*柔らかな時間*


 日に日に陽が長くなっている。
 そこに感じる春の息吹に、香穂子はにっこりと微笑んでしまう。
 春が近くなるとどうしてもうきうきしてしまう。
 今日は春の到来にふさわしい知らせを持って、学院へとやってきた。
 卒業してもう数年経つが、香穂子が大好きな男性は、未だに理事長をしている。
 だからそのひとにとっておきの知らせを持ってきたのだ。
 学院の守衛さんはあの頃とは代わってはいなくて、香穂子を見るなりにすんなりと中に入れてくれた。
 学院に来ると、つい学生の頃に戻った気分になってしまう。
 いつも走ってばかりいたあの頃。
 卒業して、落ち着いてからもその癖はなかなか直らなくて、いつも大切なひとが苦笑いをしている。
 今日は春が感じられるから、嬉しい知らせを持っているから、ついうきうきして学生時代のように走ってしまう。
 怒られるのはほんの少しだけ覚悟の上であったりもする。
 香穂子はあの頃のように、今日も廊下を走りながら、理事長室へと向かっていた。
 ノックをするとほんの少しだけ不機嫌そうな声が聞こえる。
 以前から変わりない愛想のなさ。
 香穂子は思わずくすりと笑った。
「日野です、理事長」
 一瞬、驚いたように息を呑むのが解ったが、お約束な答えが返ってくる。
「入りたまえ、日野君」
 吉羅がいつもと同じように返事をしてくれたから、香穂子は以前と同じように理事長室に入った。
「失礼します」
 もう制服を着てはいない。
 だが、あの頃と同じような気分で、「失礼します」と言った。
 吉羅は香穂子の顔を見るなり、フッと甘い笑みを浮かべた後で、困ったように見つめてくる。
「日野君、足音で君だと直ぐに解った。廊下は走るものではないと、あれほど言ったのに、君は覚えてはいないのかね?」
「昔のことだから忘れてしまいました」
「全く君は…」
 吉羅は苦笑いを浮かべると、香穂子にソファに腰を掛けるようにと促した。
「コーヒーでも飲むかね? お嬢さん」
「コーヒーはちょっと…。出来たらお水が良いです」
 香穂子が明るい笑顔で言うと、吉羅は甘い笑みを浮かべた。
「困ったお嬢さんだ。ミネラルウォーターを用意しよう」
「有り難うございます。あ、冷えていないのが良いです」
「解った」
 吉羅は理事長室横にあるパントリーから、常温で置かれているミネラルウォーターのペットボトルを持ってきてくれた。
「有り難うございます。理事長」
「どう致しまして」
 吉羅は自分にはコーヒーを淹れると、香穂子と向かい合わせ側のソファに腰を下ろした。
「君が学院に来るのは久し振りだね」
「はい。どうしても理事長にお伝えしたいことがありまして、急いで来ました」
 香穂子が子どものよいな笑顔で言うと、吉羅はその頭をゆっくりと撫でた。
「君は本当に変わらないね」
 吉羅は懐かしそうに目を細めて見つめてくれる。
 そこに甘い愛情が沢山あるということは、香穂子も十二分解っていた。
「こんなに急いで駆け付けて来たのは、何かあるのかね? 日野君。生徒たちに君が走っているところを見られていたら困ることになるんじゃないかね。ヴァイオリン専攻のあこがれである、ヴァイオリニスト日野香穂子が子どものように走っているのを見たら、生徒もショックかもしれないよ? 大人の女性だと思っていたのにって、思うかもしれないね」
「逆に親しみを湧いてくれるかもしれませんよ」
 香穂子はくすりといたずらっ子のように微笑み、吉羅を見た。
「君は皆の星で憧れで目標なのだからね」
「はい。いつまでもそのように見て頂けるように努力はしますね。だけど今日はどうしても走って理事長に伝えたいことがあったんですよ」
 香穂子の言葉に、吉羅はじっと見つめてくる。
「君が走るほどに伝えたかったことは何かね…?」
 吉羅の言葉に香穂子は頬を紅に染め上げて、にんまりと微笑んだ。
「学院では、ずっと“日野香穂子”で、ヴァイオリニストとしては、今もそうなんですけれど…、今日、お伝えしたいことは、プライベートなことでもあり…、学院にも少しばかり関わることでもあるんです…」
 香穂子は言いたくてうずうずしながらも、ほんの少しだけもったいぶる。
「学院に関わることで、プライベートなことというのは、一体、何なのかね…?」
 吉羅が小首を傾げて不思議そうに見るものだから、香穂子は笑顔になり、その手を取った。
 そのまま自分のお腹に吉羅の手を持っていく。
「吉羅香穂子に赤ちゃんが出来ました…。二か月です…」
 香穂子は嬉しさの余りに、吉羅を笑みが滲んだ瞳で見つめる。
 吉羅は驚いてしまったようで、一瞬、息を呑んだ。
「…早く顔を合わせて伝えたかったんです…。暁彦さん…」
「…香穂子…」
 吉羅は本当に喜んでいるようで、まなざしが甘く蕩けていく。
 ふたりの子ども。
 確かにプライベートなことではあるが、学院にも関わる部分がある。
「…この子は両親ともにファータが見える初めての子どもだね…」
「そうですね。ある意味、最強の赤ちゃんかもしるませんね」
「そうだね」
 吉羅は本当に幸せそうに笑みを浮かべて頷くと、香穂子の隣に腰を掛けて抱き寄せてきた。
「…有り難う…」
「私も暁彦さんに有り難うです…」
 香穂子は吉羅の腕の中で甘えると、フッと幸せの溜め息を吐いた。
「香穂子、お腹に子どもがいるのに、走ってはいけない。気をつけるんだ」
「はい」
 吉羅の言葉には一理あるから、香穂子は素直に頷く。
「…リリに報告をしなければならないですね」
「またろくでもないグッズで、私たちと同様に子どもたちも振り回されなければ良いけれどね」
「そうですね」
 香穂子はくすりと笑うと、吉羅に甘えるように密着をする。
 “子供たち”
 そう言ってくれたのが嬉しくてしょうがなかった。
 確かに子供たちになるだろう。
 香穂子も賑やかな家族にしたいと思っているからだ。
「リリを呼んでみませんか? ヴァイオリンを弾けば、きっとやってきてくれますから」
 香穂子はいつも持ち歩いているヴァイオリンをケースから取り出すと、それを構えた。
 ヴァイオリンを構えると、とても幸せな気分になる。
 吉羅と結ばせてくれた、香穂子にとっては魔法の楽器なのだから。
 香穂子が、最初にリリから貰った楽譜である“ユーモレスク”を弾く。
 その音が響き渡ると、アルジェントリリやファータたちが楽しそうに大挙してやってきた。
 夫婦ふたりにしか見えない風景を楽しみながら、香穂子はヴァイオリンを奏でた。
「素晴らしいぞ! 日野香穂子! いや吉羅香穂子!」
リリやファータが拍手をしてくれている。ファータの中には、吉羅をとても気にいっているポリムの姿もあった。
 吉羅は柔らかな笑みを浮かべながら、ファータたちを見ている。
「あのね…、みんなに報告があります。みんなの友達がひとり増えます」
 香穂子がはにかみながら呟くと、ファータたちは喜んで大騒ぎをした。
「…これだからファータどもは…」
 吉羅は苦笑いを浮かべているにも拘らず、何処か嬉しそうだ。
「我々もまた頑張らなければならないぞ! ふたりの子供たちに、沢山の音楽の祝福を与えなければならないからな」
 リリたちはかなりハイテンションになっている。
「くれぐれも、やり過ぎには注意してくれ」
 吉羅の言葉に頷きながら、香穂子は幸せを感じる。
 また学院の幸せなファミリーの一員が出来て、これ以上のことはないと感じていた。



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