*夏のひととき*


 夏休みになっても、熱心に学院に通う生徒たちは練習に来る。
 勿論、日野香穂子も例外ではない。
 今日も誰よりも早く練習室に来て、練習に明け暮れている。
 学院大学の音楽学部を志望しているせいか、かなり頑張っている。
 その努力を、吉羅は陰ながら見守っていた。
 今日は殆ど生徒たちが来ていない静かな日。
 夏休みだから旅行に行く生徒も多いからだろう。
 恐らく、この広い学院にこうしているのは、香穂子、吉羅、そして守衛担当だけかもしれない。
 昼近くになり、聞慣れた足音が、理事長室前に響き渡る。
 考えなくても解る。
 香穂子だ。
 想像通りに、ノック音が部屋に響き渡った。
「吉羅理事長、日野です」
「ああ。入りたまえ」
「失礼致します」
 香穂子がまるでヴァイオリンを奏でるかのような声で言いながら、理事長室に入ってきた。
 私服のせいかいつも以上に大人びて見える。
 出会っておよそ一年しか経っていないというのに、香穂子は日に日に大人の美しい女性へとステップアップしている。
 一日逢わないだけで、かなり艶のある女へと変化している。
 本当にひとときたりとも見逃すことが出来ないほど、急激に成長している。
 最近では、美し過ぎて見とれてしまうほどだ。
 この自分にそんなことが起こるなんて、吉羅は今まで想像だにしなかった。
「こんにちは、理事長」
 向日葵よりも輝く笑顔を向けられると、こころが柔らかく癒される。
 だが、ここで笑顔は見せられない。
 吉羅はわざとらしくしかめ面をすると、ちらりとだけ香穂子を見上げた。
「何か用かね?」
「学院にいるのは、私と理事長、警備員さんだけですよ、今日は」
「それがどうしたのかね?」
 吉羅があっさりと素っ気なく言っても、香穂子はニコニコと笑ったままで吉羅を見る。
「だから、これから私たちふたりもおやすみしませんか? 何処かに遊びに行きましょう! 理事長!」
 全く懲りてはいないというのか、香穂子は明るく笑ったままで吉羅を見ている。
「私はこの通り仕事中だ」
 吉羅は努めてクールに言い、パソコンの画面に集中しようとする。
 しかし、香穂子は諦めるつもりは更々ないとばかりに、相変わらずニコニコ笑って、吉羅を待っている。
 本当に何がそんなに楽しいのかと思ってしまう。
 吉羅の仕事する様子をニコニコと笑いながら見ている。
 そんな可愛いらしい表情を見せつけられたら、こちらも折れるしかないではないか。
 吉羅は、とうとう香穂子の甘くて可愛い誘惑に負けてしまうと、溜め息を吐いて、パソコンをシャットダウンした。
 三日先の仕事まで片付いているから、問題はないだろう。
 香穂子の明るい笑顔をもっと見たい。
 仕事をし続けることで、がっかりさせたくはなかった。
 吉羅がパソコンのカードリーダーから、セキュリティ用のカードを抜くと、香穂子の笑顔は更に明るいものになった。
 太陽のような眩しい笑顔だ。いや、太陽よりも明るいものかもしれない。
 吉羅はわざとらしく溜め息を吐くと、香穂子をわざと冷たく厳しいまなざしで見つめる。
「…そんな顔をされていると…、仕事がはかどらない。今日はもう仕事をするなという啓示を受けたようだね」
 吉羅はうんざりとした表情に笑顔を滲ませると、華やいだ表情の香穂子を見つめる。
「待っていてくれたまえ。直ぐに支度をする」
「はい! 嬉しいです。お付き合い下さいまして有り難うございます」
 香穂子のにんまりとした笑顔に癒されながら、吉羅は席から立ち上がった。
「仕事ばかりも勿体ないからね。暑いかもしれないが…、ゴルフに行こう。手頃なハーフコースがあって、君も楽しめるだろう」
「ゴルフ…ですか?」
 余りに意外過ぎるスポーツに、香穂子は驚いているようだった。
「ああ。ゴルフだ。ビジネスをする上では必要なスキルだからね。ある程度、身に着けておいた」
「そうなんですか。それだったら納得です。理事長に似合いそうで似合わないスポーツですから」
 香穂子が楽しそうにくすくすと笑っているのがとても魅力的だ。
「君だってそうじゃないのかね? 君の場合は似合わないがね」
「…似合わないと思います」
 香穂子は自分で想像をして納得しているようだった。
「では、行こうか」
「はいっ!」
 香穂子は、シンプルだが夏らしいワンピースの裾をダンスするかのように跳ね上げながら、楽しそうに歩いていく。
 今日は、天からボーナスを貰えたような気分になった。

 車に乗り込み、吉羅はハーフゴルフコースがある、避暑地へと向かう。
「吉羅さんは、やっぱり山派ですか? イメージ的には海派って感じなんですが」
「私は川派だがね。渓流釣りをしたいものだ」
 しらりとわざと言うと、香穂子は拗ねているのに楽しそうな明るい表情を浮かべた。
「もうっ! からかわないで下さい。何だか最近、吉羅さんにはからかわれてばかりのような気がします」
 香穂子は口を尖らせて、まるで小さな子どもが拗ねた時のような愛らしい表情をする。
 全く、なんて可愛い表情をするのかと思う。
 このままこの腕に閉じ込めて、その表情を独占出来たら良いのにと思わずにはいられなかった。
「…まあ、私は車派だろうけれどね。車が好きだから、ドライブが最高のストレス解消になる。第三京浜を走り抜ける時なんて、とても楽しいがね」
 何時になく饒舌なのは、やはり香穂子が隣にいるからだろうか。
 香穂子とふたりでいると、こころが開放的になるような気がするから。
「吉羅さんならオープンカーが似合いそうですね」
「実家に置きっ放しだが、オープンカーならある」
「だったら今度、乗せて下さいね。私、サングラス掛けて、スカーフを頭に被ったスタイルで、ワンピースを着て乗ってみたいです」
「まるでハリウッド映画のワンシーンみたいだね」
 香穂子のその姿を想像しながら、かなり似合うのではないかと思う。
 これは恋をした欲目なのだろうかと思った。
「…君がそのようなスタイルをするのならば、私は、髷でも着けて乗ろうかね」
「ま、髷?」
 香穂子は驚いたように、目を丸くして吉羅を見る。
 その表情がまた可愛い。
「横浜は文明開化の土地だからね。やってみるのも面白いかもしれない」
 しらりとクールに言うと、香穂子はまたくすくすと笑う。
 普段は女性相手に冗談など言うことは有り得ないが、香穂子相手では言える。
 それが自分自身不思議でならなかった。
「もう冗談ばっかり。だけど楽しいかもしれませんね」
「…楽しい…かね?」
 ふたりで顔を見合わせると、思わず吹き出してしまった。
「だが、一度、オープンカーで何処かに行こうか。君さえ良ければ」
「良いに決っています。吉羅さんと一緒にオープンカーに乗れるなんて、ロマンティックで嬉しいですから」
「…それは良かった」
 本当に、香穂子とこれからも様々な場所に出掛けることが出来れば良いのにと思わずにはいられない。
「君が望むのならば、また一緒に出掛けよう」
「有り難うございます。私も色々なところを吉羅さんと一緒にお出かけしたいです」
 香穂子の明るい声と微笑みに釣られるように、吉羅もまた笑う。
「…そうだね。これからも様々な場所にふたりで行こうか。時間が許す限り」
「はい! 喜んで!」
 香穂子のはっきりと伸びやかな返事に笑みを浮かべながら、吉羅はハンドルを切る。
 これ以上に快適な午後はないと思いながら。



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