ヨーロッパでコンクールなどが一段落した夏の終り、蓮は一週間だけ日本に帰国をした。 空港の出迎えロビーには家族や友人たちに混じって、香穂子がサマードレスを身に纏って後ろにひっそりと佇んでいる。 メールや手紙でやり取りをしているし、時折、コンクールの仲間たちとの写真を送ってくれている。 土浦と一緒に音楽科に転科したことは知っていたが、ふたりが並んで蓮を待っているのを見つけるなり、苛々と切なさが混じり合った感情が、腹の奥から込み上げてくるのを感じた。 誰よりも一番に香穂子に挨拶をしたかったはずなのに、捻くれてしまい、先ずは家族に挨拶をした後で、仲間たちのところに向かった。 香穂子と目が合うなり、ニッコリと微笑みかけられる。まるで太陽のような輝ける微笑みだ。 ずっと見つめたかった笑顔なのに、つい視線を逸らせてしまった。 一瞬、香穂子が傷付いたような顔をしたが、直ぐに落ち着いた笑顔に戻る。だがそこにはもう、先ほど見せてくれていた輝くような笑顔はなかった。 「蓮くん、お帰りなさい」 いつものように明るく素直な声の筈なのに、どこか愁いがある。 傷付いたのだろうか。 それとも、もう自分の事を好きでいてはくれなくなったのだろうか。 どちらにしても蓮にはかなりハードな事実には違いなかった。 「…蓮くん、あの、一週間、色々とどこかに…」 そこまで香穂子が言ったところで、蓮はクールなまなざしを送る。 「…悪いが…、色々とスケジュールが立て込んでいる。今日も、これからは家族と過ごす予定だ」 誰よりも香穂子と一緒に過ごそうと思っていたのに、どうして感情とは関係ない言葉ばかりが次々と口についてしまうのだろうか。 「そうだよね。ご家族水入らずで過ごさないとね。誰よりも蓮くんを待っていたひとたちだから…」 香穂子の声が急に力が無くなる。寂しそうで切なそうだ。 今更ながら重い後悔が躰を貫くが、言ってしまった以上は消せやしない。 「日本にいる間に、時間が出来たら言ってね。みんな集まるから」 「…解った」 香穂子は切なそうに頷いた後、蓮から離れてしまった。 まるで香穂子が自分から離れてしまうような錯覚に、蓮は駆られてしまう。 自ら招いたことのはずなのに、どうしてこんなにも泣きたいぐらいに辛いのだろうか。 香穂子とこんなに近くにいて、同じ空気を吸っているというのに、どうしてこんなにも遠いのだろうか。 「蓮、行きましょうか」 「はい、お母さん」 香穂子の大きく潤んだ瞳がとても切ない。このまま置いていくことなんて出来ないのに、現実にそうしようとする自分がいる。 ちらりと香穂子を見ると、静かに頷いてくれていた。 どうして自ら墓穴を掘るようなことをしてしまうのだろうか。 蓮は香穂子にこころを遺したままで、空港を後にしなければならなかった。 「大丈夫か? 日野?」 土浦の気遣う視線に、香穂子は微笑む。これ以上、気遣いをさせたくはなかった。自分のために、土浦が嫌な想いをするのは非常に申し訳が立たなかった。 「大丈夫だよっ! 蓮くんも色々とあるんじゃないかな? それをとやかく言っても、結局はしょうがないしね」 「解ってるけどな。相変わらずだと思っただけだ」 「ある意味さ、変わっていないってことじゃないかな?」 「まあ、そうだけどな…」 土浦は納得がいかないとばかりに、不機嫌な溜め息を吐いている。 本当に納得がいかないのは香穂子のほうだ。蓮がどうしてあれほどまでにつれない態度をするのか、切なくてしょうがなかった。 そんな心うちなんて、土浦にうち分けたくても、うちわける訳にはいかなかった。 こころが痛い。誰もここにいなかったら、きっと泣いてしまうだろう。だが、香穂子はそれを誰にも伝えるわけにはいかなかった。 「…日野、何か言いたいこととか、泣きたいこととかあったとしたら、俺を呼んでくれて良いから」 「…うん、有り難う。嬉しいよ、土浦くん」 香穂子はそんなことはないんだよと、笑顔で表して見せたが、何も言わなかった。 家に帰りひとりになると、香穂子は蓮にメールを認めた。 あくまで明るく軽く、時間があれば、また以前のように出掛けようと。 だがその日のうちに蓮からの返事はなく、香穂子の失意は限界近くまで大きくなっていた。 どうしてこんなにもスケジュールがタイトなのだろうか。 ヴァイオリンの練習、クラシック雑誌の小さなインタビュー、家族との時間…。 自分が最も時間を割きたかったはずの香穂子との時間が、全くと言って良いほどに取れなかった。 メールも手短にしか打てない。 余りに用件だけを凝縮しているものだから、素っ気無い印象にすらなってしまっている。 これではウィーンにいる時よりも、余程遠く感じていた。 香穂子に逢いたい。 ただそれだけで帰ってきたというのに、結局は逢えないままだ。 ほんの一瞬抱いてしまった嫉妬が、凶器になってふたりの間にのしかかってくる。 あんな表情をさせてしまう視線も、言葉も、投げ付けなければ良かった。なんて、今更だと蓮は思う。 なんて迂闊な馬鹿。 この言葉が今の自分にぴったりだと、蓮は思わずにはいられなかった。 蓮からは素っ気無い用件だけが書かれたメールしか来ない。 もう壊れてしまったのだろうか。 とうの昔にヴァイオリンロマンスを失っていたのだろうか。 そう思ってしまう。 炎天下、香穂子は学校に行き、リリの像に話し掛けた。 「ねぇ、リリ、ヴァイオリンロマンスの自信、なくなっちゃったよ…。このまま私たち…ダメかもしれないよ…」 何度となく試練を乗り越え成就したと聞くヴァイオリンロマンス。 自分達はそうなりそうもないと、香穂子は珍しく弱音を吐いていた。 想いを表現するには、音楽しかない。 音楽を通して育んで来た恋だったから、それ以外に方法なんて知らない。 香穂子は溜め息を吐くと、ただひとりで森の広場に向かった。 芝生のうえに裸足になって、ヴァイオリンを奏でる。 休日だから誰もきいてなんてくれない。 だが、ヴァイオリンを弾かずにはいられなかった。 愛の挨拶を奏でていると、大きな瞳から涙がこぼれ落ちた。 かつてこれを奏でたときは、幸せでたまらなかったのに、今はそんな想いはかけらもない。 哀しい愛の挨拶。 なのに温かい気分になるのは、きっと恋心を燻っているからだろうと、香穂子は思わずにはいられなかった。 隙間のように時間が取れて、蓮の足は自然と学院の森の広場へと向かっていた。 今思い出せば、優しくて温かな想い出しかない場所だ。 なかに入るなり、温かなこころを癒す音が聞こえてきた。 直ぐにその音の主は解る。 こんなに甘くて切なくて温かな音を奏でられるのは、香穂子しかいない。 足早に近付くと、小さな池の近くで香穂子がヴァイオリンを弾いていた。 切なく甘い泣きそうな顔をしている。 伝えたい事がある。 沢山。 だがそれよりも、言葉に出来ないこの想いを、抱擁に託してしまおう。 燃え盛り、自分でもどうしようも出来ないほどに熱い恋心を解放するように、蓮は背後から香穂子を強く抱き締めた。 「…れ、蓮く…っ」 「黙って」 蓮はただ強く抱き締めると、香穂子にキスを贈った。 言葉にするのがもどかしいほどに伝えたいことを表すために。 |