*ひととき*


 恋人はかなり年上の社会人。
 しかも社会的地位のある多忙な男性。
 同じ年代の恋人同士に比べても、逢える機会がかなり少ない。
 幸せだけれど、どのような隙間時間でもいいから、吉羅に逢いたいと願ってしまう。
 香穂子は手帳を見ながら思わず微笑む。明日から吉羅を二日間独占することが出来るのだ。普段はなかなか逢えないから、貴重なひとときだ。
「…明日からは二日間逢えるんだよね」
 香穂子は嬉しくて声を弾ませてしまった。
 香穂子が大学生になってから、ふたりとも忙しくて、すれ違いの日々が続いていたから余計に嬉しい。
 こうしてふたりきりでゆっくりと過すのは本当に久々だ。
 キャンパスを歩いていると、吉羅を見つけた。
 大学での会議に出ると言っていた。その後は別の会合があるようで、仕事が終わるのは深夜近いらしい。
 こんなに忙しくしていたら、いつか吉羅が倒れてしまうのではないかと心配してしまう。
 香穂子は吉羅の姿を見つめながら、どうか倒れないようにと、祈っていた。

 香穂子がキャンパスを歩いているのを見掛けた。
 相変わらず清楚で明るい太陽のようだ。
 最近、美しさに磨きがかかっているようで、吉羅は気が気でなかった。
 こんなにも逢えないと、寂しい余りに他の男に靡いてしまうのではないかと、自分らしくなく不安に覚えてしまう。
 しかも本人は、男達を引きつける美しさを備えていることに、全く気付いてはいないのだから質が悪い。
 吉羅は香穂子を見つめながらこのまま抱き締めたい衝動を抑えながら、会議へと向かう。
 明日から二日間はたっぷり逢えるのだから。それだけが楽しみだ。
 香穂子に逢えることを活力にして、吉羅は静かに会議に挑んだ。

 大学の中庭ですれ違ったのは偶然だった。
 秘密の恋であるから、誰にも言ってはいない。
 幸いなことに周りには誰もいなくて、香穂子は吉羅ににっこりと微笑んだ。
 すると吉羅は立ち止まり、香穂子に近付いてくる。
「今、帰りかね?」
「そうです。理事長はこれからお仕事ですよね? お仕事頑張って下さいね」
 誰かに聞かれてしまったら困るから、香穂子は言葉を選びながら話す。
「これからも仕事だが、何とか乗り切ってみせるよ」
 吉羅はクールな声で言いながら、香穂子を見つめる。
 一瞬、吉羅の唇が、香穂子の耳に近付く。
「…君さえ都合がつくなら、うちで待っていて欲しいが…どうかね?」
 吉羅は静かに囁くと、一瞬で香穂子から離れた。
「解りました」
 香穂子はただそれだけを言うと、にっこりと微笑む。
 本当は嬉しくて暴れ出したくなるぐらいなのに、場所が場所なだけに控えるしかない。
「有り難う。何も準備はいらないから、ただ君がいてくれたら良い。半日、繰り上がるだけだからね」
「楽しみです」
 香穂子は小さく頷いた後、いかにもらしく深々と頭を下げる。
「それではまた」
 吉羅はいつものようなクールな表情になると、次の仕事に向かっていった。
 香穂子はそれを確認した後で、にんまりと笑いながら一旦自宅へと向かった。

 吉羅の家に行くからといっても、特には持っていくものはない。
 既にそこで住むことが出来る程に、香穂子の私物は置いてあるのだから。
 ただ、綺麗にしたいと思い、シャワーを浴び、化粧をやり直して、いつものデートのようなスタイルになる。
 途中で簡単な夕食を買って、吉羅の家へと向かった。

 麻布十番で地下鉄を降りて、吉羅が住む高級マンションに向かう。
 ついこの間まで、七時過ぎても空は明るかったのに、今はすっかり暗い。その上、吹き抜ける風は秋の香りがした。
 吉羅のマンションに入り、先ずすることは部屋の中の空気の入れ替え。
 ベランダに出ると心地好い風を感じた。
「東京タワーが見えるなんて、なんて贅沢なおうちなのかな…」
 ベランダにある椅子に腰を掛けて、香穂子はぼんやりと外を眺めていた。
 とても心地好いと同時に、涙が出そうな程に切ないロマンティックが滲んだ風景だ。
 暫くのんびりと眺めた後、香穂子は部屋の中に入り、ダイニングで一人だけの夕食を取る。
 BGMはくだらないバラエティだ。
 これが寂しくなくて一番良い。
 食事の後は大学の課題をこなし、お風呂にも入った。
 ひとりミネラルウォーターを飲みながら眺める六本木の風景は、どうしてこんなにも寂しいのだろうか。
 吉羅に抱き締められたい。
 吉羅にキスをしたい。
 香穂子は甘く切なく思いながら、吉羅を待った。
 眺める時計の針は、胸が張り裂けそうになるぐらいにのろのろで、少しも進んではくれない。
「…暁彦さん…早く帰ってきてくれないかな…」
 これがわがままなのは、香穂子にも解ってはいる。
 しかし、逢えないと苦しいのもまた事実だ。
 香穂子は恋しくて、思わず吉羅のクローゼットからシャツを取り出してしまう。
 それを躰にかけると、ほんのりと吉羅の香りがして嬉しかった。
 まるで抱き締められているようで嬉しくてしょうがない。
 ほんの近くに吉羅がいてくれるような気がして、華やいだ気分になった。
 本当に吉羅が好きだ。
 好きでしょうがない。
 こんなにも好きになった男性は生まれて初めてだ。
 ただシャツを被っているだけなのに、本当に嬉しくてほわほわとした気分になった。
 吉羅の香りで安心したからか、いつしか瞼を睡魔が襲う。
 こんなにも気持ちが良いうつらうつらは他にないだろう。
 香穂子はいつしか眠りの世界にゆったりと漂っていた。

 香穂子に逢いたい。
 香穂子に逢える。
 ただそれだけを思って、吉羅は何とか仕事をこなした。
 家に帰ると、ほんのりと灯がついている。誰かがいてくれる証でもある。
 愛しい者がそこにいるというだけで、幸せが込み上げて来るのを感じた。
「香穂子」
 名前を呼んでも返事はない。周りを見ていると、ソファの上で気持ち良さそうにうたた寝をしている香穂子の姿があった。
 しかも吉羅のシャツを着て、本当に嬉しそうに目を閉じている。
 その寝顔が余りにも愛らしくて、吉羅はついじっと見つめてしまう。
 香穂子が眠るソファにそっと腰を下ろした。
「…本物はここにいるんだがね…」
 顔にかかる髪を柔らかく払ってやると、あどけなくて愛らしい顔が綺麗に見える。
 愛しくてしょうがなくて、吉羅は唇に深いキスをする。
 キスをすればお姫様が目覚めるのは童話のセオリーだから。
 吉羅がキスをして、躰を起こすと、香穂子は艶のある溜め息と共に瞳を開く。
「…暁彦さん…、おかえりなさい…」
「ただいま、香穂子」
 吉羅は香穂子だけにしか見せないとびきりの笑顔を浮かべると、魅惑的な唇にキスを落とす。
「お疲れ様でした」
「君をチャージ出来たら、疲れなど吹き飛ぶけれどね」
 吉羅は香穂子を抱き上げると、柔らかい笑みを浮かべる。
 すると香穂子はそれに応えるように微笑んでくれた。
「…沢山愛して下さい…」
 香穂子の甘い声に、吉羅は微笑まずにはいられない。
 こんなにも可愛いことを言われたら、歯止めが利かなくなる。
「言葉通り、たっぷりと愛してあげるよ…」
「…暁彦さん…」
 香穂子はうっとりと微笑むと、吉羅に総てを委ねてくれた。

 どれほど愛しているか、お互いに伝え合おう。
 肌の熱で、キスで、抱擁で。
 恋人たちの距離を埋める時間は始まったばかり。


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