*甘い虫除け*


 柔らかな光が射し込み、そろそろ起きなければならないと、理性が命じている。
 なのにこのまま目を閉じていたくなるのは、きっと、吉羅の温もりを感じていたいからだ。
 だが、もう起きなければならない。
 香穂子は意を決してベッドから起き上がろうとした。
「何処へ行くのかね?」
「そろそろ着替えて学院に行かないと…。講義に遅刻してしまいます」
「…遅刻ね…」
 吉羅はベッドサイドにチカチカと光っているデジタル時計で時間を確認したかと思うと、香穂子を腕のなかに閉じ込めてきた。
「ちょっ、暁彦さんっ!」
「私が出掛けるまではもう少し時間がある。一緒に行こうか、学院まで」
「そ、それはダメですよっ!」
 吉羅の立場を考えて、折角、交際を隠しているのに、もしバレてしまったらどうするのだろうか。
 理事長と大学の生徒が恋人同士だなんて、やはり倫理的に問題があると言わざるをえない。
 香穂子がようやく大学生になり、ヴァイオリニストとしてそこそこ名前を知られるようになってはきたが、それでも堂々と付き合うには、もう少し我慢しなければならない。
 高校生の頃は、香穂子だけが先走ろうとして、吉羅が鉄壁の自制心でコントロールしてくれていた。
 それが今はどうだろうか。
 大学生になり躰で愛し合うようになってからは、香穂子が大人の自制心を身につけてきたのに対して、逆に吉羅は今までの想いを爆発させるかのように、香穂子を堂々と離さないようになってしまっている。
「君は私の車で学院に行く。それだけだ」
 吉羅は相変わらず独占欲をあからさまに出しながら、香穂子を抱き締めてきた。
 香穂子は苦笑いしながら、吉羅の髪を撫でる。
 高校生の頃は、吉羅が手が届かない程の大人に思えたものだ。だが、今はとても可愛いと思ってしまう。 こうして甘えてくれるのが何よりも嬉しかった。
「じゃあ、私は一駅前で降りますね」
「そんなことはしなくて良い。ちゃんと最寄りの駅で降りれば良いんだから」
「だけど、やっぱり見られたら暁彦さんは困るでしょう?」
「…困らない」
 吉羅はどこか我が儘を言う子供のように呟くと、香穂子を抱き締めてくる。
「ギリギリまで、君をチャージしたいんでね」
 吉羅は悪びれることなく言うと、香穂子の首筋に唇を強く押し付けてきた。
「…やっ…あっ…!」
 背筋が震えてしまうほどに、官能的な快楽が電流のように全身を駆け抜けていく。
「痕がつくから…」
「構わない」
 吉羅はピシャリと言い切ると、更に項に強く吸い上げた。
「…もう、暁彦さんの馬鹿…」
「男よけの御守りだ。上手く使うと良い」
「お、男よけって、そ、そんなの使えないというか…、必要ないっていうか…、あ、あの、その…」
 香穂子がドキドキしながら慌てふためいていると、吉羅はくすりと笑って抱き寄せてきた。
「君はやっぱり可愛いね」
「もう…知りませんっ!」
「それにちゃんと男よけをしておかないと、変な虫がつかないとは限らないからね」
 吉羅は掠れるような甘い声で囁くと、香穂子をもう一度強く抱き締めてくれた。
「…そろそろタイムリミットです…」
「もう少し…。君をギリギリまで縛り付けておきたいんだよ。…今週はかなり忙しいから、君を堪能できる時間が減る。だからこの隙間時間も有効に使いたいんだよ」
 吉羅の糖分たっぷりの囁きに、香穂子は幸せ過ぎて笑みを零す。
「私もそばにいて暁彦さんをチャージしたいですけれど、現実の時間が許してはくれないみたいです」
「しょうがないか」
 吉羅は微苦笑すると、ようやく香穂子への抱擁をといた。
 そこからは、吉羅はいつもの理事長の顔になり、素早く仕立ての良いスーツを着て、身仕度を整える。
 その姿を、香穂子は惚れ惚れとするように見つめた。
 香穂子もワンピースを着て、薄く化粧をしようとする。
「香穂子、君は日焼け止めだけで充分だ。学生らしくね」
 吉羅の指先が香穂子の頬を撫でてくれる。抱かれた後と同じように撫でるものだから、香穂子は息苦しくなった。
「…さて行こうか。唇もリップで充分だよ。それに余り時間がないからね」
「はい」
 本当はいつでも綺麗で、少し大人びた女性でいたいから、化粧はしたい。
 だが吉羅は、いつもそれを許してはくれない。
 ふたりで過ごす朝は、いつでもギリギリまで抱き寄せられて、化粧をする時間すらも与えては貰えない。
 吉羅は香穂子の手を引いて、駐車場へと向かう。
 この瞬間から、吉羅の甘さはいつもなくなるのだ。
 いつものように助手席に乗り、シートベルトをする。
 吉羅の横顔を見ると、理事長の顔になっていた。
「今日は高等部に出勤で、午後からは私学会議があるから、都内に向かう。すまないが…、今日は一緒に過ごせそうにはないよ。今週は予定が立て込んでいてね。一緒に過ごせる時間が不確定だ。週末まで、過ごせない可能性もある…」
「はい。解っています。仕方ないですね。暁彦さんは忙しいから…」
 香穂子が切なく呟くと、吉羅はすまなさそうに目を伏せる。
 話しているうちに学院の近くの路地裏にさしかかり、流石に香穂子はここで降りた。
「お仕事頑張って下さいね。いってらっしゃい」
 吉羅の頬にキスをした後、その車が学院に向かうのを見送った。
 大学部前の名物の坂を上がっていると、背中を叩かれる。
「香穂! おはよう!」
「おはよう、菜美!」
 天羽は香穂子に肩を並べると、歩調を合わせてゆっくりと歩く。
「ね、香穂、今日もロマンス小説男と一緒だったんでしょ?」
 天羽はからかうようにニヤニヤと笑いながら、香穂子をからかう。
 天羽は最近、吉羅のことを“ロマンス小説男”と揶揄するように呼んでいた。
 吉羅の香穂子に対する一連の行動を見ていたら、納得いく呼び名ではあるのだが。
「やっぱり解るの?」
「だって、香穂、いつも朝まであの男と過ごした時は、お化粧薄いんだもん。まあ、そのほうが肌が綺麗だし、私は良いかなあって思うけれどね」
 香穂子は真っ赤になって俯くと、唇を拗ねるように尖らせる。
 毎日のように逢っている者ならば、ものすごく解りやすいのかもしれない。
 吉羅と朝まで過ごせばスッピンに近く、普段は薄くてもきちんと化粧をしているから。
「凄い威嚇だよね」
「威嚇?」
「だってね、香穂が化粧しているかしていないかで、男と過ごしたか過ごさなかったか解るように、わざと仕向けているんだよ? それって凄い威嚇だよ。男がいるから、誰も近付くなって、吉羅さんは遠くからリモートコントロールしているんだよ? 香穂が、誰のものにもならないように。あの男が忙しい時とかは、香穂の首筋に痕をつけたりする頻度が高いような気がするね」
 天羽は飽きれたように溜め息を吐くと、「もう、やってらんないよー」と苦笑いを浮かべている。
 香穂子は真っ赤になりながら、余りにも思いあたる節があり過ぎて、恥かしさの余りに俯いてしまう。
 同時にとても嬉しい。
 吉羅がそこまで愛してくれているのが感じられるのが。
「吉羅さんさ、今日とか凄く忙しいんじゃないの?」
「みたいだね」
「やっぱりねー」
 天羽はまた溜め息を吐くと「あんたたちを見ていると、こっちも恋したくなっちゃうんだよねー」と、伸びをしながら呟いた。
 ギリギリまで抱き合っていたのは、温もりが名残惜しかったと同時に、今週忙しい吉羅が、香穂子を他の男に近付かせないために張ったバリアなのだ。
 それに気付くと、香穂子は甘い幸せにくすくすと笑う。
 天羽と校舎前で分かれた後、香穂子は吉羅にメールをする。
 “虫除け有り難うございます”
 直ぐに戻ってきた返事は、“いつでも虫除けをしてあげるよ。私以外の虫除けをね”
 香穂子はメールを読みながら、今週もまた甘い幸せのなかで頑張れるような気がした。



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