*白い卒業式*


 今日はホワイトデイ。

 同時に香穂子の卒業式でもある。

 大好きなひととは、引き続き“理事長と学生”の関係ではあるが、高校生の頃のような禁忌さはなくなる。

 それは香穂子が責任を自分で取ることが出来る年齢になったと見なされて行くからだろう。

 香穂子は、いつも通りに落ち着いてクールな雰囲気で卒業式に出席している吉羅を見る。

 本当に冷徹な雰囲気で、他人を近付けさせない。

 香穂子ですら近付けない雰囲気だ。

 卒業生代表として、土浦が登壇する。

 普通科から音楽科へと転科した珍しいパターンだが、香穂子も同じ同志としてずっと頼もしく思っていた仲間だった。

 土浦という仲間がいたからこそ、転科した一年間をしっかり頑張ることが出来たのだろう。

 本当に同じ仲間として感謝だ。

 この春からも同じように学院大学の音楽学部に進む。

 土浦は、日本では数少ない指揮科に進み、香穂子はヴァイオリン専攻に進む。

 目指すところは微妙に違っているが、大きな意味で進む場所は変わらない。

 これからもずっと仲間で居続けることが出来るだろうと、香穂子は思っている。

 土浦の他にも色々と感謝しなければならないひとがいる。

 受け入れてくれた音楽科の仲間や、教師、応援してくれた普通科の友達、そして色々と世話を焼いてくれた金澤。

 金澤も新しい世界に踏み出していくのだ。

 そして。

 誰よりも感謝しなければならないのは理事長の吉羅だ。

 吉羅がサポートをしてくれなければ、音楽科に転科することなんて、到底、出来るはずもなかった。

 香穂子は、こうして最もやりたい道を切り開いてくれた吉羅には、感謝をしてもしきれないと思っている。

 そんな想いが胸に去来してしまい、香穂子は本当に何度も泣きそうになっていた。

 吉羅への想いが更に高まる。

 今日はホワイトデイだけれども、お返しなんて期待しているわけじゃない。

 そんなものはどうでも良い。

 今日はそんなことなく、笑顔で有り難うを言いたかった。

 涙を瞳から何度も零しながら、香穂子は笑おうと努力をしたがなかなか出来なかった。

 今日ぐらいは泣いても良いだろうか。

 香穂子はそう思いながら、涙を流しっぱなしにしていた。

 

 クラスメイトや担任、仲間たちに挨拶をしていく。

 外部進学をする仲間はそんなにもいないから、3年間のお礼を込めた挨拶だ。

 だが、金澤にはしっかりと挨拶をしておかなければならない。

 金澤は学院の教師ではなくなるのだから。

「金澤先生、本当に色々と有り難うございました。いつかきっとステージで金澤先生と共演がしたいです。そのためにも一生懸命に頑張ります!」

 香穂子は深々と頭を下げた後、決して泣かないようにと笑顔を向けた。

 ふたりともこれから新しい、輝かしい未来に向かっての旅立ちなのだから、涙も湿っぽい話も必要は無い。

「ああ。俺こそ、お前さんには沢山感謝をしなくちゃな。有り難う。お前さんたちに出会って、俺はようやく音楽と向き直ることが出来るようになった。本当に感謝している。もう一度、夢にチャレンジをしてみたいと思わせてくれたのは、何よりもお前さんだったからな。本当に感謝している」

 金澤の瞳には、もう出会った頃の暗い澱みは無く、未来に向かって光り輝いている。

 清々しいと言っても良い。これが金澤の本来の姿なのだろうと、香穂子は思った。

 金澤とはいつか同業者として、同じ音楽を愛する者としてステージに立ちたい。

「…私も、先生には色々とお世話になりました。有り難うございました!」

 涙を見せずに、香穂子は清々しい笑顔で頭を下げた。

 すると金澤は手を差し延べてくれる。

 しっかりと握手をして、お互いのこれからの頑張りを励ました。

「日野、誰かさんが理事長室でイライラしながら待っているぜ。行ってやれ」

 金澤の一言に背中を押される。

 吉羅に逢いにいくのは迷惑にならないだろうかと、心配していたのだ。

「はい! では行って来ます! 金澤先生! また、逢いましょう! お元気で!」

「ああ、お前さんも」

 香穂子は金澤に大きく手を振った後で、理事長室のある特別棟へと向かった。

 高校生として最後の訪問。

 緊張しながら、香穂子は理事長室のドアを叩いた。

「理事長、日野です」

「入りたまえ」

 相変わらず冷たい声がドアの向こうから聞こえて、香穂子はくすりと笑う。

「はい、失礼致します」

 香穂子が静かに理事長室に入ると、吉羅は窓辺から振り返った。

 柔らかな早春の光を浴びた吉羅は、胸がいっぱいになってしまうぐらいに素敵だ。

「…卒業おめでとう」

 吉羅は、いつもよりも更によく通る甘く優しいテノールで、祝辞を言う。

 見守ってきた者の優しき大きな愛が感じられる。

 いつもこうして見守ってくれていた。

 香穂子に本当に生きる意味を教えてくれた。

 そしてひとを愛することを教えてくれた。

 吉羅が本当に優しいまなざしをくれたものだから、香穂子は今まで閉じ込めていた吉羅への熱い想いが溢れてくるのを感じた。

 熱い涙が瞳から溢れ出て来る。

 もう抑えることが出来なくて、香穂子は涙を沢山零しながら、頭を下げた。

「理事長、今まで有り難うございました!」

 香穂子は頭を深々と下げたまま、なかなか上げることが出来ない。

 それだけ吉羅への想いが溢れかえっていた。

「…日野君、顔を上げたまえ」

 吉羅の深みのある声が聞こえたかと思うと、ゆっくりと近付いてくるのが解った。

「…日野君…」

 この上なく優しい声で名前を呼ばれたかと思うと、綺麗な指先で涙の痕をそっと拭われた。

 心臓がときめきと緊張でドクンと音を立てて跳ね上がった。

 そのまま顎に触れられて、顔を上げさせられる。

 ゆっくりと顔を上げると、吉羅がフッと慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。

 こんな風な笑みを見せられると、また泣けてくる。

 香穂子が泣くのを止めないでいると、吉羅は困ったように笑った。

「…君はしょうがないね…。泣くんじゃない、折角の門出なんだからね…」

「…え…」

 吉羅は話し終えた途端に、香穂子をその胸でしっかりと抱き締めてきた。

 吉羅にこんなにも強く抱き締められたことなんて、今まではなかった。

 それゆえに胸が感激の余りに詰まる。

「…吉羅さん…」

 こうして吉羅に抱き締められると、様々な想いが去来をして泣けてきた。

「…日野君、卒業おめでとう…。君はしょうがないね、折角の門出だというのに…」

「ごめんなさい…」

 顔を上げた途端、吉羅の顔がかなり近くにやってきた。

 香穂子が目を見開いていると、そのまま唇が近付いてくる。

 本能で目を閉じた瞬間に、吉羅の唇が重なる。

 そのまましっとりとキスが降りてきて、香穂子はうっとりとせずにはいられなくなる。

 唇が離れても、香穂子は魂ごと吉羅に持っていかれてしまった後だった。

 ぼんやりと吉羅に魅せられたように見つめていると、フッと微笑んで、香穂子に額を着けた。

「私のバレンタインの答えはこれだよ。君が高校生でなくなるのを、ずっと待っていたんだよ」

「…吉羅さん…」

 香穂子は声を掠れさせながら、ただ真直ぐ吉羅を見る。

 嬉し過ぎて瞳に大きな涙が滲み、潤んだまなざしを吉羅に向ける。

「嬉しいです…、ずっとずっとあなたが好きでしたから…」

「…日野君…」

 吉羅は照れるようにフッと笑った後で、香穂子の涙を拭ってくれた。

「…君を誰よりも好きだ…。ようやく言えるようになったよ…」

「吉羅さん…」

 吉羅はスッと離れると、机の引き出しからリボンがついた小さな箱を取り出す。

「バレンタインのお返しだ」

「有り難うございます。開けて良いですか?」

「ああ」

「有り難うございます」

 香穂子は指先が震えるのを感じながら、箱のリボンを外して、開ける。

 そこには、香穂子のバースデーストーンがあしらわれた綺麗なペンダントが入っていた。

「有り難うございます。とても嬉しいです」

「それは良かった」

 吉羅は僅かに笑みを浮かべて言った後、香穂子のフェイスラインを愛しげに撫でた。

「卒業おめでとう。そのお祝いも込めているよ」

「有り難うございます」

 香穂子は頷くと、泣き笑いの表情を浮かべながら、吉羅を見上げる。

「今までずっと見守って下さって有り難うございます。あなたには色々なことを教えて頂きました。色々と支えて頂きました。これ以上ないぐらいに支えて下さって有り難うございます」

 吉羅はただ黙って香穂子を抱き寄せてくれる。

「私も君には支えて貰っていた。君の笑顔があったからここまで頑張れたんだ。日野君」

「吉羅理事長…」

「これからもお互いに支えあっていこうと。今日からはまた新しい関係になるのだから」

「はい…」

「今日からは、更に近い関係で付き合っていこう。君とはかけがえのない関係を築きたい」

「はい」

 ふたりは見つめあう。

 今日からは生徒と理事長ではない。

 今日からは恋人として、また新しい時間を過ごしていく。




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