*冬のプレゼント*


 今日はとても寒い。
 寒過ぎてつい小さくなってしまう。
 香穂子は小さくなりながら学院へと向かう。
 三年生の三学期は自由登校だから、寒い日は通わなくても構わない。
 それに香穂子は既に学院大学の音楽学部への進学も決まっているから、行く必要はないのだ。
 練習を沢山しなければならないからと、勝手に言ってはいるが、本当は理事長である吉羅に逢いたいというのが一番の理由だ。
 吉羅はかなり多忙であるから、いつもかつも逢えるとは限らない。
 それでも僅かでも逢えるチャンスがあるのではと思いながら、香穂子は学院に通っていた。
 寒く小さくなって学院までの道のりを歩いていると、見慣れたフェラーリが横を走り抜けて行くのが解る。
 今日は吉羅は学院にいるのだ。
 それを確かめられただけでも嬉しかった。
 だったら何処かで逢えるかもしれない。
 カフェテリアで余り逢うことはないが、それでも一緒にいられるかもしれない。
 ほんの小さなチャンスも、香穂子には嬉しくてしょうがないことだった。
 少し歩くとフェラーリが停まっているのが見えた。
 香穂子が通りかかるなり、ドアが開けられる。
「…あ」
「日野君、かなり寒そうにしているね。短い距離だが、良かったら乗っていかないかね?」
「…はいっ!」
 思いがけない吉羅の言葉に、香穂子は思わず笑顔になる。
 車に乗せて貰うと、直ぐに発車する。
「ヴァイオリンの調子はどうかね? しっかりと頑張っているかね?」
「はい。ヴァイオリンは集中して頑張っています。大学入学までに、みんなとの差をなるべく埋めてしまいたいんです」
「それは良い心掛けだ、しっかりと頑張りたまえ」
「有り難うございます」
 香穂子は頷くと、つい笑顔になる。
 吉羅のそばにいて声を掛けて貰えることが、何よりもの温もりになる。不思議と躰も温かくなる。
「しっかり頑張って、コンクールも出たいです。そのためにも練習をめいいっぱい頑張らなければならないですから」
「頼もしいことだね…」
 吉羅はフッと満足そうに笑う。
 吉羅はあくまで香穂子をひとりの生徒としてしか見てくれていないのは解ってはいる。
 だが、少しでも大好きなひとに近付きたいのだ。
 吉羅はあの約束を覚えてくれているだろうか。
 香穂子が有名ヴァイオリニストになったら、真剣に交際をしても良いと言ったことを。
 それをかなえるために一生懸命頑張っていることを、吉羅は知ってくれているだろうか。
「最近、遅くまで頑張っているようだが、今日は何時まで頑張るのかね?」
「出来る限りは頑張ろうと思っています」
「…そうか。今夜はかなり冷えて、昼過ぎから雪も舞うようだから、早目に引き上げると良い。休み中だとはいえ、体調はしっかりと整えなければならないからね」
「はい。風邪を引かない程度に頑張ります」
「ああ」
 吉羅と話していると時間は直ぐに過ぎていってしまう。
 学院には直ぐに着いてしまった。
「有り難うございました」
 香穂子は車から降りると、吉羅に深々と頭を下げた。
「では今日一日はしっかりと頑張りたまえ。ただし、雪が降ってきたら直ぐに帰るように」
「はい。有り難うございます」
 香穂子はもう一度礼を言うと、吉羅に深々と会釈をした。

 香穂子は練習室に向かって、直ぐにヴァイオリン演奏に取り掛かる。
 他のヴァイオリン専攻の生徒たちよりもかなり遅れているのは解っている。
 本当にギリギリのところで合格だったのだろう。
 その溝を埋めなければ、吉羅に近付くことすら出来ないのだ。
 だから頑張る。
 ただそれだけだ。
 快適な環境で練習が出来る練習室は本当に有り難い。
 香穂子は、後輩たちが授業を受けている間、思う存分使わせて貰うことにした。

 ヴァイオリンの練習に夢中になりすぎて、香穂子はカフェテリアに行くのが遅くなってしまった。
 寒いので温かいものが無性に食べたくなってしまい、香穂子はうどんとおにぎりを食べることにした。
 あつあつなドリアもこころが惹かれたが、お腹が空き過ぎていて、炭水化物をがっつりといきたかった。
 香穂子がカフェテリアの端で昼食を取っていると、吉羅がやってきた。
 吉羅はバランスが良いヘルシーランチを選んでいた。
 まさかこちらには来ないだろうと思いながら、香穂子は温かなうどんを啜る。
「日野君、相席して構わないかね?」
「はい」
 香穂子が笑顔で答えると、吉羅もほんの少しではあるが笑顔になってくれる。
 何だかそれが嬉しかった。
「随分と遅い昼食だね」
「ヴァイオリンの練習に夢中になってしまっていたんですよ」
 香穂子が子供のように無邪気に笑うと、吉羅は少し眉根を寄せた。
「余り根を詰めない方が良い。躰に毒だからね。何事も躰が資本だ。きちんと管理しながら頑張るんだ」
「お気遣い有り難うございます」
 香穂子は少し切ない気分になる。
 吉羅は姉を病で亡くしている。原因はヴァイオリンに夢中になり過ぎた姉が、ずっと躰の不調を訴えずに我慢をし手遅れになってしまったからだ。
 それを思うとこころがどうしても重くなる。
 吉羅に近付きたいから練習を頑張る。
 だが、それでは吉羅にひどく心配をかけてしまう。
 人一倍頑張らなければ、吉羅が言うレベルにはとてもではないが、到達することが出来ないのに。
 何だか重苦しいジレンマだ。
「…自分のペースをちゃんと考えながらやっていますから、心配されないで下さい」
 香穂子は笑顔で言うと、吉羅は複雑な表情で唇を歪めた。
「…本当に余り無理はしないほうが良い…。日野君…。君は充分頑張っているから」
 吉羅は静かに言うと、ふわりと頭を撫でてきた。
 こうして撫でられると、何だか子ども扱いをされているようで痛い。その痛みを、吉羅は知らない。
「…もっと頑張っても壊れない自信はあるから、頑張れますよ」
「全く、君は…」
 吉羅は呆れ果てるように言うと溜め息を吐いた。
「私を余り心配させないようにしてくれ」
 吉羅は苦しげに言うと、少しだけ視線を落とす。
 吉羅がそう言って貰えるのは嬉しい。
 だが、大事な生徒のひとりだからという意味合いなのだろう。
 香穂子はそれはそれで切ない気分だ。
「理事長にご心配をかけないように頑張ります。理事長は沢山の生徒がいるから、私よりも他の生徒さんを心配されて下さい」
「…私は君が生徒だから心配しているわけじゃない…」
 吉羅はほんの少し苦しげに言うと、香穂子を見る。
「…私は君だからこそ、心配をしているんだ…」
 吉羅はそれだけを言うと、食べるのに集中した。
 吉羅に心配して貰える。
 それだけでも嬉しくてしょうがない。
「有り難うございます」
 香穂子は素直に礼を言うと、うどんを啜った。
 ふたりともほぼ同時に食事を終える。
 片付けに行くと、窓の外には雪がちらちらと降っていた。
「通りで寒いはずですね…」
「そうだね」
 吉羅は白い雪を見つめた後、フッと微笑む。
「積もると危なくなるから、早く帰りたまえ」
「はい」
 香穂子は頷くと、同じように空を見上げた。

 練習を終えて帰る頃、白い雪がうっすらと地面に積もっていた。
「気をつけてかえらなくっちゃ」
 香穂子が恐る恐る歩いていりと、不意に誰かに手を取られる。驚いて見るとそこには吉羅がいた。
「…理事長」
「車で送ろう。怪我をしては困るからね」
「有り難うございます」
 まさか手を繋いで貰えるなんて思わなかったから、香穂子は嬉しくてたまらない。
「その代わり、夕食を付き合うことと、手を温めてくれること。いかがかね?」
「もちろん、嬉しいです」
 香穂子は温かなプレゼントに笑顔になる。
 これだったら寒くても大丈夫だと香穂子は思った。



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