*制服のイヴ*


 ギリギリのところで、香穂子の音楽科への転科が決まった。
 両親の説得は、理事長である吉羅が務めてくれ、香穂子はようやく音楽の世界へのスタートラインに立った。
 今日は音楽科の制服が出来上がってからの、初めての登校日。
 土浦とふたりで、ガイダンスと特別補講を受けるのだ。
 音楽科の制服姿の土浦を見ると、なぜだか吹き出してしまいそうになる。
 流石に音楽科特有のヒラヒラとしたスカーフを、土浦は着けてはいなかった。
「日野、あんまり笑うなよっ!」
「だってね」
 土浦が照れている様子を見ていると、香穂子は余計に笑えてしまう。
「まあ、土浦君は土浦君なりに似合っているかと」
「俺が一番恥ずかしいんだからなっ! ったく、このヒラヒラスカーフ、誰が考えたんだよ。俺も火原さんみたいにスカーフなしでいくしかないか…」
 土浦は溜め息ばかりを吐いて、音楽科制服のスカーフをひらひらとする。
「だけど金澤先生とか理事長が、このひらひらとしたスカーフ着けていたと思うと、何だか想像出来ないよな」
「そうだよね」
 香穂子は笑いを堪えながら、頷いた。
「日野香穂子! 音楽科の制服を着たのだな! 似合っているぞ!」
 いきなり目の前に現われたリリは、嬉しそうにひらひらと舞っている。
「有り難うリリ。ようやくね、スタートラインに立てたんだ。これもリリやみんなのお陰だよ」
「あれ、リリがいるのか」
 土浦の言葉に、香穂子は、コンクール参加者では本当にもう自分にしかリリは見えなくなったのだと、改めて感じずにはいられなかった。
「日野香穂子! 土浦梁太郎に、制服がよく似合っていると言っておいてくれっ!お前も意外にひらひらとしたものが似合うなとな」
「殴られるよ、リリ…」
 香穂子が含み笑いを浮かべながら話していると、土浦は宙に向かって睨み付ける。
「日野、どうせリリのヤツ、ろくでもないことを言っているんだろ?」
「ろくでもないことかなあ。土浦君の制服姿が似合っているって」
「ったく、それがろくでもないことだろうが…」
 土浦の言葉に香穂子はくすくすと笑った。
「香穂! 土浦君!」
「やべ、やなヤツが来たぜ」
 天羽が走ってこちらにやって来るのを、香穂子は手を振って迎える。
「土浦君! 似合って…プッ! これは新学期の良いスクープになるよー」
 天羽はそれこそ瞳に涙を滲ませながら、カメラを構えて即座にシャッターを切る。
「おいっ! よせっ! 止めろっ!」
「どうせみんなに見られるじゃない。見たって減るもんじゃないんだからねー」
「ったく、お前…!」
 ふたりのやり取りがおかしくて、お腹がグニャグニャに捩れてしまうぐらいに笑えてしまう。
「ったく!」
 土浦は、香穂子と天羽の交互を見ると、諦めに近い溜め息を吐いた。
「そうそう! さっき報道部の資料を整理していたらね、珍しいものを見つけたんだ! 吉羅理事長と金やんのスクープ写真っ!」
 天羽が取り出した二枚の写真を、香穂子は食い入るよいに見つめる。
 一枚は学内コンクールの時の写真。もう一枚は吉羅の卒業式の写真のようで、普通科の制服を着ていた。
 学内コンクールでは屈託なく明るい笑みを浮かべているのに、普通科総代として答辞を読む姿は、今の印象に近いクールなものだ。
 普通科の制服はよく似合ってはいたが、その冷徹な表情を見ると、香穂子の胸は痛んだ。
 一年生でコンクールに出た時が、春の爽やかな明るい気候であるとするならば、卒業式の姿は真冬の吹雪を思わせた。
「こんなに印象が変わるのは、珍しいよね」
「そうだよな」
 香穂子はコンクール写真を見つめながら、一緒に写る吉羅の姉を見つめた。
「…この綺麗なひとは誰?」
 天羽がじっと食い入るように見つめ、意志の強そうな眼差しを持った女生徒を指さす。
「理事長の亡くなったお姉さんだよ…」
 香穂子は吉羅の哀しみと共鳴するように、言葉を詰まらせながら囁く。
「…そうなんだ…。理事長が音楽を止めたのはそのあたりに原因があるって、報道部の先輩から聞いたよ。だけど、流石に記事には出来なかったけれどね」
 天羽もしんみりと呟く。いくら“スッポンの天羽”と呼ばれてはいても、ひとが傷つくようなことは決してしない。ここが香穂子の大好きな部分でもあった。
「そうだな…」
 しんみりとしたところで、窓の外から声がする。
「香穂先輩! 土浦先輩!」
 冬海のか細い声に、三人は窓から外を覗き込む。
 中庭には冬海と志水が手を振ってくれていた。
「先輩たち…、降りて来て下さい…」
「うん。今すぐ降りるよー」
 香穂子は冬海たちに手を大きく振った後で、走って一気に下まで駈け降りていく。
 冬海たちは、香穂子と土浦の姿を間近で見るなり、歓声を上げた。
「香穂先輩、物凄く似合っていますっ! 土浦先輩は…」
 冬海が複雑怪奇そうな表情をするものだから、土浦は溜め息を吐いた。
「…そのうち…馴れますよ…。悪くありませんから…」
 志水はいつものようにおっとりとした口調で言うと、ニッコリと笑う。
「…あーれ? 理事長がこちらを見ていますよ…。何だか…いつもより優しい瞳だ…」
 理事長という言葉に香穂子は敏感に反応すると、吉羅がいるだろう窓を見上げた。
 いつもプライベートで香穂子に見せてくれるような、温かな日だまりのようなまなざしを送ってくれている。
 香穂子もそのまなざしに応えるように、柔らかな視線を送った。
 吉羅は香穂子のまなざしに気付いたのか、フッと微笑んでいる。
 会いたい。
 今すぐに吉羅に制服姿を見せたくなった。
「珍しいよね、あんな理事長」
「そうだな」
 頷きあう土浦と天羽に、志水や冬海まで同調していた。
 制服姿をこんな離れたところからではなく、もっと近いところで見て欲しい。
「あっ!用事思い出した!」
 突然、香穂子が声を上げ、瞬く間に走り出したので、天羽たちは驚きを隠せないでいる。
「か、香穂っ?」
「みんな、またね! 用事を済ませてくるよ!」
 香穂子は脱兎のごとく走る。
 勿論、行き先は理事長室。

 吉羅が理事長室で書類の山と格闘していると、ひらひらと舞う光の気配がした。
「…またお前か。アルジェント・リリ」
 吉羅はこめかみを引きつらせると、リリに目をやる。
「今、日野香穂子の制服姿を見てきたのだ! 音楽科の制服、もの凄く似合っていたのだ!」
「…そうか…」
 香穂子の音楽科の姿を想像すると、リラックスして笑みがこぼれ落ちる。
「…まあ、後で見られるだろう。それとアルジェント・リリ、仕事の邪魔だ。あちらへいけ」
「むぅ〜! 吉羅暁彦! もっと素直になるのだ! そのままだと日野香穂子を取られるぞ!」
 大きなお世話だと想いながら、吉羅はリリを睨み付けた。
「つまみ出されたいか?」
「む〜!」
 リリはむくれながらも、吉羅野間絵から姿を消す。
 窓の外から賑やかな声が聞こえ、吉羅は仕事をする手を止めて、窓辺に立つ。
 そこには純白の音楽科制服を身に纏った香穂子が、コンクールの仲間たちと楽しそうに笑っているのが見えた。
 日だまりがよく似合う少女。
 誰もを明るい日向に呼び寄せてくれるような温かさを持っている。
 今日、初めて袖を通したはずの音楽科の制服が、もう何年もの間身に着けていたようにすんなりとしている。
 日だまりで一際輝く笑顔を浮かべている香穂子は、誰よりも輝いていた。
 かつて同じ制服を身に着けていた美しいひとがいた。
 あのひとにあこがれて、同じ制服を身に纏ったのも遠い昔だ。
 目の前にいる明るく弾むような生命力を持っている少女は、見ることが叶わなかった夢を、再び見せてくれるような気がする。
 それを誰よりもそばで見つめていたかった。
 笑顔を見つめるだけて幸せをくれる。
 吉羅は無意識に慈しみ溢れるまなざしを、香穂子に向けていた。
 不意に吉羅の瞳に気付いたのか、香穂子が柔らかなまなざしを送ってくれる。
 まだ周りは誰もふたりのアイコンタクトに気付いてはいなかった。
 吉羅は思わずフッと笑う。
 すると香穂子は突然走り出した。
 こちらに来るのは明白だ。
 吉羅はさり気なく窓のカーテンを引くと、椅子にどっかりと腰を据えて香穂子を待構えた。
 香穂子が来るまでの間、こころが逸る。
 一分、一秒がとても長く感じてしまう。
 吉羅は落ち着けないまま、香穂子を待ち侘びた。
 元気の良い勢いのある足音が響いてくる。
「姉さんもよく走っていたな…。香穂子と同じように…」
 まるで一瞬でも時間を惜しんでいるかのように、いつも走っていたように記憶している。
 そうして人生すらも同じように駆け抜けて逝ってしまった。
 愛しい姉。
 香穂子にはそれをさせない。
 絶対にどんなことがあってもさせない。
 息が乱れる音がしたかと思うと、遠慮のかけらもないようなノックが響いた。
「理事長! 日野です!」
「ああ。開いている、入りなさい」
「はい、失礼します…」
 香穂子が様子を伺うように理事長室に入ってくると、吉羅は立ち上がる。
「理事長に…一番先に見せたかったんですけれど…、ごめんなさい…」
「…いや、構わないよ」
 吉羅は笑みを浮かべると、香穂子に頷いてみせた。
「よく似合っている。見違えた」
「あ、有り難うございます。転科に色々とこころを砕いて下さって、有り難うございました」
 香穂子が嬉しそうに礼を言ってくれたから、吉羅はフッと婀娜っぽい笑みを浮かべる。
「おいで」
 吉羅が手を差し延べると、香穂子はその手を恥かしそうに取った。
 ふんわりと華奢な躰を腕のなかに納めれば、香穂子は思わず真っ赤になってしまっている。
「この制服姿で抱き締められたことはないだろう?」
「…ないですけれど…」
「だったら私が一番乗りだ」
 吉羅が自慢げに楽しそうに言うものだから、香穂子は恥かしくなる。
「理事長が、最初で最後だと思いますけど…」
 上目遣いでほんのりと窘めても、吉羅は可愛いと思うだけで、咎められたとすら思わない。
「そう願いたいがね」
 吉羅はふと感慨深げに香穂子を見る。
「君と私は丁度15年離れているんだね。同じタイの色だから、5サイクル違うんだね。私は三年になった時に、君とは逆の転科をしたが、私の夢は君が引き継いでくれるから、後悔はないよ。むしろ、このような機会を与えられたことに、私は感謝している」
 吉羅は香穂子の頬に手を宛てると、眩しそうな表情を浮かべる。
「これからも私に沢山の音楽の夢を見せて欲しい」
「はい」
 香穂子が向日葵のように明るく笑うと、吉羅は唇が触れるギリギリのところまで引き寄せる。
 ま白な制服姿は、正に純粋な音楽の女神。
 吉羅だけの神聖なるイヴだ。
「それと。ふたりきりの時には理事長とは呼ばないように」
「はい、暁彦さん」
 香穂子が名前を呼ぶと、吉羅は甘いときめきを覚える。
「愛しているよ」
「私も大好きです」
 恥かしそうに震える唇を啄むと至福の味がした。
 苦い思い出が詰まった制服。それは吉羅のイヴによって華やいだ思い出になるのは間違いがなかった。



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