*ヴァレンタインデイ*


 今年のヴァレンタインデーは平日で、しかも、高等部の合格発表と、入学説明会の日と重なっている。

 吉羅がかなり忙しい日だ。

 当然、ヴァレンタインデートなんて悠長なことは言えない日だ。

 しかも、香穂子は、説明会に普通科出身のヴァイオリニストとして、出演することになっている。

 その後にふたりきりにはなれないのも解っているから、そっとヴァレンタインデーのチョコレートを渡しておこうと思っている。

 そのチャンスすらないのかもしれないが。

 香穂子は隙を狙うために、ちゃんとトリュフチョコレートを作ってきた。

 やはり吉羅には手作りのチョコレートをプレゼントしたかった。

 吉羅だけは特別にだ。

 香穂子は手作りチョコレートと、吉羅へのプレゼントを用意した。

 プレゼントは、吉羅が疲れた時に、笑うことが出来るように、愉快な猫のオーケストラの置物にした。

 隙間時間を狙って、吉羅に渡せば良い。

 ただ、大学生だとはいえ、売るさ方の理事たちにバレてはならない。

 生徒との恋愛だなんて、もっての他だと思うだろうから。

 香穂子は、然り気無くオブジェのように吉羅へのプレゼントを置こうと思った。

 

 ヴァレンタインデーの当日、香穂子は保護者の前でのヴァイオリンの演奏準備で忙しかった。

 勿論、吉羅も忙しいせいか、デートの約束は勿論してはいない。

 それは残念だがしょうがない。

 初めてのヴァレンタインではないし、これからも数えられないぐらいに吉羅と過ごすことが出来るのだから。

 だから今回はタイミングが悪かったと思うしかない。

 香穂子はそう考えて、深呼吸をするしかなかった。

 香穂子は先ず、理事長室へと向かう。

 理事長に挨拶をするのは表向きで、然り気無くヴァレンタインデーのチョコレートとプレゼントを置くのだ。

 目立たずに、かつ、吉羅が確実に気づく場所に置くつもりだ。

 もう目星はついている。

 それが終われば、香穂子のミッションは終わるのだ。

 香穂子はそっと理事長室の重厚な扉をノックする。

「理事長、日野です」

「入りたまえ」

「はい」

 香穂子は、慎重に理事長室に入る。中に誰がいるのか、分からないからだ。

 理事たちがいるかもしれないから、かなり意識が引き締まる。

 理事長室に入ると、理事たちはいなかった。だが、いつ部屋の中に入ってくるのかはかはわからないら、あくまで慎重をきす。

「失礼致します」

「日野くん、今日はよろしく頼む」

「はい、吉羅理事長」

 誰も関係者がいないことぐらいは解っている。

 だが、慎重を期して、香穂子は公的に振る舞った。

 吉羅もそれは同じようで、香穂子には素っ気ない態度に徹している。

 香穂子は吉羅が必ず気付く場所である、アタッシュケース置き場に然り気無く、ヴァレンタインのプレゼントを置いておいた。

「日野くん、学院の教育の素晴らしさを伝えるには、君の演奏を聞いて貰うのが一番だからね」

「はい。何とか頑張ります」

 吉羅の理事長としてのプレッシャーに、香穂子は身が引き締まる。

 足音が聞こえる。

 そろそろ行ったほうが良いだろう。

「では、準備がありますから行きますね」

「待ちなさい、日野くん」

「はい」

 腕をいきなり取られたかと思うと、そのまま抱きすくめられてしまった。

 熱い抱擁に、香穂子はドキドキし過ぎて、喉がからからになる。

「……今日は頑張ってくれたまえ。期待している」

 吉羅は艶やかな声で、香穂子に迫ってくる。

 艶のある声に、香穂子は飛び上がってしまうぐらいに、ドキドキした。

 足音が止まる。

 その瞬間、吉羅は香穂子を離してくれた。

「し、失礼します、理事長……」

 余りにもときめきすぎる出来事に、香穂子は動揺を隠すことが出来ずに、真っ赤になりながらそのまま理事長室から出た。

 本当にたまに大胆不敵な行動に出る吉羅に、香穂子はビックリさせられっぱなしだった。

 

 香穂子は講堂の楽屋で何とか落ち着きを取り戻して、準備を進める。

 吉羅の力に少しでもなれたらと、思わずにはいられない。

 香穂子は集中する。

 どうか素晴らしい演奏が出来ますようにと、祈らずにはいられなかった。

「日野さん、そろそろ、スタンバイをお願いします」

「はい」

 香穂子は呼ばれて、背筋を伸ばして舞台袖へと向かう。

 すると、話を終えた吉羅が香穂子に近づいてくる。

「日野くん、頑張ってくれたまえ」

「頑張ります……」

 言い終わる瞬間に、吉羅の腕に体を奪われる。

「あ、あのっ、あ、暁彦さんっ、誰かが来たら……んっ……!」

 吉羅に深い角度で甘いキスをされる。深すぎるキスに、香穂子は胸が切なくなるぐらいにいっぱいになった。

 深い情熱的なキスに、総てを奪われてしまうのではないかと、香穂子は思ってしまった。

 ようやく吉羅の唇が離れる。甘い激しいキスに、香穂子は頭がくらくらしそうになった。

「頑張ってくれたまえ。見守っている……」

「はい」

 吉羅のキスに頭がぼんやりとしてしまう。

 ゆきはドキドキしながら、吉羅を見送ることしか出来なかった。

 

 いよいよステージに立つ。

 香穂子はかなり集中をして、ヴァイオリンを演奏する。

 学院で得られたことを、総てこの音に込めたかった。

 香穂子が心を込めて演奏し終わると、会場からは割れんばかりの拍手が響き渡る。

 想いを伝えることが出来たことが、香穂子は嬉しかった。

 ステージから下りると、吉羅が袖で待ってくれている。

 相変わらず不遜に腕を組んでいる。

「日野くん、悪くはなかった」

「有り難うございます」

 吉羅はクールな理事長としての眼差しを香穂子に向けてくれていた。

「帰る支度が出来たら、理事長室に来てくれたまえ」

「はい」

 今日はヴァレンタインだからドキドキする。

 デートのご褒美だろうか。

 想像するだけでうきうきする。

 香穂子は、直ぐに帰る支度をすると、ダッシュで理事長室へと向かった。

「理事長、日野です」

「入りたまえ」

 理事長室に入ると、いきなり、抱き締められて、甘くて濃密で情熱的なキスを受けとる。

 キスの後、吉羅は、まっすぐ真摯で熱いまなざしを香穂子に送った。

「ヴァレンタインのプレゼント、有り難う。お返しは今からたっぷりさせてもらうよ」

「暁彦さん、有り難う」

 忙しいふたりの、甘いヴァレンタインはこれから始まる。




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