「ごめんね、梁太郎くん。ホームルームが長引いてしまって」 香穂子が汗をかきながら練習室に滑り込むと、梁太郎が既にピアノの前にスタンバイしていた。 「いいさ。ホームルームが長引いたのはしょうがないからな。早速、ソナチネのテキストの続きをするか」 「有り難う。梁太郎くんも指揮科の受験勉強で大変なのに、ピアノのレッスン頼んじゃってごめんね」 「気にするな。さてと早速始めるか」 「うん」 香穂子は教則本を立てると、背筋を伸ばしてたどたどしくピアノを弾き始めた。 「失敗を恐れなくて良いから、もっと堂々と弾けば良いんだ。ヴァイオリンを弾いているときみたいに…」 「う、うん」 小さな頃、ほんの一時期やっていたピアノ。バイエルだけで終わってしまい、それからは十年以上奏でることはなかった。 それがこうして再びやることになるなんて。どうしてあの時に続けなかったのかと、香穂子は何度も後悔していた。 「ピアノって練習すればするほど、奥深いのが解ってくるから、凄い楽器だよね。だから緊張しちゃうのかな…」 香穂子は溜め息混じりに笑うと、自分の不器用な手が恨めしくてしょうがなかった。 「お前がピアノをそう思ってくれているのは、凄く嬉しい。大丈夫だ。いつもみたいにやれば。あんまり構えるなよ」 「うん!」 香穂子はピアノをリスペクトするように背筋を伸ばすと、鍵盤に指を走らせた。 まだまだソナチネのレベルだから、気負って仕方がないとは思う。だが梁太郎に褒めて貰いたいと思えば、思うほどに緊張してしまうのだ。 「ちょっと、今のところでストップだ。まあ、悪くはないが、お前の折角の持ち味が出ていない。この辺りで、優しく柔らかく弾いてみたらどうだ?」 梁太郎は辛抱強く香穂子について、楽譜のポイントをなぞってくれる。 「うん、やってみるよ」 「よし、また始めから」 梁太郎のレッスンは分かりやすいが、時折厳しいことがたまに傷だ。香穂子に容赦なく高いレベルを要求してくる。 だが、ヴァイオリニストになるには、ピアノぐらいは弾けなければならない。 「ピアノを楽しめよ」 梁太郎が頷きながら、笑顔で言ってくれる。 香穂子は背筋を伸ばすと、何度もくりかえし鍵盤を叩いた。そのうち楽しくなってしまい、ニコニコと笑いながら、香穂子はいつしか夢中になって弾く。 「よし! 良い感じじゃないか? 基礎的なことも出来るようになってきたし、かなり良くなって来たぜ」 「有り難う! 厳しい梁太郎先生にそう言って貰えると、凄く嬉しいよ!」 「教え方が良いってことか?」 梁太郎が意味ありげに微笑むものだから、香穂子も釣られて笑う。 「そうかな。梁太郎くんと一緒に練習するのはとても楽しいから、きっとそうなんだよ。だって、ホントに楽しいもの」 「あれほど緊張していたのは、何処のどいつだよ」 梁太郎の大きな手のひらで頭をぐりぐりと撫でられると、こころが甘く切ない気持ちを抱いてキュンと鳴り響いた。 頬を染めながら、香穂子が梁太郎を見上げると、目の周りがほんのりと紅くなった。 「…マジで可愛いな…」 「え、あ…」 梁太郎がゆっくりと顔を近付けてくる。 「…お前、ご褒美くれるのか?」 艶のある声で耳元で囁かれると、香穂子は背筋が甘く震えるのを感じる。 息苦しいはずなのに気持ちが良くて、熱くておかしくなりそうだ。 「…ご、ご褒美って…」 緊張で声が裏返る。 梁太郎とはもう何度もキスはしているというのに、ドキドキが止まらない。 「…いつも俺からだから、お前からして欲しい」 「う、うん。ご褒美だよね。ご褒美…」 ブツブツとまるで呪文のように呟いていると、梁太郎は甘く微笑んだ。 一部の女子に「怖い」だなんて言われているのが信じられなくなる。 こちらが見ていても、眩しくて堪らないぐらいの甘い表情をくれる。きっとこれは恋人の特典だろうが。 「…キスしろよ。してくれたら、もっと甘いものをやるよ」 「甘いもの?」 「とっておきのもの」 どんな素敵なものをくれるのだろうか。楽しみにする余りに、香穂子は柔らかく微笑んでしまう。 「梁太郎くん、目はちゃんと瞑ってね?」 「はい、はい」 梁太郎はくすりと笑うと、目を閉じてくれた。 目を閉じた梁太郎を見つめると、本当に細微まで整っているのが解る。男らしく凛としてはいるが、こちらがうっとりしてしまうほどに綺麗だ。 睫毛は長く、高い鼻は筋が通っている。唇は男らしくキリリとしていて潔癖さが伺える。 「…香穂?」 名前を呼ばれて、香穂子は男らしく梁太郎の頬に両手を寄せると、ゆっくりと唇を近付けていく。 キスって自分からするとこんなにもときめくものなのだと、香穂子は感じずにはいられない。 好きが唇に集中する。 こころがキュンと音を立てながら、梁太郎の唇に近付いて行く。 潔癖さを崩すような気分になり、何だかそそられた。 梁太郎の唇と、自分の唇を重ね合わせる。 いつもよりも禁断な味がする。 キスは唇を重ねるだけのもの。 そんな感覚がいつも香穂子のなかにあるせいか、それ以上のことが出来なかった。 梁太郎がキスをしてくる時は、もう少し艶やかだ。だが香穂子はやり方が分らなくて、何度も唇を重ねるだけのキスを繰り返した。 何時しか業を煮やしたのか、梁太郎が不意に抱き寄せて来る。 力強く抱き締められて、キスの主導権を奪われる。 梁太郎は深く唇を重ねてくると、唇をこじあけて舌を侵入させてきた。 甘くてどこか生々しい官能がふたりの間に漂う。 「んっ…、あっ…」 香穂子の甘い声が唇から漏れると、梁太郎のキスは更に深くなっていく。 舌を口腔内に差し入れられて、柔らかく愛撫を受ける。 甘く切ない熱さに、香穂子は蕩けてしまいそうになった。 「…あっ…」 椅子に座っていて良かったと思う。そうでなければ、きっと崩れ落ちていたに違いないから。 息を乱しながら、香穂子が潤んだ瞳で梁太郎を見上げると、大きく包み込むように抱き締められた。 「…あんまり色っぽくなるなよ…。理性が利かなくなるから」 「梁太郎くん…」 梁太郎の熱い情熱に、香穂子はこころが切迫するのを感じた。 「…お前のご褒美があるから、こうして頑張れるのかもな」 「私だって…梁太郎くんにご褒美を貰うために頑張っているんだよ」 香穂子がくすりと笑いながら呟くと、梁太郎もまた目をスッと細めるように微笑んでくれた。 「ソナチネはこれで大丈夫だな。後は応用だが、ピアノのは弾かないと腕が落ちるから、またレッスンしようぜ」 「有り難う。梁太郎くん、ホントにいつも有り難う。凄く凄く感謝しているんだよ。いつも時間を割いてくれて有り難う」 「良いんだ。お前と過ごせるのが嬉しいし、こうやってご褒美も貰える」 梁太郎は香穂子の首筋に、そっと唇をつけて、ニヤリと微笑む。 「…梁太郎くん…」 香穂子は呼吸困難になるのを感じながら、梁太郎を恨めしい瞳で見上げた。 梁太郎の瞳が優しく緩む。不意に大きな手を頬に乗せられた。 「いつかさ、ステージで、俺が指揮をして、お前がコンマスでさ、そんなことが出来たら嬉しいよな」 「…そうだね」 ピアノレッスンはふたりの夢を叶えるには不可欠なこと。 だからこの甘い時間を大切にしたい。 香穂子はにっこりと微笑むと、梁太郎の肩に腕をかける。 「そのためにもいっぱいレッスンしようね?」 「ああ」 ふたりはしっかりと抱き合い、何時の日か叶えられるだろう夢を描いていた。 |