*ヴァレンタイン協奏曲*

土浦編


 バレンタインが近付くと、女の子はそわそわわくわく。
 家庭科の授業も、チョコレートケーキを作ったり、学校もバレンタインに協力的だ。
 この瞬間だけは、香穂子は普通科にいて良かったと思う。
 音楽科には、音楽通論を始めとする音楽関係の授業が沢山あるからか、家庭科はなく、香穂子たち普通科生徒とは違うカリキュラムになっている。
「いよいよチョコレートケーキを作る日が来たんだね」
 天羽はニッコリと笑いながら、香穂子を見つめて来る。その視線の意味が解っているせいか、香穂子は頬を紅くさせた。
「ツッチーも楽しみにしているんじゃないの? 音楽科がヴァイオリンロマンスなら、普通科はチョコレートケーキロマンスだもの。バレンタイン近くの授業で作ったケーキをプレゼントすると、その恋は永遠…。なんて、ロマンティックだよね!」
 天羽が嬉しそうに語るのは、これ以上にロマンティックな取材対象が普通科にはないからだろう。
「あっ! ツッチーだよっ!」
 天羽の声に、こころを昂揚させて振り返ると、土浦がこちらに向かって歩いてきた。
 がっしりとした筋肉質の躰が、眩しいぐらいに逞しい。
 香穂子は思わず見とれてしまっていた。
 土浦に出会うまでは考えたこともなかったが、今は、その逞しい胸に抱かれたらどんな気分になるのか。
 そればかりを考えてしまう。
 つい、筋肉の付いて胸ばかりに注目してしまう。
「これから移動教室か?」
「うん、家庭科なんだ。チョコレートケーキを作るんだよ」
「チョコレートケーキ」
 反芻しながら、土浦は気がついたように小さく声を上げた。
「だからか…」
 普通科二年生の女子が、家庭科最後の調理実習で作る甘いチョコレートケーキ。
 これを受け取ったら、幸せな恋が実るという、どこの学校にもありがちで、ロマンティックな伝説。
 この伝説のせいか、今朝から男子生徒は、誰もがそわそわしている。
 最初は、普通科の生徒ばかりがそわそわしていたようだが、最近では音楽科の生徒の間でも、そわそわしているものがいると聞く。
「あ、放課後、練習室が取れたから、そこで待ってる」
「うん」
 土浦は照れくさいのか、ほんのりと言葉を薔薇色に染め上げながら呟いた。
「じゃあ、放課後に」
「うん、じゃあ」
 香穂子ははにかみながら土浦に小さく手を振ると、手を上げて返してくれる。
 普段は男らしい土浦が、ほんのりと笑ってくれる瞬間。
 こんなところに恋を感じていた。
 こんな小さくて温かな交流が、香穂子のこころを甘くロマンティックなものにさせてくれる。
 土浦を甘い視線で見送った後、天羽のからかうような含み笑いを聞いた。
「ツッチーに甘くて美味しいチョコレートケーキを作ってあげないとダメだよねー」
「もうっ!」
 からかわれるのもどこか幸せに思えるのは、きっと素敵な恋をしているからだと思う。
 香穂子は、天羽の腕を取ると、家庭科室へと引っ張っていく。
「行こうよ! 甘い甘いチョコレートケーキを作らないとね!」
「ツッチーとあなたの存在だけで、充分に甘いよ」
 天羽は熱そうに、パタパタと顔の周りを扇いだ。

 チョコレートケーキ作りは、学園生活に於いて、最大のイベントであるせいか、誰もが気合いを入れている。
 香穂子も、つい土浦の笑顔を浮かべながら生地を練り込んでいった。
 どの女の子も、とびきりに甘い顔をしている。
 きっと誰もが、熱でチョコレートを溶かしてしまいそうな恋をしているのだろう。
「こういいシチュエーションって良いね! 取材のしがいがある!」
 取材に恋をしている天羽の言葉に、香穂子が思わず笑ったのは、言うまでもなかった。
 チョコレートケーキに、ふたりを結び付けてくれた音符を飾って完成。
 味見をするととろけるように甘い。
 こんな甘いケーキを、果たして土浦が食べてくれるのかと思うと、少しだけ不安になった。
 その気持ちが明らかに出ていたからか、天羽が背中を強く押してくれる。
「大丈夫だって! ツッチーは香穂が作ったものなら、何でも食べるよ! だから余分な心配はしなくて良いんだよ」
 あくまで天羽は笑って励ましてくれる。その温かな気持ちが、香穂子には嬉しくてしょうがなかった。
「有り難う。うん、そうだね」
 はにかみながら笑うと、天羽は頷いてくれた。

 放課後になり、ケーキを慎重に持って練習室へと向かう。
 土浦に逢って、早くチョコレートケーキを渡したい。
 仲良く食べて甘い時間を共有したい。
 香穂子は息を切らせながら、土浦が待つ練習室へと真っ直ぐに向かった。
「ごめんね! 遅くなって! 土浦くんっ!」
 練習室のドアを開けると、土浦がグランドピアノにもたれかかって立っていた。
 息が出来なくなるぐらいに、こころがときめく。
 制服のジャケットを脱いだ土浦は、芸術品だと思うほどにうっとりと綺麗な筋肉が、全身に麗しくついている。
 綺麗なのに、シャープで切れのある逞しい躰。
 そして精悍な整った横顔。
 男らしさとそれに反するようななまめかしさに、香穂子はどうして良いのか解らないぐらいに、躰が熱くなるのを感じていた。
「香穂、来たのか」
「うん」
 息を切らして入口に突っ立っていると、土浦がゆっくりと近付いてきた。
「少し休憩してから、練習を始めるか」
「うん」
 香穂子は土浦をまともに見ることが出来ずに、思わず俯いてしまう。
 余りに素敵で、どうして良いのか解らないぐらいに息が乱れた。
「走って来たのか?」
「うん、どうしてもチョコレートケーキを早く渡したくて」
 土浦の精悍な表情が、甘く崩れる。
 少年ぽい甘さと大人のビターさが混じりあって、香穂子しか知らないとっておきの甘い顔になった。
「ど、どうぞ」
「有り難う」
 しっかりと受け取ってくれたのが嬉しくて、香穂子は思わず微笑む。
「俺以外の男に渡したら、力づくでも奪ってしまえって思った」
「そんなことありえないよ」
「さあな」
 香穂子は最初は冗談だと思い、軽くあしらったが、土浦の瞳を見ると、それは意外に冗談ではないことを悟った。
「食って良いか?」
「もちろんだよ」
 土浦が包みを開いている間、香穂子のドキドキは頂点に達する。
 どうか。
 どうか美味しいと言ってくれますように。
 チョコレートケーキの表面に描かれた、生クリームの音符に、土浦は笑う。
「有り難う。もったいないけれど、お前の気持ちだからな」
 土浦に頷いてやると、遠慮なくケーキを一口分、ちぎった。
 口に入れている間、香穂子は祈るような気持ちになっていた。
「美味い!」
 力強くしっかりと言ってくれた土浦に、香穂子の気持ちは華やいだ。
 美味しいと言ってくれるのが、嬉しくてたまらなかった。
「良かった」
「美味いから心配するな」
 土浦は目を細めて、愛しげに眩しげに笑ってくれる。
「味見してみるか?」
「うん、改めてしてみるよ」
 香穂子が手を出すと、土浦は意地悪な笑みを浮かべて、ケーキのかけらを自分の口に放り込む。
「いじわるー!」
「ケーキの味見はこうするに決まってる…だろ?」
 土浦はゆっくりと顔を近付けて来る。
 触れただけの唇はしなやかに冷たくて心地好い。
 最高のテイスティング。
 チョコレートケーキの味は、今までで一番甘美ながした。





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