いつも冷たいあなたのまなざしが、春の雪のように溶けていく瞬間が、一番好き。 私を愛してくれていることを感じる瞬間。 最近の週末は吉羅のマンションで過ごすことが多くなっている。 デートをする暇なんてないほどに忙しいひとだから、少しでも一緒にいる時間を長くしたくて、週末は香穂子が押しかけている。 吉羅のために夕食を作るのもだんだん慣れてきた。 料理をするのは好きだから、苦ではない。 いつも週末は、甘い結婚生活の予行演習になってしまっている。 今夜は、きんぴらごぼうと茶巾寿司に吸い物。 学校の調理実習の延長のようなメニューで申し訳がないと思いながら、香穂子はこころを込めて作った。 夕食の準備が出来た後で、香穂子は吉羅の帰りを待ちながら、試験勉強をする。 こうして勉強して待つ間も、とても幸せでたまらない。 秘密の関係。 秘密の時間。 最初は、理事長と学生だからだと、関係を先に進めたがらなかった吉羅だが、香穂子が高校を卒業した途端に、戒めを解いてもの凄いスピードで男女の仲となった。 香穂子がヴァイオリンの学生チャンピオンになったのも影響しているかも知れない。 香穂子がレポートを終える頃に、吉羅がようやく帰ってきた 香穂子は早速吉羅を玄関まで迎えにいく。 「おかえりなさい、暁彦さん」 声を掛けると、吉羅は薄く笑って抱き寄せてくれた。 「ただいま」 吉羅は香穂子を甘やかされながら、唇を重ねて来る。 穏やかなのに甘くて激しいキス。 理事長吉羅暁彦ではなく、生徒日野香穂子ではなくなる瞬間。 ふたりはただの恋人同士になる。 いつもは“理事長”と呼んでいるが、この瞬間からは、“暁彦さん”になる。 「暁彦さん、直ぐに夕食にしますね」 「有り難う」 吉羅の落ち着いた甘い笑みに、香穂子もまたつられるように笑みを浮かべた。 吉羅が着替えるのを手伝った後、香穂子は夕食をテーブルに並べる。 いつも連れていってくれるディナーとは比べ物にならないけれども、暖かさや気持ちは籠っていると思っている。 ふたりは食卓を囲んで、いつも微笑みを滲ませて食事をする。 ふたりだけの時間。 幸せで幸せでしょうがなかった。 「レポートは上手くいったかな?」 「めどはつきました」 「大学は楽しいかね? 高校生の頃のように、君をさり気なくケアすることが出来なくなっているからね。それが残念だよ」 「大学は楽しいです。音楽をたっぷりと学べますから。だから毎日充実しています」 「なら良いよ」 食事をしている香穂子の頬に、吉羅は指を伸ばす。 「しっかり頑張ってくれたまえ、日野君」 「はい。有り難うございます、理事長」 いつもはこうして触れ合いながら励ましてくれることはないから、香穂子は嬉しい。 いつも冷たい分、ふたりきりでいる時は、吉羅はとことんまで甘やかせてくれるのだ。 「料理の腕も日々進化している」 「そりゃそうですよ。毎日、大好きなひとの為にお料理が上手くなるように頑張っていますから」 「有り難う。だが、無理はしないようにね。特にヴァイオリニストの指先は大切だからね」 「はい。有り難うございます」 吉羅の優しさを感じながら、香穂子はにっこりと笑った。 後片付けはいつも吉羅がしてくれる。 香穂子の指はヴァイオリニストの指だからと、なるべく洗剤などには触らせないようにしてくれるのだ。 「いつも有り難うございます暁彦さん」 「君は私の大切なヴァイオリニストだからね。本当は料理も余りして欲しくはないんだが…、だが私としては君の手料理を食べたくなるのも事実でね。せめぎあいだよ。いつも」 「私はいつも暁彦さんのために料理をしていたいです。だけと、暁彦さんが作ってくれる料理も大好きなんですけれどね」 「そこまで褒めてくれたのなら、明日のブランチはサービスしないとね」 「嬉しいです。朝ご飯は私が作りますよ」 「ランチじゃない、ブランチだよ。朝食と昼食が一緒だ。それに、君はとてもでないが、朝食を食べられる時間に起きられそうにないと思うがね」 「そ、そうでしょうか」 香穂子は真っ赤になって視線を下にする。 吉羅と過ごす夜と朝の濃密さを思い出して、香穂子は心臓がドキドキするのを感じた。 「久し振りにふたりで週末をゆっくりと過ごせるんだから、君を沢山チャージをしないとね」 吉羅はフッと微笑みを浮かべると、まなざしで熱い夜を約束した。 吉羅は食器類を食器洗い乾燥機のなかに入れた後、香穂子と共に疲れを癒す時間に入る。 ふたりとも特に何をするわけでもなく、何を話すわけでもない。 ただじっと温かな時間を共有するだけだ。 吉羅は香穂子の膝を枕にしながら、ゆったりと英字新聞を読んでいた。 「暁彦さん、お疲れですか?」 「君とこうしていると、いつも疲れは何処かに行ってしまうよ。確かに今週もかなり忙しかったが、君とこうして週末を過ごせることを知っていたから、頑張れた」 「私も、暁彦さんを週末に沢山チャージ出来るのを楽しみに頑張ってこれたんですよ。こうやって、週末総てをゆっくり過ごせるのは、久し振りですから、私も嬉しいです」 香穂子は吉羅のさらりとした髪を撫で付けながら、幸せがこころに滲んでくるのを感じる。 「ここ一月は、お互いに忙しかったからね。君は日本音楽コンクールに出ていたし、私は学院の託児所計画で忙しかったからね」 「そうですね。逢うのは短い時間だけでしたし、こうやってのんびりは出来ませんでしたから…」 「そうだね」 吉羅も香穂子も忙しい間、理事長室で短時間にこうして膝枕をしてあげる時間持つことは出来たが、それでは全く足りなかった。理事長室に呼ばれるなり、膝枕をしていたと他の生徒が知ったら驚くだろうが。 外でデートをする時も、食事をして、ひとときだけ愛し合う時間しか取れなかった。 ようやく吉羅の仕事も山を越えて、香穂子のコンクールも終わり、久し振りに充実した時間を手に入れた。 「香穂子、今夜は久しぶりにゆっくりと眠れるような気がするよ。君がそばにいてくれるからね」 「眠れなかったんですか?」 「ああ。浅い眠りは出来たんだけれどね、だけど、それだけだよ。君と一緒にいる時のような充実した眠りはなかったね。昔は、ひとりでしか眠れなかった。しかも、眠れたとしてもいつも浅かった。今は逆だよ…。君と一緒にいないと良質な眠りは得られない…」 「…暁彦さん…」 「だから今夜はたっぷりと寝かせて貰うよ。構わないね」 「はい、ゆっくりと眠って下さい」 香穂子は吉羅の髪を撫でながら、優しい気分になっていた。 吉羅に恋をし始めた頃は、いつもドキドキしていた。 見つめるだけで、その顔を見るだけで、いつも緊張していたように思う。 あの頃のような初々しいときめきはなくなってしまったが、あの頃よりも吉羅をもっと深く愛している。 時折、愛しくて堪らないことがあり、ギュッと抱き締めたくなる。 例えばこうして膝枕をしている時も。 「香穂子、重くないか?」 「大丈夫です。ちょうど良い重しになりますよ」 香穂子がくすくす笑っていると、吉羅は手を握り締めてくる。 「明日は夜出掛けよう。まだちゃんと君のコンクール優勝のお祝いをしていないからね」 「有り難うございます。だけどコンクールの日にちゃんとレストランでお祝いをして貰いましたよ?」 「あれはあれ。本格的なお祝いじゃないからね。ふたりのお疲れ様会もかねて、やろうか」 「有り難うございます」 いつもこうして、香穂子が大切だと思っていることをきちんと祝ってくれるのが、嬉しかった。 暫くして、吉羅の浅い寝息が聞こえてきた。 きっと疲れているのだろう。 この時間を作るためにどれ程の激務をしていたか、香穂子はだいたい想像がつく。 だから感謝を込めて、香穂子は吉羅の額にキスをした。 |