お盆休みに入った都心は静まり返っている。 車が行き交う音が殆ど聞こえない。 朝の本来の静けさが、耳にこころに心地よかった。 隔離されたコンパートメント。ふたりだけの秘密の場所。 それが吉羅暁彦の住まい。 心地良いエアコンディションは、外が猛烈な暑さだということを忘れさせてくれる。 直ぐ横にいるのは大好きで大好きでしょうがないひと。 目を開けて、その姿を確認しようかと思い、ゆっくりと瞳を開いた。 目を開ければ、隣りには愛しいひとはいなかった。 切ない気分になって視線で探せば、窓の近くで煙草を吸っている姿を見つけた。 朝陽を浴びる気怠い姿はとても綺麗で、香穂子のこころを激しく揺さぶる。 キュンと呼吸が出来ない程に胸が痛くなって、香穂子は肌が震えてしまった。 切ないほどに綺麗な姿は、こちらの胸が痛むほどだ。 こうしてぼんやりとしている時の吉羅は、自分だけの世界に入り込んでしまっている。 香穂子ですらも近寄ることがためらわれる世界に引き籠もってしまっている。 声を掛けるのも憚られて、香穂子はベッドの上で膝を抱えて座り込んだ。 ただ視線の先に吉羅だけを映している。 こうして吉羅が考え込んでいる時は、たいがい、姉のことを考えているのだ。 綺麗な吉羅の姉。 もうこの世にはいないし、血の繋がった存在に嫉妬をしても仕方がないというのに、女としての独占欲がそうさせてしまう。 いつも入れない。 吉羅の孤独な世界には。 溜め息を吐いて膝に額を乗せると、ふいにこちらへの視線を感じた。 「香穂子、起きたのか?」 名前を呼ばれて顔を上げると、吉羅がこちらを見ている。 「起きているんだったら、声を掛けてくれたら良かったのだが…」 「今、起きたばかりだったから…」 香穂子は小さな小さな溜め息を吐くと、吉羅に作り笑いを浮かべる。 吉羅は直ぐに煙草の火を消すと、香穂子の横に腰掛けた。 「どうした? 嫌な夢でも見たのか?」 優しく慰めるように抱き締められて、優しい甘さが香穂子の躰のなかに入り込んで来る。 嬉しいはずなのに、どうして泣きそうになるのだろうか。 こんなにも心臓が痛くなるのだろうか。 「…何でもありません…。怖い夢なんて見ていないから…」 吉羅とこうして同じ朝を迎えられることが、どれ程幸せなことだと感じているのかを、きっと知らないだろう。 先ほどまでは本当に夢見心地だった。吉羅の切ないぐらいに綺麗な姿を見るまでは。 「嫌な夢を見たような顔をしていたからね。大丈夫か?」 「大丈夫ですよ」 ニッコリと笑ってみせても、吉羅の心配そうな表情は消えなかった。 グッと深く抱き締められて、背中を撫でられる。 「素直になるんだ、嫌なことがあったのならハッキリと言って欲しい。言って貰えないほうが、私には苦しいからね」 「…暁彦さん…」 香穂子が甘えるように吉羅の胸に頬を寄せると、優しいリズムで髪や背中を撫でてくれる。 「…起きたら暁彦さんがいなかったから、急に寂しくて堪らなくなったんです…。暁彦さん、ひとりで考え事をしているように、窓辺でじっとしていたから…」 吉羅はただ黙って、香穂子を更に深く腕のなかに抱き込んできた。 「…思い出したことがあってね…。君と一緒にいることに夢中になる余りに、忘れていたと思ってね…。今朝、姉さんの夢を見て、目が覚めた。姉さんへの墓参りをすっかり忘れていたな…、なんて思ってね…」 「あ、そういえば、お盆ですものね…!」 香穂子も、吉羅と過ごすのに夢中になってしまっていて、今の時期が何なのかをすっかり忘れてしまっていた。 「…まあ、うちはクリスチャンだから、実際に仏教の風習に乗ることはないんだろうが…、こういうお盆のような考え方は、あえて取り上げてしまっていたんだよ…。死者が帰ってくるって、何となく素敵なことだと思わないか?」 「そうですね、そう思います」 香穂子は吉羅にギュッと抱き付くと、離さないように躰を密着させる。 「暁彦さん、今日の予定は決まりましたね。お墓参りに行きましょう」 「…そうだな…」 吉羅は優しい深い笑みを唇に浮かべると、香穂子にキスをする。 「有り難う、香穂子…」 吉羅の言葉に、香穂子は嬉しくて微笑んだ。 ふたりが墓参りへと向かったのは、夕方近くだった。 「…結局、遅くなっちゃいましたね…」 香穂子は半分恨み節のように言い、吉羅を睨み付けた。 「そろそろ私も体力が足りないところだが、君が相手だと例外になってしまうんだよ。可愛い姿を見せられたり、可愛い言葉を聞いたりするとね」 吉羅が恥ずかしげもなく笑いながら言うものだから、香穂子は余計に恥ずかしくて堪らなくなる。 「きっと、お姉さんは首を長くして待っていますよ」 「だが許してくれるとは思うけれどね」 薄い意味深か笑みを浮かべられると、躰の奥が瞬く間に潤んでくる。 どんなに肌を合わせても飽きることはなくて、どんなに抱き締められても、もっともっと欲しくなる。 吉羅に一瞬手を強く握り締められて、香穂子のこころは華やぎを持った。 教会に着いたのは、夕暮れ時だった。 昼間の暑さが嘘のように感じられるほどに、涼しい風が吹き渡っている。 夏の盛りが過ぎているのだということを、感じさせる風だ。 豪華なカサブランカの花束を吉羅は肩に抱え、片手でしっかりと香穂子の手を取ってくれる。 「姉さんに色々と報告をしないといけないからね」 「私も沢山お話をしたいです」 「ああ」 吉羅の姉が眠る墓地に、ふたりはゆっくりと入る。 夕日が美しかった。 綺麗で綺麗でしょうがないほどだった。 吉羅は、姉の墓の前にカサブランカの花束を置くと、香穂子と一緒に腰を下ろした。 「姉さん、私は彼女と一緒になるつもりでいます。来年にはもっと良い報告をしますから、楽しみにしていて下さい」 吉羅の言葉に、香穂子は一瞬、心臓が止まってしまうのではないかと思った。 いつかそうなれば良いと夢見ていたことが、こうして叶うなんて、思ってもみなかった。 どうリアクションして良いのか解らないぐらいに嬉しくて、ただ固まってしまっていた。 「…どうした? まだこころの準備は出来ていないか?」 少しだけ不安げに言う吉羅に、慌てて否定をする。 「…う、嬉しくてどう反応して良いかと思っただけです…」 香穂子は息が詰まりそうになるぐらいの幸せを感じながら、吉羅にたどたどしく話す。 顔を真っ赤にさせて、一生懸命に話す香穂子の姿を見て、吉羅は本当に嬉しそうな眩しい笑顔を向ける。 「有り難う…。それは、私と一緒になることを了承していると思って構わないね?」 「か、構いません…」 「有り難う…香穂子」 吉羅は香穂子を腕のなかに閉じ込めると、顔を近付けて来る。 「…もう取り消しはきかないからね」 「…はい…」 取り消しをするつもりなんてかけらもない。 香穂子がはにかんで笑うと、吉羅はそっと唇を寄せてきた。 吉羅の姉への報告と、誓いを込めたキスが唇に下りて来る。 香穂子は吉羅の姉に誓うように、そっと抱き寄せる。 心配しないで下さい。 必ず暁彦さんを幸せにしますから…。 香穂子は強く誓う。 ふたりが唇を離した瞬間、風が吹き渡りカサブランカが揺れた。 それはまるで吉羅の姉が返事をしているかのようだった。 |