*卒業式のキス*


 今日は卒業式。

 香穂子も高校生ではなくなる。

 星奏学院の高等部から卒業するのだ。

 星奏学院大学の音楽学部に進むため、縁がなくなるという訳ではないのだが。

 だから、ずっと大好きなひととは、理事長と生徒の間柄は変わらない。

 吉羅とは、まだ繋がっていられるのだ。

 それは嬉しい。

 だが、枷は取れない。

 高校生ではなくなるため、禁忌まではいかないかもしれないが、関係性は余り変わらないと、香穂子は思う。

 吉羅が手を伸ばせば届くようで届かない存在であることは、変わりない。

 香穂子の為に、然り気無く手を差し伸べてくれたひと。

 最初は、敵対している人だったのに、今は誰よりも、香穂子の味方になってくれている。

 愛しいひと。

 けれどその想いを明かせない。

 住む世界が違うひとだから。

 そして禁忌な関係であるから。

 自分だけの想いを押し付けるわけにはいかないのだ。

 

 香穂子は卒業式の間、何度も吉羅を見つめていた。

 吉羅をしっかりと記憶に焼き付ける。

 大学に行ってしまうと、吉羅とは今までのように頻繁に逢うことが出来なくなるから。

 だからせめて今は、せめて記憶にしっかりと吉羅の姿を焼き付けていたかった。

 吉羅ばかりを見つめて泣きそうになっていた卒業式も無事に終わり、香穂子はひとり教室に残る。

 理事長室に行って、吉羅に卒業の報告をしたい。

 だが、それが憚れてしまう。

 吉羅にもう逢えないというわけではないというのに、泣いてしまいそうな気がしたから。

 挨拶に行かなければならない。

 あれだけお世話になって、これからもお世話になるのだから。

 香穂子は、卒業式後の騒ぎが少し収まれば、吉羅のところに行こうと思った。

 ぼんやりと窓の外を見つめる。

 もう、春なのだ。

 ぼんやりと考えながら、香穂子はじっと空を眺めていた。

 不意に、教室の引戸が開かれる。

「ここにいたのか」

 低い無機質な声が教室に響き渡り、香穂子は思わず振り返った。

 するとそこには吉羅が立っている。

 相変わらず、見とれてしまいそうになるぐらいに、スーツを隙なく着こなしている。

 今は、いつもに増して、大人の男性の艶が滲んでいるような気がする。

「理事長、何かご用ですか?」

 香穂子は鼓動を激しく高めながら、潤んだ瞳を吉羅に向けた。

「用がないと、君に逢ってはいけないかね?」

 低い声に優しさが僅かに滲んでいる。

「そ、そんなことはありません」

 不意打ちのように、吉羅が甘さを見せつけるものだから、香穂子は更に鼓動を高める。

「それは良かった。君に卒業のお祝いをしなければならないと思ってね」

「有り難うございます」

 吉羅はゆっくりと黒板の前に向かい、香穂子もそれに続く。

 ふたりは黒板の前で向かい合う。

「卒業おめでとう、日野くん。大学でも更に頑張ってくれたまえ」

 吉羅は甘くて艶やかな優しい眼差しを香穂子に向けてくれる。

 吉羅の視線に、香穂子の感情は高まり、泣きそうになる。

 感動と感激に、香穂子は瞳に涙をいっぱい貯める。

「有り難うございます、吉羅理事長」

 香穂子は心を込めて吉羅に礼を言うと、涙が滲んだ瞳を大好きなひとに向けた。

「吉羅理事長、今まで陰で色々と支えて下さいまして、有り難うございました。吉羅理事長がサポートをして下さったので、私はここまで来ることが出来ました。有り難うございます。これからも、宜しくお願いします」

 香穂子は頭を深々と下げた。

 頭を下げた瞬間、香穂子の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。

「日野くん、顔を上げたまえ」

 吉羅の温かさの滲んだ声に、香穂子は顔を上げる。

 瞳から涙がこぼれた瞬間に、吉羅に抱き締められた。

「吉羅理事長……」

「もう、君は高校生ではないからね。日野くん、これからもずっと、私のそばにいてくれないかね?」

 吉羅の低い声は、ひどく真面目で、真摯だった。なのにそこには、蜂蜜のような濃密な甘さが感じられる。

 幸せすぎて、香穂子は泣いて良いのか、笑って良いのかが、分からなかった。

「……そばにいても、良いんですか?」

「そばにいて欲しい……。私は君が好きだ」

「はい、そばにいます。大好きです、吉羅さん」

 吉羅はもう一度香穂子を抱き締めると、顔をゆっくりと近づけてくる。

 

 不意に、騒がしい話し声が、廊下から聴こえてきた。

 吉羅と香穂子は互いに顔を見合わせる。

 吉羅に腕を取られたかと思うと、いきなり教卓の下に連れ込まれた。

「り、理事長!?」

「静かにしていなさい」

 吉羅が囁いたかと思うと、ゆっくりと顔が近づいてきた。

 スローモーションでシーンが動いてゆく。

 まるで映画のせかいに迷いこんでしまったような、そんな錯覚を覚えた。

 唇が軽く触れた。

 最初はいきなり過ぎて、香穂子は目を閉じることが出来なかった。

 吉羅はフッと笑うと、再び唇を近づけてくる。

 唇が深く触れあう。

 心も同じように深く触れ合っているような気持ちになった。

 ドキドキし過ぎて、香穂子は、夢のなかにいるような気持ちになる。

 目が自然に閉じられる。

 吉羅は、香穂子の手をしっかりと握り締めてきた。

 何度もキスをしている間に、騒がしい話し声はいつの間にか通り過ぎていた。

 唇を互いに離した後、ふたりは笑顔になる。

 こんなにも素敵で甘いキスは、想像していなかった。

 ファーストキスが、ドラマティックでロマンティックだなんて、思ってもみないことだった。

「理事長室へ行こう」

「……はい」

 吉羅は教卓の下から素早く出て、香穂子に手を差し伸べてくれる。

「有り難うございます」

 香穂子が教卓から出ると、吉羅は手を離した。致し方がないこととはいえ、香穂子はほんのりと切なくなった。

「着いてきなさい」

「はい」

 吉羅に着いて、緊張しながら理事長室へと向かう。

 恥ずかしいが、嬉しくて、楽しい。そんな気分だった。

 理事長室前と来ると、吉羅はエスコートをして香穂子を先に部屋の中に入れてくれる。

 吉羅が部屋に入ると、鍵をかける音が響いた。

「さあ、続きを始めようか?日野くん……」

 吉羅は香穂子を抱き締めると、もう一度キスをしてくる。

 卒業式。

 それは新しい旅立ちを祝うもの。

 香穂子の恋の新たな始まりには、相応しい日となった----



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