「後いくつ寝たら、ママのヴァイオリンを大きなところで聴けるの?」 美暁に訊かれて、香穂子は視線を合わせてにっこりと微笑んだ。 「あと二つ寝たらね。お父さんと一緒に、おとなしく聴いていてね」 「うん! リリにね、ママの演奏を大きなおうちみたいなところで聴くって言ったら羨ましいって!」 吉羅と香穂子の息子であるせいか、美暁は今までの吉羅一族のなかでも、最もファータと相性が良い。 今までは学院でしか会えなかったリリが、美暁だけは家でも逢うことが出来る。 「この間ね、“ゆーもれすく”の楽譜をリリから貰ったんだよ。楽しく楽しく弾けるかなあ? ママはいつも楽しく弾いていたけれど、お父さんはナマイキだったって! ナマイキってどういう意味?」 息子の言葉に、香穂子は苦笑いを浮かべる。今の台詞を吉羅が聴けば、とんでもないことになるだろう。 「美暁、“ナマイキ”というのは、とっても上手にヴァイオリンを弾けたということだ」 吉羅の声が聞こえて、香穂子は思わず振り返った。 「暁彦さん」 吉羅を見ると、いつも以上に素っ気無い顔をしている。 「じゃあ僕も“ナマイキ”になるっ!」 吉羅そっくりの顔で得意そうに言うものだから、香穂子は苦笑いをするしかなかった。 「それぐらいでないと男は困るからね。美暁、お前はヴァイオリンは好きかね?」 吉羅は息子を抱き上げると、その瞳を優しく見つめる。 「大好き! ママと同じぐらいに好き!」 息子の利発な声に、吉羅は目を細めた。 「そうか。楽しんでヴァイオリンをやるのは良いことだからね」 「お父さんよりも僕のほうがずっとママのことを好きだよ」 美暁の言葉に、吉羅は唇を少しだけ歪める。 「ママを世界で一番愛しているのは、お父さんだと思うけれどね」 吉羅は、子どもに対して本気で張り合っている。 その姿に、香穂子は微笑んだ。 「ねえママっ! お父さんと僕とどっちが好きなのっ!?」 美暁の質問に、香穂子は困ってしまって苦笑するしかない。 「…難しいな…。どっちも大事にだからね。本当だよ。ふたりとも大事なんだよ。だから選べないというか…」 子どもに対する愛情と、夫に対する愛情は違うのだということを上手く言いたいが表現することが出来ない。 「よしちゃんは、ママの大切な大切な子ども。お父さんはママにとってかけがえのないひとなんだ」 香穂子は上手く説明してあげることが出来なくて、困ってしまう。 香穂子が困ったように笑うと、美暁は甘えるように香穂子に小さな手を伸ばしてきた。 「ママが一番だよ。僕は」 「よしちゃん」 香穂子が頭を撫でると、美暁は気持ち良さそうに目を細める。 吉羅もしょうがないとばかりに目を細めていた。 ようやく美暁を寝かしつけて、香穂子は眠る準備をする。 「今日は参ったよ。美暁には。まあ、私は美暁よりも君を愛して必要としていることに自信はあるけれどね」 「もう、暁彦さんまで…」 香穂子が苦笑いしながら髪を梳いていると、背後から抱き締められた。 「…あっ…」 「…そろそろ二人目を考えようか…」 「そうですね。美暁もしっかりとしてきましたから…。それに…暁彦さんの赤ちゃんをまた産みたいですし…」 香穂子の言葉に、吉羅は満足そうに笑みを浮かべる。 「そうだね」 吉羅はそのまま香穂子を抱き上げると、ベッドへと連れていく。 「私が世界で一番君を愛しているということを、きちんと説明しなくてはならないからね」 「…はい…」 香穂子は、吉羅に力強く抱き締められると、そのまま甘い感覚に溺れた。 コンサートの当日、吉羅は美暁を連れて楽屋へと訪ねてくれた。 「準備はどうかね?」 「はい。すっかり出来ましたよ。有り難うございます」 香穂子は、シックで清楚な白いドレスに身を包んでいる。 「ママ、とっても綺麗! あのね、このまま、僕のお嫁さんになって!」 「無理だよ。美暁。ママはお父さんのお嫁さんだからね」 吉羅の言葉に、美暁は何処か不満そうに唇を尖らせる。その表情が愛らしくて、香穂子は微笑んだ。 「今日は一生懸命見ていてね? ママ、頑張るから、よしちゃんはお父さんと一緒に、聴いてね」 「うん。ママのヴァイオリンを聴くよ」 「お願いね」 吉羅は息子を軽々と抱き上げる。 吉羅のスーツと同じ生地でオーダーした美暁の子供用スーツはシックでとても似合っている。ふたりを見ていると、本当に幸せな気分になってしまう。 「香穂子、そろそろ客席に向かうよ。美暁とふたりで、たっぷりと聴かせて貰うよ」 「はい、楽しみにしていて下さいね」 香穂子の言葉に、吉羅は頷くと楽屋からそっと出て行く。 ふたりに楽しんで貰えたらそれで構わないと思いながら、香穂子は精神統一を始めた。 吉羅は美暁の手を引いて客席に着く。 通路を歩いている間、誰もが自分たちに視線を送っているのに気付いていたが、どうでも良かった。 吉羅にとって見つめて欲しいのは、香穂子だけだ。 きっと暁美もそう思っているにちがいない。 お揃いのスーツを着こなしたままで、ふたりはステージをじっと見つめていた。 有り難いことに、美暁はヴァイオリンを聴いている時だけは、いつもおとなしくしてくれている。 今回のコンサートも、それゆえに連れて来ることが出来た。 美暁を座らせた後、吉羅もその横に腰を掛ける。 ふたりで並んでいると直ぐに親子だと解るようで、誰もが微笑ましいとばかりの笑みを浮かべていた。 くすぐったいが悪くない感覚だ。 「美暁、もうすぐ始まる」 「楽しみだよ。ママのヴァイオリン大好きなんだ」 「お父さんも、ママのヴァイオリンは一番だと思っているよ」 ふたりは意見の一致を見たからか、お互いにそっと微笑みあった。 いよいよ開演を知らせるブザーが鳴り響き、幕が開く。 スポットライトを浴びた香穂子はとても美しくて、吉羅は思わず見惚れてしまう。 だが、香穂子を一番美しいと思えるのは、やはり自分の腕の中にいる時だと、思ってしまう。 美暁を見ると、一生懸命母親を見つめて、音に聞き入っている。 吉羅は、息子でありながらもライバルでもある美暁を見つめて微笑んだ。 演奏に集中しながら、香穂子は直ぐに吉羅と息子の姿を見つけた。 人生でかけがえのないふたりに、香穂子は微笑まずにはいられない。 ここにいる総てのひとのために。 いつも支えてくれる愛しい家族のために。 香穂子は魂の底からの感謝を込めて、ヴァイオリンを奏でていた。 総てのプログラムが終わると、スタンディングオベーションで迎えられる。 アンコールの声に、香穂子は家族がお気に入りの曲を幾つか演奏をした。 怒濤の拍手と歓声に、泣きたいほどに嬉しくなる。 こんなにもの幸せは他にないと思わずにはいられなかった。 ステージが終わると、楽屋に愛する家族が訪ねてきてくれた。 ふたりの姿を見るなり、香穂子はうっとりと溜め息を吐く。 本当に完璧なふたりだと思う。 「今日は本当にどうも有り難う」 香穂子はふたりを抱き締めて、暫くじっとしていた。 「今日のコンサートは悪くなかった」 「有り難うございます」 「ママ、素敵だったよ」 「有り難う、よしちゃん」 香穂子がにっこりと笑うと、美暁はギュッと抱き着いてきた。ふたりを包み込むように、吉羅が傍にきてくれる。 三人いると本当に完璧に思える。 香穂子にとっては、最早”パーフェクト・ファミリー”なのだ。 「香穂子、ささやかな打ち上げをしようか。三人で…」 「はい。有り難うございます」 香穂子は幸せな気分になりながら、そっと頷いた。 |