横浜にはロマンティックな伝説が沢山。 それはこの街が、常に開かれていたからかもしれない。 海からの風を受けて髪を靡かせながら、香穂子は吉羅の手を引っ張るように歩いていた。 「久し振りのデートなのに、こんな近場で良かったのかね?」 吉羅は、香穂子を見守るように苦笑いを浮かべながら、ゆっくりと着いて来てくれる。 車をランチを食べる予定のレストランの近くに駐車して、ふたりは風に戯れつくように歩いた。 「暁彦さん! 県庁前のポイントを見つけましたよっ!」 「ああ」 ふたりは、神奈川県庁前にある三塔のビューポイントに立つ。 そこからは、“ジャック”“クィーン”“キング”と呼ばれる、文明開化が匂い立つ三つの塔が見える。 「この三つが見える三か所のポイントを回ってお祈りをすると、願いが叶うらしいですよ」 「君が好きそうな伝説だね」 吉羅は、まるで子供を見るかのように微笑む、それが少しだけ癪に障る。 「良いじゃないですか。叶うって伝説があるのなら試してみる価値はあるでしょうから!」 「本当に君らしいよ」 吉羅は何処か嬉しそうに言うと、香穂子の手を握り締めた。 ふたりで並んで三塔を見て、香穂子は願いを込める。 有名ヴァイオリニストになれますように。 吉羅と一緒にずっといられますように。 香穂子は目を閉じて祈る。 どちらも決して捨てることは出来ない香穂子の夢だから。 祈り終わると、香穂子は吉羅を笑顔で見上げた。 「お待たせしました」 「じゃあ次に行こうか」 「はい。大桟橋です!」 香穂子がにっこりと笑うと、吉羅は緩やかに歩き出した。 「しかし、三か所を車で回ったほうが楽なんじゃないかね」 「歩きたいんです。だって歩いていたら、暁彦さんと手を繋いでいられますから」 「そんな理由かね」 吉羅は瞳を笑みで綻ばせながら、香穂子の手をギュッと握り締める。 「車だとこうしてずっと繋いではくれないでしょう?」 「ハンドルを持つからね」 「だから今のうちにこうして堪能しているんです」 香穂子が得意そうに言うと、吉羅は甘く微笑んだ。 「そうだね。夜は、私がたっぷりと君を堪能するからね」 吉羅が微笑むと、香穂子ははにかむように笑うしかない。 確かに夜はいつも吉羅に主導権を握られてしまってはいるが。 だからちょうど良いのかもしれない。 昼間は香穂子が主導権を握り、夜は吉羅が主導権を握るのが。 「足元に気をつけるんだ、香穂子」 「解っていますよー」 香穂子は明るく言うと、ハキハキとしたリズムで歩いていく。 「こうして暁彦さんが手を繋いでくれているから、大丈夫なんですよ」 まるでステップを踏むように歩きながら香穂子は言う。 不意に足を取られてしまい、香穂子はバランスを崩す。 「きゃっ!」 「香穂子っ!」 吉羅は、香穂子を抱き留めて引き寄せると、そのまま腕に力を込める。 吉羅はホッとしたように溜め息を吐くと、強く抱き締めてくる。 「…あ、有り難うございます…」 「全く…君は…。だから言わんこっちゃないんだ…」 吉羅な呆れたような溜め息に、香穂子はしゅんとしてうなだれる。 「すみません…」 「ちゃんと歩きなさい」 吉羅は言葉ではそう言うものの、香穂子を抱き締めたままで離さない。 「…香穂子…」 首筋に一瞬、唇を押し当てられて、香穂子は喘いだ。 「もう大丈夫ですから…。暁彦さん、ちゃんと歩けますよ」 香穂子は鼓動を激しくさせながら、甘い声で呟く。 「寒いから…」 吉羅が低い声で呟くと、唇を一瞬重ねてきた。 甘いサプライズに、香穂子の心臓は幾つあっても足りない。 唇が離れると同時に吉羅は躰を離してくれた。 「さあ行こうか。ポイントを探しに行こう」 「はい。有り難うございます」 香穂子が笑顔を向けると、吉羅はとびきりの笑みを返してくれた。 「…ポイントって何処なのかな? あの船の甲板ぽいところかな?」 「さあ。とりあえず行ってみようか」 「そうですね」 香穂子は吉羅に寄り添うようにして歩きながら、“象の鼻”と呼ばれる場所へと向かった。 少し傾斜があり、ヒールの高いブーツを履くと、少し歩き難い。それでも吉羅がエスコートしてくれるから、何とか歩くことが出来た。 「暁彦さんがいなかったら、きっともっと歩き難かったと思います」 「そうだろうね」 吉羅は苦笑いをすると、香穂子を甘く見つめてくれる。 こんなにも甘いまなざしを吉羅暁彦がするなんて、きっと誰も想像出来ないだろう。 「あ、足跡ですよ!」 香穂子は、小さな子供のように燥ぎながら足跡に自分の足を乗せて、横浜の絶景を見つめる。 「…こんなにも綺麗なんですね…。横浜の街の風景は…。いつも見慣れていて、当たり前に思っているから、何だか不思議です」 香穂子は海風を受けながら。髪を靡かせて眺める。 ノスタルジーが詰まった街。 だからこそ余計に愛しいのかもしれない。 「学院が見えますよ。あちら側に」 「教会も見えるね」 吉羅はフッと微笑むと、自分が生まれてきた麗しい街を見つめていた。 「願い事はしないのかね?」 「はい。願い事しますっ!」 香穂子は三塔を想いを込めて見つめた後、不変なふたつの願い事を祈る。 どうか。このふたつの願い事が叶いますように。 ただそれだけを祈った。 「お待たせしました…あっ…!」 吉羅は香穂子を抱き寄せると、そのまま唇を重ねてきた。 誰かが見ているかもしれない。 だが、ロマンティックなキスを抗える筈など、香穂子にはなかった。 唇が離れた後で、吉羅は親指の腹でそっと頬をなぞる。 「…冷たいね…」 「風が冷たいから…」 「ランチが終わったら、たっぷり温めてあげないとね」 「…もう…」 はにかんだ反論をしながら、香穂子は逆らえないことを知る。 甘い切ない温もりが大好きでたまらないから。 「次は何処かな?」 「次は赤レンガ倉庫ですよ」 「じゃあ行こうか」 不意に香穂子の視界に、急な斜面が目に入る。確かにここから行けば、かなり近回りになるのは間違ない。 ただ、滑り止めがあっても、かなり歩き難いのは間違ないだろう。 「さあ、行こうか」 「ここから?」 「私がいるから大丈夫だろう?」 吉羅は香穂子の躰を密着させると、ゆっくりと一緒に下りてくれる。 「君がこんなにも怖がりだとは知らなかったけれどね」 「怖いのは間違ないですよ。…もう…」 拗ねるように目を伏せると、吉羅は愉快そうに笑みを浮かべてくれた。 吉羅と密着して下りた後、ふたりは赤レンガ倉庫へと向かう。 風が厳しいと感じるぐらいにキツく吹き渡り、香穂子の長い髪を激しく揺らした。 「…暁彦さんっ! 凄い風ですよっ!」 「そうだね」 吉羅は当たり前のようにあっさりと言うと、香穂子を守るようにコートのなかにすっぽりと閉じ込めてしまった。 「これでマシだろう?」 「は、はいっ!」 確かに風はマシなのだが、ドキドキし過ぎておかしくなる。だが、このまま幸せな温もりを得たいとも思ってしまう。 結局は、吉羅と一枚のコートをシェアするような形で赤レンガ倉庫まで歩いた。 とうとう最後のポイント。 香穂子は吉羅と願いを込めて三塔を眺めながら祈った。 祈り終わると、吉羅は抱き寄せてくる。 「三塔の仕上げをしなければならないね」 そう言うと、とっておきのキスをくれた。 きっとこれで願いは叶うから。 |