*風邪の功名*


 吉羅が理事長室の窓を覗くと、香穂子が一生懸命走っているのを見つけた。
 本当に走っているところ以外は見たことがないのではないかと思うほどに、いつもいつも走っているイメージがある。
 それだけ一生懸命だということなのだろう。
 白の音楽科の制服が似合うと思っていたのも束の間で、もう卒業なのだ。
 3年生は間も無く自由登校になる。
 既に星奏学院大学の入学を決めている香穂子には自由時間になる。
 しかし香穂子はヴァイオリンの腕を上げるために、自由登校の間も、定期的に学院にやってきてレッスンを受けることになっている。
 他のヴァイオリン専攻の学生との溝を埋めるための補講といっても良い。
 ヴァイオリンは経済的に負担になる楽器のひとつだから、なるべく香穂子の家族に負担がないようにと吉羅が配慮したのだ。
 ヴァイオリニストとして、香穂子にはもっと伸びて欲しかったのだ。
 香穂子にはヴァイオリニストとして成功して欲しいのだ。
 そのためには吉羅はどのような援助もするつもりでいる。
 経済の世界で成功を収めたお陰で、こうして香穂子がヴァイオリニストになるために手を貸して上げることが出来るのだ。
 香穂子は今日もレッスンに明け暮れるために、校内を走り回っているのだ。
 いつもレッスンの終わりに理事長室に来て、吉羅にその成果を聞かせてくれる。
 それが援助の条件でもある。
 今日も香穂子の走る姿を見たから、レッスンの後に理事長室に来てくれるだろう。
 吉羅にはそれが嬉しくてしょうがなかった。
 香穂子が来てくれることが、今や一番の楽しみになっているのだから。
 吉羅はフッと幸せな気分で微笑むと、再び仕事に没頭する。
 この先にある幸せなことを考えると、とても幸せな気分になった。

 吉羅が一仕事を終えた頃、理事長室にノックが響いた。
「理事長、日野です」
 いつもよりもかなり鼻にかかった声に、吉羅は眉を寄せる。
 風邪でも引いているのだろうか。
 昨日逢った時は、全く元気であったのに。
 今は風邪を引いているそのものの声だった。
「入りたまえ」
「失礼致します」
 香穂子が理事長室に入ってくると、いつもよりも蒼白い顔をしていた。
「日野君…、風邪かね…?」
「だ、大丈夫です。ちょっと鼻が詰まっているだけですから…」
 笑顔ではあるが、何かを誤魔化しているような気がしてしょうがなかった。
「気分が悪いのではないかね?」
「そ、そんなことは…、ないんですが…」
 香穂子は言葉を濁しながら、何かに怯えているようにしか見えない。
「どれ」
 吉羅が香穂子の額に手を伸ばすと、かなり熱かった。
 これではしょうがない。
「これでは練習どころではないね君は…」
 吉羅はしょうがないとばかりに溜め息を吐くと、香穂子の頬を撫でた。
「…香穂子、余りムリをするんじゃない…」
 吉羅は窘めるように言うと、香穂子の髪を撫でた。
 この時ばかりは優しくなる。
 香穂子は今にも泣き出しそうな表情で、吉羅を見つめた。
「ヴァイオリンを弾くのは躰が資本だ。その躰が健康でないと困るのは君だ」
 吉羅は冷徹にキッパリと言い切ったが、これは誰よりも愛する香穂子のためなのだ。
 姉のようにはなって欲しくはない。
 愛する者を失う苦しみはもう沢山なのだ。
 だからこそ、ほんの小さな風邪ですらも気にしてしまう。
「体調管理も実力のうちだ。日野くん」
「…はい…」
 痛いところを突かれたことは香穂子にもよく解っているようで、シュンとうなだれる。
 その姿が本当に可愛いと思ってしまう。
 こんなにも可愛い女性は他にいないのではないかと吉羅は思ってしまう。
 だがここで甘やかせることは出来ない。
 理事長として厳しく接しなければならない。
「ごめんなさい…理事長…。私…迂闊でしたね。体調管理もしっかりと頑張りますね」
 香穂子は蒼白い顔に笑顔を浮かべる。すると本当に儚いほどに美しい笑顔になった。
 理不尽なことを突き付けられれば反発をする香穂子ではあるが、明らかに自分が悪いこと、通りが通っていることはちゃんと受け入れる素直さがある。
 そこも吉羅が香穂子を愛しいと思う理由でもあった。
「…今日はもう家まで送ろう。無理をせずにぐっすりと眠るんだ」
 吉羅が立ち上がろうとすると、香穂子は首を横に振った。
「どうしてかね? 君は私が言ったことを少しも聞いてはいなかったのかね?」
「ちゃんと聞いています。だけどヴァイオリンを短くても良いから弾きたいんです。だから、短い曲を一曲だけ聴いて下さいませんか? ヴァイオリンは弾かないと腕が鈍りますから」
 香穂子は懇願するように吉羅を見つめてくる。縋る子犬のような瞳で見つめられてしまったら、受け入れるしかないではないか。
「…仕方がない…。短いのを一曲だけだ」
「有り難うございます」
 ヴァイオリンが弾けることがよほど嬉しいのか、香穂子は笑顔を向ける。
 その笑顔がまた愛らしくて、吉羅の胸を甘酸っぱい気分で満たしてくれた。
「…では短い曲を…」
「…ああ…」
 吉羅は香穂子が背筋を伸ばしてヴァイオリンを構える姿を見つめる。
 以前はよく目を閉じてヴァイオリンの音色を聴いていたのだが、今はこうして香穂子の様子を見ながら聴いている。
 香穂子の表情を見逃したくはなかったからだ。
 香穂子が奏でたのは、クラシックの類いのものではなく、昔からよく歌われているフォークソングだ。
 吉羅も小学生の頃、音楽で習ったことを思い出す。
 世界で一番好きなひとに歌を届けたい。
 そんな歌詞が印象的な歌だ。
 短い、短い歌。
 だがそこには愛しいという想いが沢山詰まっているのだ。
 香穂子は曲を奏で終わると、嬉しさとホッとした気持ちで笑顔になる。
 その笑みがまた愛しい。
 吉羅はいつものように香穂子に拍手をした。
 唇には甘い笑みをごく自然にたたえて。
「…有り難う…」
「…こちらこそ、有り難うございます。聴いて下さいまして…」
 香穂子は頭を深々と下げると、吉羅に礼を述べた。
「…こちらこそ有り難う…。日野くん、今日はどうしてこの曲を選んだのかね?」
「…そ、それは…」
 香穂子は熱のせいなのか解らないぐらいに顔を真っ赤にさせると、吉羅を見つめる。
「…わ、私の…気持ちとううか…その…」
 しどろもどろになりながら言った後で、香穂子ははにかんだ笑顔になる。
「理事長にだけ聴いて欲しかったんです…」
 恥ずかし過ぎるからか、香穂子は今にも穴に入りたいと思うぐらいに小さくなってしまう。
「…それは本当かね…? 私もこの曲の歌詞ぐらいは知っているからね」
 もしそうならば、こんなにも嬉しいことはないというのに。
「…はい…。歌詞の意味通りです」
 吉羅は嬉しくて、香穂子にゆっくりと近付いてその頬に手のひらを宛てる。
「日野くん…、風邪は誰かに移すと良いらしい…」
「…え…?」
 香穂子が驚いて目を見開いた瞬間、吉羅はゆっくりと唇を近付けていく。
 触れるだけの少年の香りがするキス。
 こんなに初々しいキスをしたのは初めてだった。
「…あ…」
 香穂子は顔を真っ赤にさせて吉羅を見るが、その瞳は綺麗に潤んでいる。
「…理事長…嬉しいです…。私…」
 言葉は後から着いて来るから。
 吉羅はフッと甘くてとろとろになるような笑みを浮かべると、香穂子を抱き締めた。
「…好きだ…」
 これこそ風邪の功名なのかもしれない。
 



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