*絆*


 彼女に初めて出会ったのは、年上の従兄・暁彦さんに逢うために、星奏学院を訪れた時だった。
 星奏に入るようにと暁彦さんには勧められたけれど、正直、余り興味はなかった。
 日本では有数のレベルを持つ音楽科があると聞いてはいたけれど、所詮、“井の中の蛙”どもの集まりだと思っていた。
 初めて聴いたあのひとの音は、技術面では全くなっていなくって、本当に失笑ものだった。
 …なのに、あのひとの音は魅力的だった。
 他の誰にもない温かさと優しさ、そして清らかさを持っていた。
 次に出会ったのは海岸通り。
 一生懸命でのびのびした音を出しながら練習をしていた。
 澄み渡って明るい青空みたいな音。
 あの音を聴きたくて、俺は海岸通りに通うようになっていた。
 聴く度に彼女の音が、彼女自身が、好きになっていた。
 海岸通りに通っているうちに、ひとつ気付いたことがあった。
 彼女を見守るひとつの影。
 厳しいのにとても優しいまなざし。
 暁彦さんだった。
 暁彦さんは年上の従兄で、俺の憧れのひと。
 そのひとが静かに彼女を見守っていた。
 やがて彼女の練習が終わると、ふたりで何処かに出掛けるようになっていた。
 ふたりで楽しそうに、そして幸せそうに。
 いつもクールな暁彦さんが、あんなにも甘い笑みを浮かべるのを見た事がなかった。
 そして彼女も…。
 仲間や俺と一緒にいる時とは違う笑顔を浮かべている。
 そこには明らかに華やぎがあり、俺たちを寄せ付けない輝きがあった。
 太刀打ち出来ないことを俺は悟った。
 だが、諦められなかった。


 大学を一年間休学をして、留学先のウィーンから帰ってきて一週間。
 香穂子は、吉羅と久しぶりの地元のデートを楽しみに、待ち合わせ場所のカフェでのんびりと待っていた。
 吉羅とは、ウィーンでもデートを重ねたから、そんなにも“久しぶり”ではなかったが、やはり地元でのデートは久しぶりだ。
 香穂子はそれが嬉しくて、華やいだ気分になっていた。
 お気に入りの紅茶とチョコレートケーキ。
 ウィーンはチョコレートケーキが有名で、美味しいものは沢山あったけれども、やはり学院近くのカフェの味が懐かしかった。
 それを食べられてとても嬉しい。
 ふとドアが開く音がして前を見てみると、懐かしい顔に遭遇した。
 衛藤桐也。
 香穂子より2歳下の、大好きな男性の従兄だ。
「あれ? 香穂子、暁彦さん待ち?」
「そうだよ。暁彦さんを待っているんだ。もうすぐ来るって」
 香穂子は吉羅がやってくるのを待ち遠しいと思いながら、笑顔で答えた。
 本当に早く逢いたい。
 吉羅とのとっておきのドライブデートだ。
「…そっか…。暁彦さんが来るまで、ここに座って良いかな?」
「どうぞ」
 香穂子がにっこりと笑うと、衛藤も少しだけ嬉しそうに笑ってくれた。
「ウィーンのコンクールにも優勝して、いよいよこれからだな」
「うん。これから日本を中心に活動していくつもりだよ。大学も休学していたから、また大学生をしながら、ソリストとして頑張っていくつもり」
「そうか」
「衛藤くんは?」
「俺も海外に再び出るつもりだ。ヨーロッパじゃなくて、ボストンだけれどね。あっちでのびのびした音を追求出来たら良いと思っている」
「そうか。私も負けないように頑張るね」
 戦友のようにお互いに頑張っている仲間たち。それが大きな刺激と支えになっている。
「あ…」
 衛藤と話していると、香穂子の大好きな男性がやってくる。
 あの艶のある完璧な姿を見るなり、香穂子はうっとりと見つめてしまう。
 大好きな大好きな男性だ。
「香穂子、お待たせしたね。桐也、お前はどうしたのかね?」
 吉羅が従弟に声を掛けると、衛藤は立ち上がった。
「香穂子さんが暇そうにしていたから、音楽のことを色々と話していただけ」
「そうか」
 吉羅は軽くあしらうように言うと、香穂子に手を差し延べた。
「お待たせしたね。行こうか」
「はい」
 香穂子は嬉しくてしょうがないと思いながら、吉羅の手をしっかりと取った。
 吉羅にギュッと手を繋がれて、香穂子は嬉しくて頬を染める。
「では桐也、また」
「衛藤くん、またね?」
 香穂子は軽く衛藤に手を振った後、吉羅だけを見つめながら、カフェを出た。


 香穂子と吉羅が手を繋いでカフェを出て行くのを眺めながら、衛藤は溜め息を吐いた。
 ふたりが結ばれている手を見ていると、誰も切ることは出来ないのだと感じる。
「…参ったな…」
 衛藤は溜め息を吐くと、長めの前髪をかきあげた。
 大好きで大好きでたまらない女性。
 それは中学の頃から変わらない。
 だが、尊敬する従兄の恋人だった。
 恐らくは出会った時は同じだろうに、彼女が選んだのは年上の従兄だった。
 先程、吉羅がやってきた途端、香穂子の視線は恋人だけを捕らえていた。
 吉羅だけしか見えない。
 恋するまなざしがそう言っているようにしか、衛藤には思えなかった。
 年上の従兄は、衛藤が香穂子をまだ好きでいることを知っているからか、視線で威嚇をしてきた。
 そんなことをされなくても解っている。
 香穂子の世界には吉羅しかいないのだから。
 それを強く思い知らされた。
 そして。
 香穂子の左手薬指には、美しい指環が光り輝いていた。
 恐らくは吉羅が贈ったもの。
 あの豪華さからいけば、恐らくはステディリングではなくエンゲージリングなのだろう。
 早晩、母親から聞かされる筈だ。
 従兄の暁彦くんが、ヴァイオリニストと結婚をする、ことを。
 衛藤は寂しくて切ない気分になりながら、そっと目を閉じた。
 大好きなふたりだからこそ祝福をしてやりたい。
 だがよりにもよってあのふたりが結ばれるとは。
 一番嬉しくて切ない組み合わせだった。
 衛藤は瞳を閉じると、再び溜め息を吐いた。
 香穂子の相手が、吉羅暁彦でなければ、諦めることはなかっただろうに。
 2歳年上の美しいひとを。
 吉羅の威嚇をするようなまなざしも忘れられない。
 ひとや物に執着するようなひとではないのに、吉羅は香穂子にだけは独占欲を見せていた。
 それだけ深く愛しているということなのだろう。
 ふたりのまなざしを見て、決して勝つ事が出来ない戦いであることを悟った。
 衛藤はもう一度溜め息を吐くと、ブレンドコーヒーを一気に飲み干した。

 吉羅と香穂子は手を繋ぎながら、駐車場へと向かう。
「本当にこの瞬間迄が長い1年間だったよ…。だが、充実していたよ。待つ楽しみがあったからね」
「私もです…。暁彦さん…」
 香穂子は頬をほんのりと染め上げると、吉羅を見上げた。
「約束通りにもう離さないから、そのつもりで」
「約束通りにもう離れませんから」
「ああ…」
 ふたりはお互いにしっかりと手を握りあって、見つめあう。
 香穂子は頬を染めながら、吉羅を見つめた。
 吉羅の愛車に乗り込み、香穂子はふわふわとした幸せな気分になる。
「君と一緒に暮らすのをずっと楽しみにしていた。こうして君と一緒になれるのはとても嬉しい」
「私もです。ずっと暁彦さんとこれから一緒にいられるのが嬉しいです…」
「まさかご両親も、ウィーンから帰国したら直ぐに私のところに行くなんて思ってはいなかっただろうからね…」
「そうですね…」
 吉羅は車を走らせながら香穂子の手を握り締めてくる。
 しっかりと手を繋ぎながら、もう二度と離れない事を誓った。

 カフェから出て衛藤は夜空を見上げる。
 どうかふたりが幸せでありますように。
 絆が切れないのならば祈れば良い。
 それがただひとつ出来ることだから。



Top