*ホワイトディの願い*


 横浜には、幾つもの恋の伝説が散りばめられている。

 例えば、キング、クィーン、ジャックの三塔が見える場所三ヵ所、県庁前、赤レンガ倉庫、大桟橋で祈れば恋が叶う。

 とか。

 或いは、みなとみらいのランドマーク的なホテルである、インターコンチネンタルホテルの最上に鎮座している女神像に願えば、恋の願いが叶う。

 とか。

 とにかく、結ばれる伝説が散りばめられている。

 勿論、その逆もあることはあるのだが。

 香穂子も横浜で生まれ育ったからか、その伝説を強く信じている。

 特にどうしても大好きなひとがいる時は。

 どうしても、どうしても諦めきられないぐらいに好きなひとがいる。

 これ程までに誰かに恋をしたことなどないと、言い切られるほどに、大好きなひとだ。

 香穂子よりもずっと年上で、大人の大好きなひと。

 香穂子はほんの少しでもそのひとに近付きたいと思っている。

 ヴァレンタインデーにもチョコレートを手渡して、香穂子なりの強い想いを伝えたつもりでいる。

 だが、相手は、香穂子が通う学校の理事長。

 義理チョコだと思われる可能性もかなり高いのだ。

 それは、それで切ないものがある。

 香穂子にとっては、文字通りの本気チョコレートなのに。

 甘くてそして切ない味の恋そのものの味だというのに。

 もうすぐ、ホワイトデーだ。

 お返しはきっとしてくれる。意外に律儀な吉羅だから。

 だが、それが義理のものなのか、香穂子は分からない。

 義理の可能性がかなり高いかもしれない。

 だから。

 ホワイトデー前で、虫が良い話なのかもしれないが、香穂子は恋の神様に祈りたくなった。

 恋の伝説に、想いを託したくなった。

 香穂子は先ず、県庁前からスタートすることにした。

 吉羅に以前連れていって貰った、高級レストランの近くだ。

 あのときはまだ恋が始まった頃で、ドキドキしたのを覚えている。

 今では、あの頃のドキドキが、とても瑞々しかったことを思い出す。

 今は、それよりもずっと深い想いに支配されていて、本当に心苦しい。

 香穂子は深呼吸をするだけで溢れてくる恋心に、胸が潰れそうになってしまう。

 切なくて、そして苦しい。

 いくら一途に思っても、それは一方的で、何もならないのではないかと、思わずにはいられない。

 香穂子は、三塔のビューポイントに立つと、深呼吸をして、真っ直ぐな気持ちで祈った。

 真っ直ぐな気持ちで、心の底から願う。

 吉羅が欲しい。と。

 自分でも、かなり大胆だと思わずにはいられない。

 ヴァイオリンの練習を疎かにしてまでも、香穂子はホワイトデー前の祈りをせずにはいられない。

 この祈りが終わったら、ちゃんと練習をするから。

 それだけを誓って、香穂子は午前中に三塔と女神像を制覇することに決めたのだ。

 次は大桟橋だ。

 香穂子は傾斜に気合いを入れながら、大桟橋に向かった。

 

 大桟橋には、珍しく日本丸が停泊していた。

 その影で、三塔が上手く見られない。

 香穂子は、それもまた良いのかもしれない。

 香穂子は、ゆっくりと風に吹かれながら、真っ直ぐ見つめた。

 どうか、この切ない恋が叶えば良い。

 泣きそうになるぐらいに大好きなひとと、恋が叶えば良いのにと、思わずにはいられなかった。

 目を閉じて、純粋に恋の成就を祈る。

 香穂子は祈った後、深呼吸をした。

 次は、赤レンガ倉庫に向かう。

 向かう途中で、香穂子は、沢山のカップルを見つめる。

 本当に幸せそうだ。

 吉羅ともこのようになれたらと、思わずにはいられない。

 吉羅と手を繋いで歩いてみたい。

 ふたりで他愛ない話をしたいと思う。

 普通の恋人同士のような、甘い時間を過ごしたい。

 どれも、夢であるだろう。

 香穂子は、恋人たちを見て、甘く温かな想いと、切なくて苦しい想いと、どちらも抱いた。

 三塔巡りの終着店。赤レンガ倉庫だ。

 いつもここのポイントだけは分かり難くて、迷ってしまうのだ。

 香穂子は、春先のまだ冷たさを滲ませた風に吹かれながら、最後のポイントを見つけた。

 ここで終わり。

 香穂子は一番の気合いを入れて、ポイントに立つと、一所懸命、祈る。

 大好きなひとと結ばれる為に、祈る。

 香穂子は澄んだ気持ちで祈った後、思わず微笑んだ。

「さてと、みなとみらいまで歩くかな」

 香穂子はのんびりと、みなとみらいに向かってゆっくりと歩く。

 インターコンチネンタルホテルに向かって歩く。

 ゆっくりと歩いていると、幸せな気持ちになってくる。

 先ずは遠くから、女神を見上げて祈る。

 どうか、この恋心が届く。

 香穂子は、しっかりと祈った後、インターコンチネンタルホテルのロビーに向かう。

 そこには、女神の原型が飾られている。

 なかなか、高級ホテルには縁がないから、香穂子が訪れることはないのだが。

 香穂子はロビーならば、誰でも受け入れて貰えると想い、最後の祈りを込める。

 もうすぐ、ホワイトデー。

 どうか、ほんの少しで良いから、吉羅に気持ちが届きますように。

 香穂子は強く祈る。

 ヴァイオリンの音色から、楽譜から、吉羅に気持ちが届けば良いのにと、思ってしまう。

 好きだという純粋な気持ちを持つだけでは、いけないのだろうかと、思わずにはいられない。

 香穂子は一番長く強く祈った後、振り返って帰ろうとした時だった。

「日野くんではないかね?」

 一番大好きで止まない声が響き渡り、香穂子は思わず振り返る。

 するとそこには、吉羅が立っていた。

 綺麗な女性と供に。

 決定的だと思った。

 女神様もイタズラが過ぎる。

 純粋に恋を祈ったら、こうして最悪の結末を直ぐに見せてくれるなんて。

 これは辛い。

「こんにちは、吉羅理事長」

「ここに用でもあったのかね?」

「少しだけ。だけどもう行きます。ヴァイオリンの練習をしなければならないですから」

 香穂子が行こうとすると、吉羅は声を掛けてきた。

「待ちたまえ」

 香穂子が立ち止まると、吉羅は同行していた女性に声をかける。

「では、例の件、よろしくお願いします。私は彼女に話がありますから、これで失礼します。ちなみに伝えておいたヴァイオリニストは彼女です」

「畏まりました。では、吉羅さんまた。ヴァイオリニストさんも」

 吉羅も女性も、いかにもビジネスライクな態度で挨拶をした。

「日野くん、食事に行こう。君と話がしたい」

「はい。あの方は宜しいのですか?」

 香穂子が恐る恐る訊くと、吉羅は奇妙な顔をした。

「彼女はビジネスが絡んでいるだけだ。話が終わったからもう構わない」

 吉羅はキッパリ言い切ると、香穂子の手をいきなりきつく握りしめてきた。

 あまりに突然で、香穂子は飛び上がってしまいそうになるぐらいに驚く。

 だが、嫌じゃない。

「日野くん、私はきちんとホワイトデーのお返しはするつもりだからそのつもりで。義理ではなく……、ね」

 吉羅の一言に、香穂子は飛び上がりたくなるぐらいに、華やかな気持ちになる。

 三塔と女神像が叶えてくれた奇蹟だと思わずにはいられない。

 香穂子は伝説は本当だと、確信していた。




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