吉羅を見つめているだけで、どうしてこんなに幸せなのだろうかと思う。 穴が空く程に吉羅を見つめながら、香穂子は小さな子どものようににんまりとほくそ笑んだ。 「…日野君、手が止まっている。音楽論のレポートを仕上げるんじゃなかったのかね?」 吉羅の冷たいまなざしに、香穂子は小さな溜め息を吐く。 これで幸せな時間は終わりを告げる。 吉羅の仕事が終わるのを待つ間、こうして勉強をするのが日課になってしまっている。 貴重な勉強時間と言っても良い。 香穂子にとっては、何よりもヴァイオリンの練習が優先だから、こうしたレポートに取組む時間は、普通の 大学生よりは少ない。 だから隙間時間を利用しているのだが、吉羅を待つ時間が最もそれに当てはまっていた。 「…しっかりやります…」 宿題をしないで怒られる小さな子どもにでもなった気分になりながら、香穂子はレポートに身を入れることにした。 香穂子がにこにこと笑って、こちらを見ているのに気付く。 まるで小さな子どものようなあどけない表情が可愛くてしょうがない。 このまま香穂子の視線を受け取ってやりたいが、そうはいかないところもある。 学生の本分は勉強だ。 自分と付き合っているからこそ、疎かにさせてはならないと、吉羅は思う。 だからこそ、時には厳しく接しなければならない。 「…日野君、手が止まっている。音楽論のレポートを仕上げるんじゃなかったのかね?」 吉羅はわざと冷たく厳しい声で言うと、香穂子を叱るようなまなざしを向ける。 ここは学院内の理事長室であるから、公私のけじめはきちんとつけなければならないから。吉羅は自分に強く言い聞かせた後で、香穂子をキッパリと叱った。 「…しっかりやります…」 香穂子は渋々吉羅の提案を受け入れると、レポートに集中し始めた。 吉羅はその様子を確認してから、仕事に戻る。 少しだけ甘い寂しさを感じながら。 暫く、静かに仕事に集中すると、驚くべくほどのスピードで、かつ正確に仕事を仕上げることが出来た。 この後は、香穂子との久し振りの週末が待っている。 想像するだけで、吉羅は幸せを感じてしまう。 ここのところお互いに時間を取ることが出来なかったから、久し振りの蜜月と言える。 そのために、休日出勤がないように今週はがむしゃらに頑張ってきたのだ。 しかも今日は香穂子がそばにいてくれたから、吉羅は益々頑張ることが出来た。 終業の五分前に予定していた仕事を仕上げることが出来た。 ふと視線を香穂子に向けると、一生懸命レポートに取組んでいる姿が見て取れる。 吉羅はその真剣なまなざしを微笑ましく思いながら、見とれてしまった。 真剣に取組んでいる姿というのは、本当に美しいと思う。 香穂子は本当に綺麗だ。 こんなにも美しい女は他にいないのではないかと、吉羅は思ってしまう。 香穂子レベルの美しい女はなかなかいるものではないと、吉羅は思う。 吉羅は、夕陽を浴びながらレポートに励む香穂子の姿にじっと見とれていた。 不意に終業を知らせるチャイムが鳴り響き、香穂子はハッと顔を上げる。 こんなにも集中していたのかと思うと、苦笑いを浮かべる。 ふと、吉羅が珍しく口元で手を組んで、香穂子をじっと見つめている様子が見てとれた。 夕陽を浴びながらじっとこちらを見つめてくる吉羅は、なんて綺麗なのだろうかと思う。 逆に香穂子がじっと見つめていると、吉羅は視線に気付いたのか、ゆっくりと指を解いた。 「日野君、レポートは終わったのかね?」 「はい、終わりました。理事長もお仕事は終わりましたか?」 「ああ。仕事のかたはついたよ」 「それは良かったです。私も嬉しいです」 これでふたりきりの甘くて短い最高の時間を過ごすことが出来る。 香穂子にはそれが嬉しくてしょうがなかった。 「では、支度をして出よう」 「はい」 香穂子は筆記用具を素早く片付け、入り口に向かう。 吉羅もまた素早く片付けている。 高校生の頃、吉羅がこうして片付ける様子を、ウキウキしながら見ていたものだ。 今はあの頃よりも甘い気持ちで見つめている。 「支度が出来た。お待たせしたね」 吉羅はドアを開けてくれ、さり気なくエスコートしてくれた。 「有り難うございます」 こういった紳士的な態度が当たり前に出来るのは、やはり吉羅の育ちの良さなのだろうかと思う。 兄がいるが、絶対に無理だと思うからだ。 ふたりで前後して歩いていると、はにかんで吉羅を見る女子生徒とすれ違った。 音楽科の女子生徒。スカーフの色を見ると、香穂子とは入れ替わりで入ってきたのだろう。 恐らくは大人の理事長に憧れを抱いているのだろう。 香穂子もその気持ちは痛い程分かる。 かつては自分も同じような目線で吉羅を見ていたのだから。 少しばかり甘酸っぱい気分になった。 「理事長、私、いつものところで待っていますね。迎えに来て下さい」 いつものところ。 それふたりが待ち合わせをするカフェの前。 付き合っていることを気付かれてはならないから、ふたりはいつも待ち合わせをすることが多い。 「このまま一緒に駐車場に来るんだ。だから待たせておいたんだ」 吉羅は静かに言うと、香穂子の手をそっと取る。 「…あ、あのっ! ば、ばれちゃうんじゃないですかっ!」 「もうとうにバレているよ。私たちが付き合っていることはね。金澤さんなんて、“公認”なんて言っているぐらいだからね。もうお互いに禁忌な間柄からは抜けていると思うがね」 「だ、だけど、私は大学の学生で、理事長は理事長なわけで…」 香穂子が焦るように言うと、吉羅はフッと微笑む。 「君も間も無く成人する。自己責任の年齢だ。とやかく言われる必要はないよ」 吉羅はキッパリと言うと、香穂子を車まで誘ってくれた。 香穂子は後ろ暗いことは何もないから、笑顔で頷くと、車に乗り込んだ。 「…うちに行こうか。今夜はゆっくりとふたりで過ごしたいからね。君をチャージしないと、私の仕事は上手くいかないんだよ」 「私のヴァイオリンも上手く行きませんから」 香穂子が追随するように言うと、吉羅は頬に軽く触れた。 「解っているよ」 車をゆっくりと出すと、吉羅はみなとみらい方面へと向かう。 夕暮れのみなとみらいの風景が、香穂子のお気に入りだと知っているからだ。 「本当に見飽きないです。綺麗な夜景です、本当に…」 「そうだね。以前は少しもそうは思わなかったが、君と一緒に見るようになってから、とても綺麗だと思えるようになったよ」 吉羅が同じ目線に立って見てくれているのが嬉しくて、香穂子は思わず笑みを零した。 夜景なんて今まで綺麗だとは思わなかった。 香穂子と付き合うようになってから、様々な“綺麗”を教えて貰った。 これからもたくさんの“綺麗”を教えてくれるだろうと思う。 「君とは、もっと沢山の美しい風景を見たいものだね」 吉羅が柔らかく言うと、香穂子が甘えるように寄り添ってくれる。それがとても愛しい。 「はい。これからもずっと沢山の美しい風景を一緒に見ましょう。私も暁彦さんとずっと見つめていたいですから」 「そうだね」 身近な風景を、そして香穂子の姿を、いつも見て、美しい感動を得たい。 吉羅は香穂子とならば、この世の中の総てが美しく映ると感じていた。 |