*甘い時間*


 高校三年生の時に、全国学生音楽コンクールヴァイオリン高校生部門で全国一位を取り、大学二年の今年は、ウィーンのコンクールでヴァイオリン部門の一位に選出され、香穂子は文字通り、クラシック界期待のヴァイオリニストとして、名前を知られ始めている。
 吉羅が言うところの、“有名ヴァイオリニスト”に手が届きつつある。
 そのお陰か、それともお互いにもう待てなかったのは解らないが、吉羅と男女の付き合いを始めて数ヶ月になり、週末は一緒に過ごすことが多くなってきた。
「何だか、最近、うちばかりで申し訳ないね。出かけられれば良いのだが、仕事が立て込んでいるからね」
 吉羅のすまなさそうな表情を、香穂子は笑顔で受け止める。
「私、暁彦さんと一緒だったら、本当に何処でも良いんですよ。こうしておうちで過ごすのも楽しいですし」
 香穂子は吉羅に笑顔を向けると、本当に楽しい気分で恋人を見つめた。
「私も最近忙しかったですし、すれ違いが多かったので、こうしてまったりと甘えられるのって、幸せなんです。暁彦さんをチャージしないと、良い演奏が出来なくなるんです」
「…香穂子…」
 吉羅はフッと香穂子だけにしか見せない、甘えるようなまなざしを向けると、抱き寄せてくる。
 いつもは氷のように冷たくて、学院生徒のなかでは“クールビューティ”だなんて揶揄されている吉羅ではあるが、香穂子とふたりきりの時だけは、その氷が穏やかに溶けていく。
 吉羅は香穂子に甘えるようにその胸に顔を埋めると、暫くじっとしていた。
 柔らかな吉羅の髪を指先で梳きながら、香穂子のこころは幸せで満ち溢れてくる。
 こんなにも幸せな気分になれるのは、ふたりきりの時だけなのだ。
 こうして甘えてくれるのが嬉しい。
 いつもは香穂子が甘えることのほうが、圧倒的に多いものだから、こうして吉羅を甘やかせてあげられる瞬 間が何よりも好きだった。
 香穂子は吉羅を抱き締めたまま、逞しい肩のラインをなぞる。いつも香穂子を守ってくれる背中だからこそ敬意を込めて愛しく撫でた。
 吉羅は香穂子よりもかなり年上だけれども、こうして甘えて貰えるのが嬉しい。
 ふたりでお互いを支えあっていることを感じることが出来るから、何よりもこの瞬間が幸せでしょうがなかった。
「…いつもすまないね…。私が甘えたがりで…」
「私だってたっぷりと甘やかせて貰っていますから、お互い様ですよ」
「有り難う…」
 吉羅は顔を上げると、香穂子の頬に円やかなキスをくれた。
「最近、忙しそうですね? 新しいプロジェクトですか?」
「少子高齢化で、大学の定員が減ってくるだろう? だから、誰にでもより学び易い環境を作ろうと、託児所を計画している。子育てで学ぶことを諦めていたひとにもじっくりと学んで貰おうと思ってね。君が、胎教の為のクラシックCDに参加したのがヒントになってね。音楽科の生徒にも協力を貰って、託児所にはクラシック音楽を充実させようと思っている。後は託児所内で、音楽セミナーを充実させようかとも思っていてね。その為の設備作りで今は忙しいかな。後は、一般向けに経済セミナーを充実させたり、マスコミセミナーも新設する予定だよ」
 香穂子は吉羅の話を聞きながら、実現すればどんなにか素晴らしいだろうと思う。
 吉羅が理事長になってからの星奏学院は、様々な斬新な取り組みをしていて、高等部も大学も、誰もが入学を憧れる場所になっている。
 特に大学の音楽学部、高校の音楽科の講師陣や教育プログラムが充実しており、下手に留学するよりも星奏学院で学んだほうが力がつくとすら言われている。
「暁彦さんが講師陣を充実させて下さったから、私、凄く助かっているんですよ」
「それは君を長い間留学させたくない私の我が儘が大きいと思うけれどね」
 吉羅はまるで少年のように笑うと、香穂子を更に強く抱き締めてくる。まるで幼子が母親にすがりついてくるかのように。
「私も長い間、留学出来なくなっていますから、お互い様です。暁彦さんがいないと、頑張れないからですよ」
 香穂子もまた、吉羅に甘えるように寄り添った。
「外ではこんなに暁彦さんに甘えられないですからね」
「そうだね」
 ふたりはお互いに支えあうように抱き合うと、暫くの間じっとしていた。
「託児所の着工ももうすぐだから、少しは時間も取れるようになるから、その時は何処かに行こうか。息抜きに」
「嬉しいです」
 香穂子が素直に笑うと、吉羅は含み笑いを浮かべる。
「それに託児所を作れば、君の外堀が埋まるからね」
「私の外堀?」
「子供が出来ても、君に安心してヴァイオリニストとしての勉強をして貰いたいと思っているからね」
 吉羅は何でもないことのようにさらりと口にしたが、香穂子は驚きとドキドキで、真っ赤になりながら吉羅を見る。
「あ、あの、その、わ、私が…」
 香穂子は何を言って良いのかすら自分では解らなくて、言葉を詰まらせる。
「…私は、ずっと、君と一緒になりたいと、君と家族になりたいと思っていたよ。君は私の最高のパートナーになると。家族を育む相手は、君しかいないと思っていたよ」
 吉羅は香穂子の瞳を覗き込むように見つめると、その頬を撫でる。
 「ファータのことを解ってくれて、私のことも解ってくれる。学院も私も、新しく生まれる家族も、総て愛で満たしてくれるのは、君だけだからね…。…それに」
 吉羅は更に顔を近付けると、香穂子の鼻の頭にキスをする。
「…“愛”を知らなかった私に、君は、温かな“愛”を教えてくれたんだよ…。私を、無味乾燥な世界から、君は救ってくれたんだよ?」
 吉羅の言葉に、香穂子のこころが熱く蕩けてくる。余りに蕩け過ぎたからか、涙になって頬に流れ落ちた。
「…私は、君とふたりの愛の結晶が欲しい。君なら、きっと…、私に様々な愛をもっと沢山教えてくれるだろうからね」
「暁彦さん…」
 涙でけむる余りに、吉羅をまともに見ることなんて出来ない。
 嬉しかった。
 ヴァイオリニストとして軌道に乗るまで、ずっと優しく見守ってくれたひと。
 ずっとこの日を待ってくれていた。
 いや、待っていたのは自分なのかもしれない。
 出会ってから三年。
 香穂子にとってはかなり長い時間だった。
 吉羅と恋人以上になることを夢見ながら過ごした時間。
 ようやく夢が叶ったかと思ったら、それ以上のものを与えられたなんて。
 こんなにも幸せなことはなかった。
「…香穂子、私は少し早急過ぎたかな?」
 吉羅が困ったように呟くと、香穂子は首を横に振る。
「…そんなことはないです…。嬉しいんです…。嬉しくてしょうがないぐらいなんです…。だって私は…、ずっと暁彦さんのそばにいたいと思っていたから…」
「だったら返事は“イエス”で良いのかな? 私の泣き虫なお嬢さん」
 吉羅は香穂子の総てを受け入れて、慈しむような笑みを浮かべると、涙を指で拭ってくれる。
「勿論です。凄く、嬉しいです。暁彦さんのそばに、ずっと、ずっと居させて下さい…」
「有り難う、香穂子」
 吉羅はこころが深く熱く籠った声で囁いてくれると、香穂子の唇に自分のそれを近付けてくる。
 夢見るような瞬間に、香穂子はそっと瞳を閉じた。
 誓いのキスは甘く神聖な果実を食べているような味がする。
今までにない甘い幸せに酔い痴れていると、香穂子は不意に抱き上げられた。
「では、早速だが、愛の結晶を作る準備をしなければね」
「あ、暁彦さんっ!?」
 真っ赤になってジタバタする香穂子を、吉羅は平然とベッドへと連れて行く。
 とっておきの甘い時間が始まったのはいうまでもない。



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