吉羅と一緒に住み始めてもうすぐ一年になる。 正式な結婚はしてはいないが、それでも幸せだ。 いつかは正式な結婚をしたい。 だが、香穂子からはそれをなかなか言い出すことは出来なかった。 吉羅を困らせてしまうのではないか。そんな気がしたから。 本当は正式に結婚をして、この先もずっと一緒にいたいと思っている。 だが、それを自分から言い出すことが出来ないぐらいに、吉羅とはバランスが取れていないと感じている。 吉羅がそばにいてくれるだけでは物足りないわがままな自分になってしまっている。それがわがままに思えてならなかった。 香穂子は財界のパーティに呼ばれ、ヴァイオリンを演奏することになった。 そのパーティには吉羅も参加することになっている。 行きは別々だが、帰りは一緒だ。 それがほんのりと嬉しい。 吉羅とふたりで帰ることが出来るからと、香穂子は特別にお洒落をすることにした。 ハイヒールも下ろしたてだ。 吉羅と一緒に帰るのだから、なるべく綺麗でいたかった。 一緒にいてせめてバランスが悪いとは言われないようにしたい。 そのために、香穂子は精一杯頑張ったのだ。 香穂子がミニステージに立つと、吉羅が見守るように見つめてくれているのが解った。 嬉しくてしょうがない。 吉羅がいれば、ヴァイオリンも安心して弾くことが出来る。 経済的にも精神的にもかなり依存をしているのは解っている。 依存を少なくしたいと思いながらも、そこから抜け出すことが出来ずにいた。 香穂子は目を閉じて、ヴァイオリンに集中する。 吉羅がいるからこそ、よりヴァイオリンだけに集中することが出来た。 ヴァイオリンを奏でている間は、背中に羽根が生えたような気分になり、自由に集中出来る。 おおらかな気分でヴァイオリンを奏で終わった後、香穂子は深々とお辞儀をした。 ヴァイオリン演奏が終わると、香穂子はステージから下りて吉羅のところに行こうとする。 だが、吉羅は財界人たちと真剣に様々なことを話している。 そばに行けば邪魔をするような気がして、香穂子は行くことが出来なかった。 こうして見ていると吉羅とは、住む世界が違うのではないかと思う。 バランスが取れていないのではないかと思ってしまう。 こんなにも違い過ぎるから、正式に結婚することなんて無理ではないかと思った。 香穂子は近付けないままで、ゆっくりと吉羅のそばから離れていく。 何だか寂しい気分だった。 香穂子がステージで演奏しているのを見守りながら、吉羅は切なくてなるのを感じた。 香穂子は背中に羽根を得たように、自由に演奏をしている。 本当に明るい大海原を飛び回っているかのようだ。 見ているだけで明るく清々しい。 聴いているだけでこころが温かくなる。 太陽の光を瑞々しく浴びるように笑う香穂子を見ると、いつか自分から離れていってしまうのではないかと思う。 グローバルに活躍をし、いつか手が届かない存在になるのではないかと思わずにはいられなかった。 いつの間にか香穂子はひとりで立っていられる大人の女性になった。吉羅がプレゼントをしたハイヒールも本当によく似合っている。 光り輝く女性になっている。 だからこそ閉じ込めたいと思ってしまう。 香穂子がいつでも安心して帰って来られるような、そんな存在の男になりたいと思う。 吉羅は深く強く思いながら、ただ香穂子だけを見つめていた。 愛する者だけを。 一緒に繰らし始めてもう一年が過ぎようとしている。 このままではダメだ。 いずれは離れてしまうかもしれない。 だからこそ、吉羅は香穂子をひきつけておかなばならないと思った。 香穂子のステージが終わると同時に、財界でも有数の実力者に声を掛けられた。 吉羅は直ぐにビジネスの話に入ったが、内心はすぐにでも香穂子のそばに行って労いたかった。 そこからはずっと一緒にいようと思っていた。 香穂子が遠慮がちにこちらにやって来るのが見える。 直ぐにそばに来て欲しい。 吉羅たちの様子をじっと見た後、香穂子は再び離れていってしまう。 直ぐにでも追いかけたかったが、そうはいかなかった。 ようやく話が終わり、吉羅はホッとする。 直ぐに香穂子のそばに行きたい。 今夜の香穂子はゾクゾクしてしまうほどに美しく、誰にも渡したくはなかった。 今すぐ自宅に連れて帰って愛したいぐらいだ。 吉羅はゆっくりと香穂子に近付いていった。 これは財界のパーティなのだから、吉羅が財界人との話を優先することは、ごく当たり前のことのようにも思う。 だが一番乗り自分を優先して欲しいと思うのは、わがままな恋情なのだろうか。 香穂子は吉羅を遠くで見つめながら、しょんぼりとした気分になっていた。 すると、吉羅が話を終えたようで、こちらを見つめながらゆっくりと近付いて来てくれた。 嬉しくてしょうがない。 香穂子が笑顔になったのも束の間、吉羅は美しきゴージャス美女に声を掛けられてしまった。 ふたりは親しいようで、会話を交わしている。 香穂子はこころの奥がもやもやとするのを感じながら、早足でふたりに近付いていく。 「…痛っ…」 慌て過ぎたからだろうか。 左足に激痛が走り、カクンとなる。 余りの痛みに瞳に涙を滲ませると、香穂子は唇を噛んだ。 「大丈夫ですか?」 顔を上げると、吉羅と同じ雰囲気の男性がいた。 もう少しで香穂子のそばに行けるというのに、その寸前で、知人の女性に声を掛けられてしまった。 正直言って苛々する。 吉羅が上の空で女の相手をしていると、香穂子がこちらに向かってやってくる。 だが途中で、香穂子は歩みを止め、顔をしかめたかと思うと、脚のバランスを崩した。 靴擦れでも起こしてしまったのだろう。 香穂子に近付く男がいる。 触れさせたくない。 吉羅は、女性に「…失礼する」と声を掛けると、すぐ香穂子のところに向かった。 男性に声を掛けられて戸惑っていると、吉羅がそばに来てくれた。 嬉しくて思わず笑顔になる。 「…失礼、彼女は私の連れだ。彼女のケアは私がする。お気遣いを感謝する」 吉羅はスマートに言うと、香穂子の腰を直ぐに支えてくれた。 「有り難うございます」 香穂子が笑顔で吉羅を見上げると、笑顔を返してくれた。 「少し手当てをするか」 「有り難うございます」 吉羅は香穂子を支えながら、ロビーへと連れて行ってくれた。 香穂子をソファに座らせてくれ、ハイヒールを脱がせてくれる。 「水膨れが出来ているね」 「慣れないハイヒールを履くからですね。もう少し慣れなければならないです」 「そうだね。慣れたほうが良いね。私はもう特にパーティには用がない。香穂子、君は?」 「…私も特には…」 「だったら帰ろうか」 「そうですね」 吉羅はいきなり香穂子を抱き上げるて、駐車場へと歩いていく。 「あ、あのっ!?」 「その脚じゃ歩けないだろうからね」 吉羅は平然と悪びれることなく言うと、香穂子を車に乗せてくれた。 車に乗り込みホッとしたのは事実だ。 吉羅と暮らす家に緩やかに揺られて帰る。 こうして気遣ってくれるのが嬉しかった。 家に帰っても、吉羅はリビングまで抱き上げて運んでくれる。 「本当にこれぐらいは歩けますよ」 香穂子がいくら言っても、吉羅はクールなままだ。 「香穂子、ソファに座って待ってくれていたまえ」 「はい」 救急箱を持って来てくれるのだと思い、香穂子はじっと待っていた。 すると吉羅は、救急箱と一緒に、白い箱を持ってきた。 それをフローリングの上に下ろす。 「君には早くハイヒールに慣れて貰わなくてはならないからね。だから直ぐに靴擦れを治して貰わなければならないね」 「…はい」 香穂子はてっきり、吉羅がこれぐらいは履きこなして貰わなくては困ると、言っているのかと思った。 「ちゃんとハイヒールぐらい履きこなせるように頑張ります」 「そうだね」 吉羅は香穂子の靴擦れを消毒して手当てをしてくれる。 「有り難うございます」 「近いうちにこれぐらいは履きこなして貰わなくてはね」 吉羅はそう言うと、白い箱の蓋を開けた。 そこには見事な花細工が施された美しい白のハイヒールが入っている。 その綺麗さに息を呑まずにはいられない。 「綺麗…」 香穂子がうっとりと見つめていると、吉羅はフッと甘い笑みを浮かべる。 「この靴が一番似合うドレスは何だと思うかね?」 「…え…」 ひとつしか思い浮かばない。 それを言ってしまって良いのだろうか。 戸惑ってしまうが、香穂子はゆっくりと口を開く。 「…ウェディングドレス…」 香穂子の言葉に吉羅は頷く。 「君に早くこの靴を履かせたい。ハイヒールに慣れるんだ、出来るだけ早く…」 吉羅の言葉に、香穂子は嬉しくて泣きそうになる。 「…はい、絶対に」 香穂子が笑顔で何とか言うと、吉羅は頷く。 「プロポーズはベッドの中でしたいものだがね」 「え?」 香穂子はそのまま抱き上げられて、ベッドに運ばれる。 幸せなプロポーズの前哨戦に、香穂子は蕩けるような幸せに溺れていった。 -----結局、プロポーズをされたのは、明け方だった。 |