*秘めた想い*


 いつからかは解らない。
 ごく自然に彼女を目で追うようになっていた。
 明るく人懐っこい笑顔も、凜とした表情も、寂しそうな表情も、泣きたいのに堪えている瞳も。
 総てが魅力的で目が離せない。
 学院に出勤する時は、彼女がいないかを確認し、街に出た時には彼女が演奏をしていないかを確認する。
 四六時中彼女のことを考えてしまっている。
 こんなことになるなんて思ってもみなかった。
 初めてその存在を知ったのはコンクールの最終セレクション。
 荒削りな演奏。悪く言えば下手くそ。
 下手過ぎてかえって耳を引きつけた。
 下手なのに、演奏者の誰よりも魅力的で温かな音を響かせていた。
 まるで姉が帰ってきたのではないかと思ってしまうほどの音色だった。
 あれほどの温かさに満ちた音は他に聴いたことはなかった。
 先ず音に惹かれた。
 そして次の出会いは、山手カトリック教会だった。
 あの時は本当に偶然に姉の墓参りに訪れたに過ぎなかった。
 いつものようにカサブランカの花束を持って教会に訪れると、そこには日野香穂子がいた。
 背中に温かさを感じて、まるで姉がそこにいるような気分になり、振り返ったのだ。
 純白のドレスが本当によく似合っていた。
 あの時の美しさは、月並みかもしれないが息を呑むほどだったのだ。
 あれ以上に美しい女は他にいないと思ったものだ。
 彼女と対峙する立場となり、そのひととなりに触れた時、もう完全にこころは奪われていた。
 今まで、愛など恋などどうでも良いことだと思っていた。
 そんなものがあっても生きて行くのに邪魔なだけだと。
 楽しむ。という意味では必要かもしれないが、それ以外に意味は見出だせなかった。
 自分のなかでは最下位に位置するのではないかと思うほどのレベルだった。
 恋なんてひとときの退屈凌ぎだ。
 そこに何も見出だすことなんて勿論出来ない。
 いつも夢中になることはなく、何処か冷めた目で見ていた。
 ややこしくないように、問題が起きないように、それに相応しい相手を選んでいた。
 愛なんてなくても生きていける。
 守るべき大切な存在なんていらない。煩わしいだけだ。自分は決してそのような者を持つことはないだろう。
 そう思っていた。
 日野香穂子と出会う前までは。

 今日も仲間たちと一生懸命音合わせをしている香穂子を見掛ける。
 本当に楽しそうに演奏しているのは、その笑顔を見ても明白だ。
 吉羅は香穂子の笑顔に幸せを見出だしながら、同時にもやもやとした気持ちを抱いていた。
 眩しくて太陽のように温かくて明るい笑顔。
 それが他人のために向けられているのが、吉羅には気に入らなかった。
 こんな風に思ったことなど今までなかったというのに。
 香穂子を見ているだけで、甘酸っぱい気持ちが蘇ってくるのを感じた。
 吉羅はらしくなく溜め息を吐くと、再び仕事に戻る。
 ほどなくして、理事長室のノックが鳴り響いた。
「暁彦さん、桐也です」
「入りなさい」
 吉羅が返事をすると、桐也が入ってきた。
「こんにちは」
「学院に何か用事でもあったのかね?」
「彼女のヴァイオリンを聴きに来たんだよ。癒されるんだよね。俺は殆ど覚えてはいないけれど、よく美夜さんにヴァイオリンを弾いて貰っていたと聴いているから刷込みなのかもしれないけれどね。彼女の音色はそれっぽいって、金やんから聴いたから」
 桐也の言葉に吉羅は答えることが出来ない。
 だが、ふたりは確かに音色の種類が似ているといっても良かった。
「今日も沢山聴けると思うと楽しみだ」
 桐也は本当に幸せそうに笑う。
 桐也が日野香穂子に恋をしていると気付いたのは、つい最近のことだ。
 音色、容姿、そして心の総てに魅了されているようだ。
 ここにもまたライバルだ。
 吉羅はこころの中で溜め息を吐いた。
 香穂子に恋をする男は多くて、しかも誰もが総てにおいてバランスが取れた良い男たちときている。
 一回り以上年が違う娘を巡って、金澤、そして生徒たちと争うことになるなんて思ってもみなかった。
 理事長という立場はどう考えても不利なのだ。
 生徒に無闇に恋心をぶつけるわけにはいかないのだから。
 吉羅は分が悪いことは解ってはいたが、それでも好きでいることを止めることが出来なかった。
「じゃあヴァイオリンを聴きに行って来る」
「ああ」
 吉羅が従弟を見送ると、不意に振り返る。
「暁彦さん…余り大人の落ち着いた男のふりをしたら後で後悔するよ」
 一瞬、こころの中を見透かされたような気がして、思わず目を見開いてしまった。
 だが、動揺している自分を知られたくはなくて、吉羅はわざとクールなふるをする。
「何のことを言っているのか、お前は…」
 吉羅はわざとクールな低い声で言い取り合わない。
「まあ、俺のライバル宣言だと思っておいて。じゃあ、彼女の音を聞き逃すのは勿体ないから行くよ」
 桐也は不敵で油断ならない笑みを浮かべると、理事長室から出ていった。
「…全く…」
 吉羅は溜め息を吐きながら言うと、髪をかき上げる。
 本当は桐也よりもずっと子どもで臆病なのかもしれない。
 失う。
 それが堪えられなくて、ずっと誰かを求める気持ちに蓋をしてきたのだ。
 それをこじあけたのは日野香穂子だった。
 皮肉にも姉と同じくヴァイオリンを弾く少女だとは。
 吉羅は自分自身に対して溜め息を吐くと、再び仕事に戻った。

 下校アナウンスが鳴る中で、元気良く無遠慮に理事長室前の廊下を駆けていく音が聞こえる。
 それが誰かは直ぐに解る。
 日野香穂子だ。
 吉羅は思わず口角を上げてしまう。
 もうすぐここにやってくるのだろう。
 ノックが響き渡る。
「理事長、日野です」
「入りたまえ」
「はい、失礼します」
 いつも以上に元気な声が響き渡る。
 理事長室が開かれた瞬間、優しくも温かな光が差し込むような気がした。
「日野君、何の用かね? 生徒は下校時間だが」
 訪ねてきてくれて嬉しいのに、吉羅はわざと冷たい声で言い放つ。
 だが香穂子も怯まない。
「ヴァイオリンを聴いて頂きたくて」
「時間は余りない。やりたまえ」
「はい」
 香穂子はほんのりと微笑みながら、ヴァイオリンを構える。
 その途端、キリリとした表情になった。
 思わず見とれてしまうほどに美しい。
 香穂子は静かにだったん人の踊りを演奏する。
 吉羅は香穂子から目を離さずに聴く。
 ヴァイオリンを奏でる香穂子は、なんて美しいのだろうか。
 こまっしゃくれたファータどもよりも、香穂子のほうが余程音楽の妖精に見えた。
 ヴァイオリンの音色も日に日に上達している。
 こんなにも綺麗で澄んで温かな音色は他にはない。
 まさしく音楽の神様に、香穂子は愛されたのだろう。
 香穂子はヴァイオリンを奏で終わると、吉羅を見る。
「まだまだだ」
 なるべく私情が入らないように吉羅は言う。だが、少しも説得力なんてなかった。
 香穂子はがっかりしたように溜め息を吐く。それすらも可愛かった。
「日野君、もう遅い。ひとりで帰るのは危ない。それに寒いからね。簡単な食事を一緒にしないかね? 温まった後、自宅へ送ろう」
 吉羅の提案に香穂子の表情が可憐な花が咲き誇るような笑顔になる。
「はい! 喜んで」
 香穂子の笑顔に何よりも幸せにして貰いながら、吉羅は頷く。
「じゃあ行こうか」
「はい」
 吉羅はこの上ない幸せな気分になりながら、香穂子と共に理事長室を出た。
 



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