眠い。 とにかく眠い。 今まではどんなに仕事が忙しくても、徹夜をしても眠くなることはなかったというのに。 なのに。 最近は直ぐに眠くなる。 それがどうしてか、吉羅には解らなかった。 「…ったく、私としたことが…」 吉羅は長めの髪をかき上げながら溜め息を吐く。 先日、金澤に眠くて仕方がないと相談をすると、「それはお前さんが年だからだ。いつまでも若いと思うなよ。あきちゃん」と、からかい混じりに言われてしまった。 思い出すだけで溜め息が出てしまう。 「…ったく、相変わらず、ろくでもない先輩だ…」 吉羅は溜め息を吐くと、再びパソコンに視線を向けた。 本当に眠くてしょうがない。 睡眠ならば取っている…はず…なのに。 ストレスが溜まり、安らぎをつい求めてしまう時に、眠くなってしまうのだ。 今まではビジネスマシーンのように淡々と仕事をしていたから、安らぎなんていらなかった。 なのに、安らぎがどれほど素晴らしく有効なものだということを、知ってしまった。 それ以来、安らぎが足りなくなると寝不足になってしまい、仕事の効率が下がってしまう。 以前と同じクオリティで仕事をしているつもりではあるが、安らぎを得ると、奇跡かと思えてしまうほどの力を 発揮して仕事をすることが出来るのだ。 それを知ってしまった以上、安らぎなくしては生きていけなくなっている。 今までは得てしまった後の失うことを考えると、切なくてしょうがなかった。何も感じなくなるほどの痛みを覚えることを恐れていた。 だが、今は、安らぎを得られるならそれで構わないと思っている。 後悔をしたくはなかった。 吉羅は溜め息を吐くと、マシーンを使ってエスプレッソを作る。 これで少しは眠気がなくなるだろうか。 そう言えば彼女はエスプレッソに沢山のミルクを入れて飲むのが好きだ。 吉羅はフッと香穂子の笑顔を思い出して、甘い安らかな気持ちになった。 もう少ししたらやってくるだろうか。 長い髪を揺らして元気いっぱいの笑顔と一緒に。 吉羅はエスプレッソを飲みながら仕事にかかる。 ほんの少しだけ眠気が解消した。 生徒たちの授業も終わり、吉羅はこめかみを押さえる。 また、眠い。 本当に眠くて、眠くて、しょうがないのだ。 吉羅は溜め息を吐くと、髪をかき上げた。 眠ければ、ソファで仮眠を取れば良い。 それか定時で帰ってしまえば良い。 それは解っている。 だが、これらをしても眠気なんて解消出来ないことは、吉羅が一番よく解っていた。 仕事に熱中しよう。 そう思い直した時だった。 元気過ぎる足音が廊下から響き渡ってくる。 こんなにも元気で華やかな足音の主はただひとりだけだ。 吉羅の唇に笑みが浮かぶ。 足音はピタリと理事長室の前で止まった。 間違ない。 待ち人の足音だ。 勢い良いノックが響いた後、「吉羅理事長、日野です!」と、元気が良い声が響き渡った。 「日野君か…。入りたまえ」 「失礼致します」 「ああ」 吉羅がわざと素っ気無く返事をすると、待ち人はやってくる。 「ヴァイオリンを聴いて頂きに来ました!」 香穂子はふたつ括りにした髪を揺らしながら、元気よく言う。 「…私の耳が満足するような音色を聴かせて貰いたいものだね」 吉羅はわざと挑発するように言うと、手を唇の下で組んだ。 「…頑張ります…」 香穂子は神妙な顔つきで答える。 その瞳が、吉羅にはまた好ましい。 「…では、演奏したまえ。上手く出来なかった場合は、ペナルティを与えるから」 「…は、はいっ!」 香穂子は緊張漲った表情で頷いた後、ヴァイオリンを構えた。 吉羅は同じタイミングで目を深く閉じる。 香穂子がヴァイオリンを奏で始める。 日に日に上手くなっていくのが解る。 ほんの数ヵ月前まではヴァイオリンを触ったことがないとは、到底思えないほどの成長ぶりだ。 音楽の妖精に愛された、というよりは、本当に音楽の神様に愛されたのではないかと思った。 それほどの上達ぶりだった。 澄み渡たり温かな音色には、慢心しているところなど何処にもない。 香穂子の奏でる音色は誰をも癒すことが出来た。 吉羅はヴァイオリンに聞き惚れながら、目を開けて香穂子を見る。 ヴァイオリンの音色と同じぐらいに美しく澄み渡った姿だった。 ヴァイオリンを弾き終わると、香穂子は吉羅を緊張のまなざしで見つめてくる。 「…まだまだ…だね。もう少し練習を頑張らなければならない」 吉羅はわざと手厳しく言うと、香穂子の瞳を真直ぐ見た。 「…そうですか…」 一生懸命弾いたのに認めては貰えなくて、香穂子はシュンと肩を落とす。 「ペナルティは、私に膝枕をすることにしようか。かなり眠たくてね。私は仮眠が取りたくてしょうがないんだ。だから君には枕にでもなってもらおうか」 吉羅の言葉に、香穂子は目を丸くする。 「…あ、あの…、そ、その…膝枕で…良いんですか?」 「ああ。とても眠たくてね。申し訳ないが、こうして貰おうと思ってね」 「…解りました…」 香穂子は恥ずかしそうにもじもじとしたが、覚悟を決めたのかソファに腰を下ろした。 吉羅は、ゆっくりとソファに近付くと、香穂子の横に腰を下ろす。 吉羅は香穂子の腰近くで頭を下ろした。 ゆっくりと香穂子の腰に自分の頭を下ろした。 香穂子も最初は驚いたようだったが、吉羅に優しいまなざしを向けた。 「…すまないね…。少し眠いんだ…」 吉羅は本当に眠たくてしょうがなくて目を上手く開けることが出来ない。 「…お疲れなんですよ…、理事長は…」 香穂子が甘く微笑んでくれるのが解る。 優しい声と、優しい指先。 それらは吉羅を安らがせてくれる大切なもの。 香穂子の総てが吉羅を癒してくれる。 それが嬉しかった。 「眠たくてたまらなかったんだよ…」 「だったら、たっぷりと眠って下さい。“うつし世は夢。夜の夢こそまこと”と言いますから…」 「…江戸川乱歩…か…。君は文学的な要素があるのかな…。だが…、議論が出来ないほどに眠たくなってしまっているよ…」 「…ではゆっくり休んで下さいね。おやすみなさい、理事長…」 「…ああ」 香穂子がくれる安らぎは最高のものだと思う。 目を閉じると、心地好く夢へと引き摺り込まれた。 どれぐらい眠っていたのかは解らない。 ただ心地がとても良かったのは確かだ。 吉羅はごく自然に目をゆっくりと開ける。 あれほどまでに眠たかったのが嘘だと思えてしまうぐらいに眠気も頭もスッキリする。 「目が覚めましたか?」 優しい声が聞こえて目を開けると、香穂子がにっこりと微笑んでくれていた。 「…理事長、おはようございます」 くすりと笑う吉羅がとても魅力的で、香穂子は思わず微笑んでしまう。 「日野君…、私はどれぐらい眠ってしまっていたのかね?」 「2時間ぐらいでしょうか? そろそろ6時ですよ」 「…そうか」 吉羅は溜め息を吐くと、ゆっくりと躰を起こした。 吉羅は立ち上がると、香穂子を優しく見つめる。 「日野君、君を長く拘束してしまって申し訳ないね。良ければ、食事に行かないか?」 「嬉しいです!」 香穂子は弾けるような笑顔で言うと、立ち上がろうとした。 だが、上手くいかない。 「…大丈夫かね!?」 「あ、足が痺れてしまって…」 香穂子が恥ずかしそうにするものだから、吉羅はくすりと笑う。 「どうぞお嬢さん」 吉羅は手を差し延べて香穂子を立たせる。 香穂子はにっこりと微笑むと、ゆっくりと立ち上がる。 微笑まれて、香穂子こそ夢なのではないかと思う。 「じゃあ行こうか」 「はい」 吉羅はそのまま手を繋いだままで、香穂子を駐車場へと連れていった。 |