*膝枕*


 新年草々から、息を吐くことが出来ない程の忙しさだ。

 吉羅は溜め息を吐きたいと思いながら、仕事に邁進している。

 学院を守ること。

 それは愛するひとの聖域を守ることでもある。

 愛しい者が、いつでも笑顔でいられるように、吉羅は前向きで仕事に努めるようにしている。

 だが。

 最近の忙しさは、仕事の糧でもある香穂子と逢えないような、かなり過酷な忙しさになってしまっている。

 吉羅も流石に、香穂子に逢えないのは辛くなっていた。

 あの笑顔に逢えるからこそ、過酷な仕事にも堪えられるのだから。

 今までは、誰かに逢えないからと、辛い想いをすることは、先ずはなかった。

 なのに、香穂子と出会ってからは変わってしまった。

 香穂子に逢えないと、胸が苦しくてどうしようもなくなる。

 まるで禁断症状を訴えているかのように思えた。

「…私も…相当重症ということかな」

 吉羅は自分で言いながら、苦笑いを浮かべてしまっていた。

 香穂子に逢いたい。

 どうしようもなく逢いたい。

 自らの特権を使ってしまおうかと、思わずにはいられなくなる。

 特権。

 甘い響きだが、理事長としてズルをしてしまおうということだ。

 会えないのなら、会いに来てもらえば良い。

 それだけだ。

 吉羅は、理事長特権で、香穂子を理事長室に呼び出してしまうことにした。

 逢引ではない。

 そうは思っていても、結局は、吉羅の気持ちがそうさせている。

 逢いたい。

 逢って、そうしたら、いきなり抱き締めてしまうかもしれない。

 暫く、抱き締めることすら出来なかったから、これを機会に、吉羅は愛する者を思い切り抱き締めてしまいたかった。

 吉羅は携帯電話を手にしていた。

 吉羅に逢いたい。

 逢いたくてたまらない。

 年明けからかなり仕事が忙しいらしく、香穂子は全くと言って良いほど、吉羅と逢えていなかった。

 余裕がないのは解っている。

 吉羅の仕事がどれぐらい大変なことぐらいも。

 だが、ほんの少しだけでも良いから、吉羅と逢いたかった。

 逢いたくてしょうがなかった。

 押しかけてしまおうか。

 ならば少しは時間を取ってくれるだろうか。

 香穂子はそればかりを考えてしまう。

 吉羅に逢いたいならば、ほんの少しでも良いから逢いにいけば良いのだ。

 迷惑が掛かってしまうだとか、そんなことばかりを考えていたら、先の一歩が踏み出せない。

 少しは思慮深いところは見せなければならないだろうが、それでも、逢いたかった。

 香穂子は勇気を掻き集めるように深呼吸をすると、背筋を伸ばして胸を張る。

 何だかやる気が出て来た。

 恋する乙女は行動あるのみなのだから。

 吉羅がいる理事長室へと駆け出していった。

 

 吉羅が携帯電話で連絡をしようとすると、理事長室のドアがノックされた。

 やれやれだ。

 吉羅は溜め息を吐くと、素早く携帯電話を片付けた。

「吉羅理事長、日野です」

 待ちに待っていた者の声が響き渡る。

 吉羅は満面に笑みを浮かべた。

 こんなにもタイミング良く香穂子が来てくれるなんて、こんなにもラッキーなことはない。

 お互いの想いが通じ合ったのだろうか。

 今は仕事の合間の隙間時間であるから、こんなにもタイミング良いことはなかった。

「入りたまえ」

「はい、失礼します」

 香穂子はわざとかしこまっている。それが何となく可愛い。

 香穂子が理事長室に入ってくると、爽やかな風が理事長室に吹き渡り、今まで澱んでいた空気が一気に消え去ったような気がした。

 吉羅は、香穂子の威力に感心せずにはいられなくなる。

「日野君、ドアの鍵は閉めてくれないかね?」

「はい」

 香穂子は不思議そうに返事をすると、素直に言われた通りにしてくれた。

「有り難う…。邪魔者を入れたくはなかったからね」

 吉羅の言葉に、香穂子はくすりと笑う。

「理事長らしいです」

「君もそう思っているのではないかね?」

 吉羅がからかうように言うと、香穂子は些か照れ臭そうに笑った。

「最近、仕事が忙しくてなかなか君に逢うことが出来なかったからね」

 吉羅は理事長としての表情ではなく、ひとりの恋する男としての表情を向けた。

 すると、香穂子もまた、愛らしいひとりの女性としての表情を浮かべてくれる。

 それが可愛かった。

「私、ずっと、吉羅さんに逢いたかったんです」

「勿論、私も君に逢いたかったよ。だから君を先ほど呼び出そうとしたんだよ。君に逢いたくて堪らなかったよ」

 吉羅がストレートに言うと、香穂子は素直に頷いた。

 その表情がまた可愛かった。

「余り時間はないが…、必ず埋め合わせはする。だから、今の隙間時間を私にくれないかな?」

「はい。私は、時間が許す限り、吉羅さんと一緒にいたいですから」

「それは有り難う」

 香穂子の気持ちも自分と同じように寄り添ってくれている。

 それが吉羅には嬉しかった。

「紅茶を淹れましょうか?」

「ではお願いしようか。一息吐きたいと思っていたからね」

「私もご一緒します」

「ああ」

 香穂子は、既に慣れている理事長室のパントリーを使って、手早く紅茶を淹れてくれる。

 紅茶を飲みながら、ほんの少しで良いから、香穂子と一緒にいたかった。

 紅茶が入ると、仕事をするような無粋なことはしないようにする。

 仕事から息を抜ける、ほんの僅かな時間なのだから。

「吉羅さんは最近、お疲れではないですか? 余り仕事ばかりをしていると、集中力が下がってしまって、かえって良くないと聞いたことがありますから、身体のためにも、仕事のためにも、余り無理をなさらないようにして下さいね」

 香穂子は優しい口調で、吉羅が不快にはならないように言ってくれる。

 その気遣いがとても嬉しかった。

「解っているよ。有り難う」

 吉羅は、香穂子にだけはつい見せてしまう笑顔を見せる。

 すると香穂子も頬を赤らめて、とても愛らしい表情をした。

「…嬉しいです。吉羅さんがこうして素直に笑って下さったら。お身体は本当に気をつけて下さいね。吉羅さんが倒れたら、私はおろおろとしてしまって、きっとパニックになってしまうでしょうから」

「君に言われると、一番弱いよ…」

 吉羅は苦笑いを浮かべると、香穂子をそっと抱き寄せた。

 今は誰も来ないから、こうして抱き締めることが出来る。

 それが吉羅には嬉しかった。

 腕の中の香穂子は頬をほんのりと赤らめながら、安心しきったように吉羅に甘えてくれる。

 可愛くてしょうがなくて、このまま連れ去ってしまいたくなる。

 流石にそれは拙いので、吉羅は何とか理性を保とうとした。

「こうしていると本当に安心出来ます…。吉羅さん…、何か私に出来るお返しはありますか?」

 お返し。

 抱き締めるだけでも充分だが、あえて言うならば…。

「…膝枕をしてくれないかね…?」

 香穂子がしてくれる膝枕は、吉羅にとっては最高のものだ。

 香穂子はほんのりと頬を赤らめると、コクリと頷いてくれた。

「このソファで良いですか…?」

 恥ずかしそうに微笑みながら、香穂子はソファの端に腰掛けてくれる。

「有り難う…」

 吉羅は最高の膝枕をすると、ソファに横になって目を閉じる。

 そのまま総てを預ける。

 最高のまどろみ。

 吉羅は、ご褒美と活力だと思いながら、眠りの世界にさらわれていく。

 意識が遠くなるのを感じながらも、優しく髪を撫でられるのを心地よく思いながら、しばしの楽園を味わっていた。




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