*ふたつの氷*


 日本音楽コンクールの学生部門で第1位だと言われても、香穂子はまだ信じられない気分でいた。
 思わず確かめるように横にいる吉羅や金澤を見てしまう。
 目が零れ落ちてしまうぐらいに見開いてふたりを見ていた。
「そんな顔をしなくても君が第1位だ。ステージに行きなさい」
 吉羅はあくまで落ち着いた声で言い、香穂子を促す。
「日野さん、日野香穂子さん」
「ほら、呼ばれている。立ちなさい」
 吉羅は溜め息を吐いて飽きれるように言うと、香穂子を立ち上がらせてくれた。
「行きなさい」
「…はい…」
 香穂子がゆっくりと歩いてステージに上がると拍手が沸き起こる。
 まるで雲の上を歩いているかのようで、信じられない。
 香穂子がようやくステージに上がると、表彰状、トロフィー、そして花束が渡された。
「おめでとう。君の第1位は全会一致だったよ」
「有り難うございます…! 本当に嬉しいです」
 香穂子は嬉しくて泣きそうになりながら、客席にいる吉羅を思わず見つめた。
 ここまで来れたのは、吉羅が陰になり日向になり援助をしてくれたからだ。
 経済的にも精神的にも、吉羅はかなり支えになってくれた。
 本当に感謝をしてもしきれないというのは、正にこのことだ。
 香穂子は何度も頭を下げると、吉羅を見つめた。
 ステージから下りて席に戻ると、滅多に笑みを見せてはくれない吉羅が、深く微笑んでくれた。
「今日だけは言おう。よく頑張った」
 吉羅に労いの言葉を貰うだけでなんて嬉しいのだろうかと思う。
 これで少しは吉羅に近付けただろうか。
 これで少しは恋の対象として見て貰えるようになっただろうか。
 答えは解らないが、そう願いたかった。
 他の部門の表彰を静かに見守りながら、香穂子は幸せで幸せでしょうがなかった。

 授賞式が終わり、香穂子は吉羅たちと一緒にホールを出た。
 香穂子の他に、チェロ部門では志水が第1位になり、クラリネット部門では冬海が第2位となった。ヴァイオリン部門の衛藤は惜しくも第2位だった。
 4人の応援に、加治や土浦、天羽、そして進学した火原や柚木も駆け付けてくれた。
 みんなで駅までゆっくりと歩く。
 香穂子はつい吉羅の横を歩いてしまう。
 少しでも長い間そばにいたかった。
 みんなよりも前を歩いていく吉羅に、一生懸命着いていった。
「仲間たちとのんびりと歩かなくても良いのかね?」
「…私は理事長と歩きたいだけです」
 香穂子が笑顔で答えても、吉羅はいつものようにしらりとした笑顔を向けるだけだ。
 それが寂しいと言えば寂しいのだが、ほんのりと切なくもあった。
 香穂子はいつになったら吉羅に追いつけるのだろうかと考える。
 日本音楽コンクールの学生ヴァイオリン部門で第1位になったところで、有名ヴァイオリニストにはまだまだ遠いのだ。
 吉羅にはまだ追いつけない。
 今回は小さな一歩を踏み出したに過ぎないのだ。
 それが悔しくてしょうがなかった。
 横にいる吉羅は背が高くて、追いつけないことの象徴のように思える。
 追いつきたい、なるべく早く。
 不意に香穂子は横に少し高めの植え込みがあることに気付いた。
 そこの縁につい登って、吉羅と同じような高さになる。
「…ったく、何のまねかね? そんな格好ばかりをしているなんて、君は小さな子どもなのだね」
 小さな子ども。
 その一言がかなり切なくて、香穂子はほろりと泣きそうになった。
 だが、何とか踏み止どまると、わざと笑顔になった。
「…そうですよ…。私は子どもなんです。だからこのようなことをするのが大好きなんです」
 香穂子はわざとしらりと言うと、縁をスタスタと歩いた。
「あっ…!」
 つい調子に乗り過ぎてしまい、香穂子は足を踏み外してしまう。
「…全く…」
 吉羅は悪態を吐くと、しょうがないとばかりに香穂子をしっかりとした腕で抱き留めてくれた。
「…あ…」
「君はしょうがない生徒だよ。当分はこうしていたまえ」
 吉羅は呆れるように言いながらも、香穂子の手をしっかりと握り締めてくれた。
「…あ、有り難うございます…」
「しっかりと掴まっていたまえ」
「はい…」
 吉羅と手を繋いで歩く。
 皆の目もあるにはあるが、それよりも吉羅としっかりと指を絡ませあっていたかった。

 二人の様子を、少し後ろから温かいまなざしで仲間たちが見ていた。
「…あのふたりは氷だね…」
 不意に衛藤がひとりごちるように言う。
「…氷…か…」
 金澤は言い得て妙だと思いながら、冬空を見上げる。
「…お互いの恋情の熱で、お互いの氷を少しずつ溶かしているようだな…。やがてひとつのごく自然でありながら力を持った流れになるんだろうな…」
「そう…」
 衛藤は同意すると少し寂しげな表情をする。
 それは応援に来ていた他の者も同じだった。
 ふたりが熱烈に愛し合っているのは知っている。
 だがふたりはあくまで“恋人関係”にはなってはいない。
 理事長と生徒という関係だから。
 それはふたりにとっては、一種の枷のようなものだ。
 ここにいる誰もが、香穂子に幸せになって貰いたいと思いながら、見守っていた。

 吉羅は香穂子の手を力強く握りながら、いつものような少しばかりクールな瞳を向けてくる。
 その瞳の奥には優しい光があることを解っている。
「君はもうすこしだけ大人にならなければならないね。小さな子どものように、私に手を引かれるようなことはないようにして貰わなければ」
「…解っています」
 香穂子はわざと拗ねたような顔した後、吉羅に挑むようなまなざしを向ける。
「理事長、いつか対等にこうして手を繋いで繋がれるようにしますから。だから待っていて下さい」
 香穂子がキッパリと言い切り、力強いまなざしを向けると、吉羅はフッと微笑んだ。
「解った。君を待っていよう。だが、私はそんなにも気が長いほうではないものでね。君には急いで貰わなければならないよ」
「望むところです」
 香穂子は、吉羅が考えているよりももっともっと早くに追いついてみせると思う。
 どんなことがあっても、乗り越えてみせる。
「…楽しみにしているよ」
 吉羅は満更でもないかのように甘く楽しそうな笑みを浮かべる。
 いつか近いうちに、子どもと大人のようだと思われないようにしたいと、香穂子は強く思っていた。

 香穂子たちのお祝いということと、軽く食事を取りたいということで、カジュアルなレストランに入った。
 本格的なお祝いは改めてすることにして、今日は気心が知れた人達とカジュアルなお祝いをする。
 香穂子も仲間たちと話すことが出来て、本当に幸せな気分だ。
 久しぶりにこころから笑うことが出来た。
「理事長も本当に嬉しそうだよね。なんたって秘蔵っ子香穂が優勝したんだもんねえ。自分の従弟を抑えてね。もの凄く嬉しそうだよね。いつもの威嚇オーラとは全然違うよ」
 天羽は吉羅を見た後、香穂子を優しい目で見つめてくれる。
 それがくすぐったい気分だった。

 小さなパーティが終わった後で、香穂子はゆっくりと家に向かう。
 ごく自然に、吉羅が車で送ってくれた。
 家までの本当に短いドライブを楽しんだ後、家の前で別れる。
 吉羅はわざわざ車から下りて、香穂子を見送ってくれた。
「今日は有り難うございました」
「日野君」
 名前を呼ばれた後、不意に吉羅に頬を包まれる。
「今回はよく頑張ったね…。君は…」
 吉羅の手が温かくて、香穂子は思わず目を閉じた。
 これが最大級の褒め言葉。
 だが、これ以上のプレゼントはないと、香穂子は思っていた。
 



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