*風邪の特効薬*


 朝から喉が痛くて、頭もぼんやりとする。
 風邪を引いてしまったが、どうしても吉羅に逢いたくて、香穂子はデートの仕度をした。
 姉のことがあったせいか、吉羅は誰よりも健康には厳しい。怒られるのは覚悟の上だ。
 いつもよりは温かくして、香穂子は約束の時間ギリギリで家を出た。
 時間に正確な吉羅は、程なく車でやって来て、香穂子の家近くに車を停めた。
「お待たせしたかな。さあ、乗りたまえ」
「はい」
 助手席のドアが開き、香穂子が堂々と車に乗り込むと、吉羅は不意に厳しい視線を向けた。
「…香穂子、顔色が悪い」
「だ、大丈夫です」
 強がって言っている端から咳が出てしまう。顔を赤くしながら咳をしていると、吉羅が咎めるように香穂子を見た。
「中止だ。今日は」
 吉羅はキッパリと言い切ると、溜め息を吐く。
 折角吉羅に逢えたのに中止だなんて、そんなことは我慢出来ない。香穂子は恨めしい気分で、吉羅を睨み付けた。
「…嫌ですっ」
「仕方がないだろう…。今日の君の様子を見れば」
「…だって、久し振りにプライベートで暁彦さんに逢えるのを楽しみにしていたのに逢えなくなるなんて…絶対に嫌です」
 香穂子が涙目で強情な子供のように吉羅を見ると、大きな溜め息を吐かれてしまった。
「余り無理してはいけないだろう? 体調優先だ、香穂子」
 吉羅は涙ぐむ香穂子の頬を撫でると、宥めるように頬にキスをする。
「暁彦さん…。だって、そばにいたいんです…」
「私だって君のそばにいたいんだがね。香穂子、躰が優先だ。また何時でも出かけられる」
 吉羅は大人らしい言葉をかけた後で、溜め息を吐く。
 このまま助手席のドアを開けられて、家に帰される。
 香穂子は洟を啜りながら、小さくなっていた。
 だが予想とは裏腹に、吉羅は車を発進させる。
 ゆっくりと動き始めたフェラーリに、香穂子は嬉しい驚きに目を丸くした。
「暁彦さん…?」
「君が強情だからね。…それに私だって、プライベートで君といるのは久し振りだからそばにいたい…」
 こちらがうっとりとするような甘くて低い魅力的な声に、香穂子は今度は幸せで泣きそうになる。
「だから…。ふたりの意見の間を取って、時間になるまで、うちで君を看病するというのは、どうかな?」
 吉羅の甘く素敵な提案に、頷けないはずがない。
 香穂子は顔をクシャクシャにしながら、頷いた。
「…酔いそうになったら言ってくれて良いからね」
「有り難う、暁彦さん…。大好き…」
 香穂子は小さな子供のように泣きながら言うと、吉羅は髪をくしゃりと撫でてくれた。
 いつも吉羅の運転は丁寧だが、今日はそれに増して気遣ってくれる。
 沢山の愛情と優しさに、香穂子は嬉し過ぎて泣きそうになった。
「気分は悪くないかな?」
「大丈夫です。暁彦さんの運転はいつも丁寧だから…平気なんです…。今日はそれ以上に丁寧に運転してくれるから…、快適なんですよ…」
 香穂子が華やかに笑うと、吉羅はフッと柔らかな笑みをくれる。冷たい理事長像からは想像出来ない温かな笑みだ。
 香穂子は、吉羅の甘い微笑みを独り占め出来る幸せを、じんわりと楽しんだ。
 吉羅は自宅まで車を走らせる間、何度となく香穂子の手を握り、心配そうに見つめてくれる。
 風邪の熱とはまた違う意味の熱さが躰を駆け抜けて、香穂子の呼吸は苦しくなった。
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
 香穂子が恥かしそうな視線を送ると、吉羅は直ぐにその意味が解ったようで、意味深な笑みを浮かべた。
「私は、病人を襲う趣味はないと、今の時点では言っておこうかな」
「暁彦さん…」
 熱が出ているし、風邪特有の怠さで関節も痛い。
 だが、甘い行為を受け入れたくなってしまうほどに、今日の吉羅は魅力的だった。

 車が吉羅の自宅に到着する頃には、香穂子は少しふらふらになっていた。
 エレベーターに乗る時も、吉羅に支えられて何とか部屋にたどり着くことが出来た。
 吉羅は香穂子を部屋に入れるなり、抱き上げてベッドに運ぶ。
「香穂子、無理はしないように。今日は寝ていなさい」
「はい」
 香穂子は広い吉羅のベッドに寝かされて、ホッと息を吐いた。
 やはりこうして横になると、かなり楽だ。
 吉羅が氷枕を頭に宛ててくれ、市販薬とサプリメントを持ってきてくれた。
 かいがいしく看病してくれるのが、幸せで幸せでしょうがなかった。
 香穂子が躰を起こして、薬を飲もうとすると、吉羅に抱き寄せられる。
 吉羅は香穂子を抱き寄せながら水と薬を煽るように飲むと、そのまま深く唇を重ねてきた。
「…っん…!」
 お仕置のような甘い拷問に、香穂子は胸を苦しくさせながら、薬を何とか飲む。
 香穂子の喉がコクリと動いた瞬間に、吉羅は唇を離した。
 深い熱情が煌めいた瞳で見つめられて、香穂子の全身はほてる。
「…暁彦さん…風邪が移っちゃうよ…?」
「病人に薬を飲ませるのに、これ以上の行為はないと思うがね?」
「…暁彦さんの馬鹿…」
 香穂子が上目遣いで吉羅を睨み付けると、薄く笑われただけだった。
「風邪を引いているお嬢さんは、眠るんだ。これは私のパジャマの上だが、小さな君ならこれで充分だろう?」
 こころのなかで、充分なんかじゃないとごにょごにょと呟きながら、香穂子は綺麗にアイロンがかかったパジャマを受け取った。
「…有り難うございます…」
「それに着替えたら少し眠ると良い。私は、ここで明日の仕事の準備をするから。今、やっておけば、来週末は、また逢えるだろうからね。リベンジだね。今日の」
「有り難うございます」
 香穂子は素直に礼を言うと、吉羅のパジャマをそっと抱き締めた。
 吉羅が仕事道具を取りに行っている間に、香穂子は素早くパジャマに着替える。
 仄かに香るせっけんの匂いと、吉羅のコロンの香りがとてもこころに気持ちが良い。
 抱き締められているみたいだ。
 香穂子はギュッと自分自身を抱き締めて、幸せに浸っていた。
 香穂子がベッドに横になった頃、吉羅が戻ってきて仕事を始める。
 吉羅が仕事をしている姿を幸せに見つめながら、香穂子はいつしか眠りにさらわれていった。

 どれくらい眠っていたのだろうか。
 目覚めた時にお腹が空いて堪らなくて、香穂子は躰を起こした。
「目が覚めたみたいだね? 顔色が良くなったようだ。お腹が空かないかね?」
「少しだけ空きました」
「だったら茶粥を用意したから食べようか」
「有り難うございます」
 香穂子の言葉に、吉羅は眩しそうに微笑んだだけだった。
 直ぐにシンプルな茶粥が土鍋に入って運ばれてきて、香穂子は温かな気分になる。
 吉羅がこんなにも恋人に優しくて甘いと知ったら、きっと誰もが驚くに違いない。
「さてと。準備が出来たよ私のお嬢さん。食べようか」
「はい。頂きます」
 吉羅に茶粥を茶碗によそってもらい、香穂子ははふはふと息を弾ませながら食べる。吉羅もその様子を見ながら、かつて香穂子がプレゼントをした蓮華を使って食べてくれた。
 嬉しくて香穂子がにんまりと笑うと、吉羅も微笑み返してくれる。それだけでたまらなく幸せだった。
「さてと昼食も終わったことだし、昼寝をしようか」
「え…?」
 吉羅は香穂子をベッドの中央に寄せると、自分もその中にも入ってくる。香穂子を抱き締めて、吉羅は香穂子の額にキスをする。
「あ、暁彦さん!?」
「看病のご褒美に一緒に昼寝させて貰うよ。構わないね?」
「…はい」
 吉羅が甘えるように香穂子の肩に頭を預けてくるのを、優しく受け止める。
 香穂子は心地よい吉羅の温もりを感じながら、髪を撫でて、目を閉じる。
 次に目覚めた時には、風邪が良くなっていると確信しながら。



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