綺麗な桜は他に見たことがないと、香穂子も思った。
 麗らかな春の光のスポットライトを浴びた桜は、世界で一番のスーパースターのようだ。
「ここは芝生もありますから、絶好の花見スポットなんですよね」
「そうだね。そう思うよ」
「じゃあ、お花見の準備をしましょうか?」
「ああ」
 香穂子は持ってきたレジャーシートを綺麗に敷いて、そこにお弁当を置く。
 冷えないようにと、膝掛けとクッションは持ってきた。
 それらを並べて、香穂子は最高の花見を準備した。
「さてと、お弁当をつまみながら、ゆっくりお花見をしましょう。ヴァイオリンも持って来ましたから」
「有り難う」
 ふたりはのんびりした気分で桜を見ながら、お弁当を食べる。
「やっぱりお花見にはおにぎりだなあって思います」
「そうだね。きっと子どもたちの大好物になるよ。おにぎりは彼らにとってはお母さんの美味しい手作りのお弁当になるだろうからね」
「はい」
 おにぎりとおかずを食べながら、のんびりとする。
 ただこうしてふたりで柔らかくてのんびりした時間を過ごせるのが、何よりも大切に思えた。
「ヴァイオリンを弾きましょうか?」
「有り難う。お願いするよ。赤ん坊には良い調べになるだろうからね」
「はい」
 香穂子は立ち上がってヴァイオリンを奏でる。
 春に相応しい”魅惑のワルツ“だ。
 それを奏でた後、吉羅が横になった。
「膝枕をしましょうか?」
「有り難う」
 吉羅は香穂子の膝を枕にすると、突出たお腹を抱き締める。
 そのままゆっくりと目を閉じた。
「吉羅香穂子! 素晴らしい演奏だった!」
 リリやファータたちが嬉しそうに賑やかにやってきたが、香穂子はしーと指を唇に宛てた。
「パパも赤ちゃんも寝ているから…」
「解ったのだ」
 リリもしょうがないとばかりに頷く。
 美しい桜を見て、ファータたちに囲まれて、香穂子はなんて幸せなのだろうかと思った。



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