月森編
バレンタインが近付くと、女の子はそわそわわくわく。 家庭科の授業も、チョコレートケーキを作ったり、学校もバレンタインに協力的だ。 この瞬間だけは、香穂子は普通科にいて良かったと思う。 音楽科には、音楽通論を始めとする音楽関係の授業が沢山あるからか、家庭科はなく、香穂子たち普 通科生徒とは違うカリキュラムになっている。 音楽科の女の子が、普通科を羨ましがる甘い瞬間でもある。 香穂子が家庭科用の荷物を持ってエントランスを歩いていると、凛とした誰も近付かせないような雰囲気を纏った月森の姿を捕らえた。 「月森くん、購買に来たんだ」 香穂子が声を掛けると、月森の冷たい雰囲気が緩んだ。 「ああ。香穂子は移動教室か?」 「そうだよ。この後、家庭科なんだ」 「そう」 月森は長めの前髪をツイッと弾きながら、薄く微笑んでくれる。 今までにない笑みを、最近は香穂子にだけはくれる。 これが、ふたりが『ヴァイオリンロマンス』と噂される原因とも言えた。 「今日は調理実習でもあるのか?」 「そうだよ。バレンタインが近いのと、三年生になると家庭科はなくなっちゃうから、最後の調理実習ということで、チョコレートケーキなんだ」 香穂子は明るく屈託なく言いながら、ちらりと月森を見つめる。 きっと月森のことだ。豪華な材料を使った、とっても美味しいチョコレートケーキをプレゼントされるに違いない。 そう思うと、出来上がったチョコレートケーキは、渡せない。 どんよりとした溜め息を吐いていると、月森が香穂子の顔を覗きこんできた。 「どうした? 香穂子」 「な、何でもないんだ。もうすぐ授業だから行くね! じゃ、じゃあ」 香穂子は慌てて足をばたつかせながら、エントランスを奥へと進む。 顔のほてりが鎮まらない。 あんな近くに顔を近付けられたら、ドキドキしないほうがおかしいと思う。 まして月森は、細部に渡って整っているのだから当然だ。 「香穂ちゃん、何慌ててるのよー。待ってよー」 香穂子がばたばたと走るのを、友人が慌てて追いかけてきた。 家庭科室で席に着いても、胸のドキドキは一向におさまらなかった。 チョコレートケーキを渡すべきか、渡さざるべきか。 確かに、調理実習で作ったケーキを渡すのは普通科の特権。ゆえなのか、この二年生の時期、普通科 では熱病にかかったかのようにカップルが増えて行く。 甘いチョコレートケーキでの告白を目指して、普通科女子は、今までにないほどに家庭科に真剣に取り組んでいた。 男子のそわそわ度も相当なもので、この時期に告白されるようにと、年明けから頑張るものも多かった。 誰もが真剣にそして甘い気分で恋に立ち向かう時期なのだ。 「香穂ちゃんはもうチョコレートケーキをあげる相手は、決まっているものね!」 「ちょ、ちょっと」 香穂子のうろたえる声に、ひょいと顔を出したのは天羽奈美だ。 「やっぱり『ヴァイオリンロマンス』だからねぇ、香穂!」 スクープ大好き、パパラッチのようなところもあるが、あくまでも香穂子のことを考えてくれる天羽は、月森との仲をさほど騒ぎ立てることはない。 こうしてからかうようにする程度なのだが、今日はそれがいつもにまして恥ずかしかった。 「ケーキが焼けたらさ、飾り付けに、ホイップでヴァイオリンを描いたらどうかなあ? 凄くすごーく誰かさんは喜ぶと思うよ。香穂に対しては、デレデレだからさ。今流行のツンデレだね」 天羽は含み笑いを浮かべながら、香穂子の肩を何度も小突いた。 真っ赤になりながら、香穂子は俯くばかりだ。 「…そ、そんなの、月森くんは受け取ってくれないかもしれないじゃない…」 「まさかあ! そんなこと思ってるのは香穂だけだよっ! 大丈夫だって! だから愛情たっぷりのチョコレートケーキを作ろうね!」 天羽はいつも明るく豪快に、香穂子の背中を押してくれる。 それが今はとても有り難かった。 「うん、頑張るよ」 「そうそう! バレンタインに、『ヴァイオリンロマンス』の底力を見せてよ」 結局は、天羽に引っ張られるようなかたちで、香穂子は、チョコレートケーキ作りに真剣に挑んだ。 月森への恋心をたっぷりと込めて、生地を練り上げていく。 家庭科室にいる誰もが、恋心を滲ませてケーキ作りに励んでいるせいか、教室全体が、ピンク色に染まっていた。 ケーキが焼き上がると、香穂子は慎重に、表面にヴァイオリンのイラストを描いた。 「ダメだなあ…。やっぱり絵心ないや」 「要は気持ちだって!」 天羽の励ましに、香穂子は思わず微笑む。 「私は冬海ちゃんにあげようっと!」 天羽は元気よく宣言する。 「だったらイラストはクラリネットだねー」 最初は苦痛でたまらなかったコンクールだが、香穂子に掛け替えのないものを沢山与えてくれた。 ヴァイオリン、仲間、親友、そして恋。 今はもう音楽のない世界なんて考えられなくなっている。 香穂子は焼き上がったチョコレートケーキを綺麗にラッピングをすると、清々しい満足感を覚えた。 月森がエントランスを通りかかると、香穂子のクラスの男子たちがざわざわしているのを感じた。 以前なら、本当に用がある以外は来ることがなかったエントランス。 なのに今は、用を探しては赴く始末だ。 まだ、『香穂子に逢いたいから』という気持ちを、プライドの高い月森は認められない。 だがそれもそのうち認められるようになるだろう。 香穂子のクラスメイトの男子たちが、女子を見るなり、緊張に震えているのが窺えた。 それに対して女子たちも気合い充分といった雰囲気だ。 何かが始まるのだろうか。 そのなかに香穂子もいることだろうと探してはみたが、その姿を発見することは出来なかった。 女子たちが男子たちに渡しているのは、綺麗にラッピングされたチョコレートケーキのようだ。 ケーキとメッセージを貰った男達が、大きな歓声を上げていた。 こんな騒ぎ立てるなどくだらないと思いながらも、月森は妙に気になってしまう。 「あの騒ぎは一体なんだ?」 同じように見ている生徒に、月森は声を掛けた。 「あれはバレンタイン名物だよ。普通科の女子が、家庭科の二年生最後の実習にチョコレートケーキを作るんだ。それを意中の男子にプレゼントする習わしだよ」 「意中の…」 月森の脳裏に、一瞬、土浦にチョコレートケーキを渡す香穂子の姿が思い浮かんで、こころがキリキリと痛む。 香穂子が他の男にチョコレートケーキを渡すと考えるだけで、目眩を覚えた。 香穂子はコンクール参加者とは、誰とでも仲が良い。 だから誰だって可能性はあるのだ。 月森は苛々するあまりに、眉間に皺を刻んだ。 音楽科にはない、普通科だけのイベント。 香穂子の世界に入れないような気がして、たまらなく嫌だった。 「月森くん」 何よりも耳の栄養になる甘い声に、思わず振り返ると、そこには香穂子が立っていた。 手には綺麗にラッピングされたチョコレートケーキを持っている。 「探したよ。これ、どうぞっ」 ほんのりと頬を赤らめながら、香穂子は月森にチョコレートケーキを差し出してくれる。 嬉しくてたまらなくて頭の中が真っ白になってしまう。 「いいのか?」 「うん。使っている材料も余り高級じゃないし、美味しくないかもしれないけれど…、こころは込めたから」 香穂子がしどろもどろに一生懸命話すのが愛しくてしょうがない。 月森は甘い笑みを唇に称えながら、ラッピングの封を紐解く。 チョコレートケーキには拙く、ヴァイオリンが描かれていて、小さな文字で、LENと描かれている。 幸せ色のとても嬉しいプレゼント。 「有り難う、香穂子」 月森はしっかりと頷くと、香穂子の手を取った。 「じっくり食べさせて貰う。練習に、行こうか」 「はい」 人前では照れてしまうから、クールでいられるうちに練習室へと行こう。 そこには甘く美味しい音楽と時間が待ち構えている。 「香穂子、普通科にも素敵な習わしがあるんだな…。悪くない」 香穂子はニッコリと笑うと、ただ頷いた。 普通科と音楽科が溶け合う瞬間。 いつか垣根も低くなるだろう。 自分たちがその役割を担っているのは間違いないと、ふたりは感じていた、 |