最近どうしようもないほど眠い。 特にヴァイオリンを弾いた後がとみに眠いのだ。 吉羅と結婚してからちょうど一月。 疲れが堪っているのだろうかと、香穂子はぼんやりと考えながらうとうとしていた。 「日野…じゃなかった、吉羅香穂子! 随分と心地良さそうだな」 リリが不意に香穂子の前に現われて、ニコニコ笑っている。 妖精と話すのは楽しい。しかもその楽しさを、愛するひとと共有しているのが、たまらなく幸せだった。 「リリ、最近、眠いんだよ。しかも辛い眠気じゃなくて、とっても優しい眠気なんだよ。特にねヴァイオリンを弾いた後が一番眠いんだ」 香穂子がのんびりと話していると、ラーメやフェッロたちも話の仲間に入りたいとばかりに寄ってきた。 「凄く気持ちが良いからね、このままヴァイオリンを抱っこして眠りたくなるんだ。そうしたら凄く幸せだなあって。だけど、そんなことしたら、暁彦さんに怒られちゃうからね。風邪を引きそうなことをするだけで、ものすごく怒るんだ。心配性なんだよね」 香穂子はくすくすと笑いながら、無意識に惚気てしまっている。 「…ふむ…。吉羅香穂子は眠いのか…。何だか久しぶりに聴いた台詞だなあ…」 リリは香穂子の言葉を聞きながら考え込んだ後、ラーメやフェッロと一緒に何やら内緒話をしている。 香穂子は彼等の密談を楽しげに眺めた。 こうして妖精の様子を眺められるのは、普段は自分達夫婦だけなので、それがとにかく嬉しい。 誰にも二度と切ることが出来ない絆だ。 香穂子がじっと見ていると、ファータたちの密談は程なく終了した。 香穂子は余りに眠くて、大きな生欠伸をする。 「…やっぱりちょっと熱っぽいかなあ…」 ひとりごちていると、ファータたちにじっと見つめられているのに気付いた。 しかもどのファータも何処か嬉しそうでいて、不思議なものを見るかのように見つめている。 「…吉羅香穂子! めでたいのだっ!」 「い、いきなり何を言うの?」 結婚したことは祝って貰ったし、他にめでたいことと言えば、CDを出せたことだが、それも確かに祝って貰っていたのを思い出す。 「リリ、ファータのみんな、何がめでたいの?」 香穂子が小首を傾げると、ファータたちはニヤニヤと笑いながら、香穂子の腹部を見る。 「これは吉羅暁彦の時以来なのだ!」 「暁彦さんがどうかしたの?」 「吉羅香穂子! お前と吉羅暁彦との間に、子供が出来たのだっ!」 リリは実に嬉しそうに笑っているが、香穂子は目を丸くする。 いきなりそんなことを言われても驚くばかりで。 確かに結婚もしているし、吉羅とは毎晩のように肌を重ねている。 子供は少し生活が落ち着いてからと思っていたのだが、まさかこんなに早く出来るとは思ってもみなかった。 驚いてはいるが、正直、嬉しい。 家族運が薄く、家族の暖かさに憧れすら抱いていた吉羅の子供を、早く作ってあげたかったから。 「…ねぇみんな、本当に本当? 本当にお腹のなかに赤ちゃんがいるの?」 香穂子は頬を滑らかに赤らめながら、ファータたちを見上げた。 「本当なのだ! 我輩はちゃんと感じたのだ。魔法のヴァイオリンを今から作っておかなければと、準備しようと思っているのだー」 リリの言葉を聞きながら、香穂子は笑みを綻ばせて、自然とお腹に手を宛てる。 「だけど魔法のヴァイオリンは早いよ、リリ」 「いや。今から準備しておけば、素晴らしい魔法のヴァイオリンが出来るのだ!」 「まだ病院に行って確認してないのに」 香穂子がくすくすとと笑いながら言っていると、不意に影を感じた。 「アルジェント・リリ。余り香穂子を困らせるな」 冷たい低い声に香穂子が顔を上げると、そこには吉羅暁彦が立っている。 香穂子の横に腰を下ろすと、リリを睨み付けた。 「別に吉羅香穂子を困らせていたわけではないのだっ! 吉羅暁彦、吉羅香穂子の腹のなかに子供がいると言っただけだっ!」 リリが拗ねるように言い放つと、今度は吉羅が驚いたような惚けたような顔になる。 「香穂子、それは本当か…?」 吉羅は香穂子の手を握り締めながら、どこか期待を込めて訊いてくる。 「ファータが言うから嘘じゃないかもしれないなって思って、午後から病院に行こうと思っていたんです」 香穂子は嬉しさとどこか恥かしさを感じながら、吉羅にニッコリと微笑んだ。 「勿論、私も病院に同行するから。私の車で行こう」 吉羅はもうすっかりその気のようで、香穂子はまた微笑んでしまう。 「お仕事は大丈夫ですか?」 「仕事よりも君のほうが大事だからね。仕事は何とかなる」 吉羅はキッパリと言うと、着いて行く気、満々といったところだった。 「じゃあ一緒に行きましょう。着いてきて下さい」 「ああ」 吉羅はまるで少年のように嬉しそうな顔をする。それが香穂子は可愛くてたまらない。 「二人とも! 沢山子供を作って、音楽で家庭を満たすのだ! 今から楽しみだ! 楽器を与えたり、楽譜を与えるのが!」 「私たちの子供に、変なアイテムだとかを押し付けて、実験台にするな。アルジェント!お前が絡むとろくでもないからね」 吉羅が睨み付けても、リリは機嫌良くひらひらと舞っていた。 「楽しみなのだー! 吉羅香穂子! 沢山、吉羅暁彦との子供を産むのだー!」 「リリ、余り沢山は無理だよ」 香穂子がくすくすと笑うと、吉羅は意味深な笑みを浮かべる。 「その件に関しては、私はアルジェント・リリに賛成だがね。君にしっかり協力をするからね」 「もう…」 香穂子は真っ赤になると、吉羅とリリを交互に睨み付ける。その表情に、吉羅もリリも笑っていた。 「さてと。私の奥さんがファータに理解があってファータが見える女性で助かったよ。さあ、行こうか」 吉羅は香穂子の手を握り締めたまま立ち上がると、リリたちに背を向ける。 「またな。ファータ。アルジェント・リリ、今日ほどお前が素晴らしいファータに見えた日はなかったよ」 吉羅はリリに一瞥を投げると、香穂子を連れて理事長室へと向かった。 午後一番の診察を受けるために、吉羅は香穂子を車に乗せて、大学病院へと向かった。 「気分が悪くなったら、直ぐに言いたまえ」 「はい。有り難うございます」 吉羅はいつもよりもかなり丁寧に運転してくれて、香穂子が気分が悪くなることもない。 運転している間も、余裕があれば吉羅は香穂子の手を握り締めた。 病院に到着し、診察の順番を待っている間も、吉羅は気が気でないらしく、香穂子の手をずっと握り締めていた。 「吉羅さん、お入り下さい」 「はい。じゃあ暁彦さん、いってきます」 「ああ」 香穂子が吉羅から離れると、何処か切なそうな顔をするのが、愛しい。 香穂子は尿検査などの基本的な検査をいくつか受けた後、吉羅と共に診察室に呼ばれた。 「ご主人と一緒のほうが良いのでね」 そう医師に言われて、吉羅とふたりで不安な面持ちで診察室に入る。 香穂子は診察台のベッドに寝かされると、腹部の部分の衣服を捲られて、冷たい液体を塗られた。 「ご主人もご覧になりたいでしょう」 医師はニッコリと微笑むと、香穂子の腹部に器具を乗せる。 「これが奥様のお腹です。小さい小さい影のようなものが解りますか?」 「はい」 吉羅はモニターを凝視しながら頷いた。 「これがお子さんですよ。おめでとうございます。妊娠二か月ですね。この画像はプリントアウトしますから」 香穂子はモニターに、確かに小さな心臓のようなものが移っているのに気付く。 新しい命なのだ。 これが吉羅との愛の結晶なのだ。 香穂子は嬉しくて、涙が零れ落ちそうになる。 吉羅を見ると、本当に嬉しそうにしているのが解った。 香穂子と目が合うと、吉羅は手を握り締めてくれる。 吉羅がこころから喜んでくれるのが嬉しくて堪らない。 そして香穂子も、吉羅の子供を身籠もることが出来たことが、何よりも嬉しかった。 「これからちゃんと定期健診に来てくださいね。それと吉羅香穂子さん、CDにサインを頂けませんか? 産婦人科揃ってあなたのファンなんですよ」 差し出された胎教CDに、香穂子はにっこりと微笑みながら頷いた。 吉羅の車に乗って、香穂子は自宅に戻る。 「今日はお祝いをしようか。ただしアルコールは駄目だよ」 「解っています」 香穂子はくすりと笑うと、吉羅の肩に凭れて目を閉じる。 柔らかな幸せがふたりを包み込んでいた。 |