月森編
ホワイトデーだなんて、バレンタインデーに比べるとあまり重要ではないと思っていた。 だが、いざ、ホワイトデーできちんと返さなければならない立場に立たされたら、重要なイベントのように思えてくる。 それは、恋をする相手の素晴らしい笑顔を見てみたいから。 それだけのために、色々と考えてしまう。それがまた、ドキドキしたり、甘い気分になったりして楽しかったりもする。 「蓮、あなたに頼まれた14日のリサイタルチケット、確保しておいたから」 「有り難うございます」 蓮がチケットを受け取ると、いつもよりも甘い笑みになる。 それを勿論母親は逃さなかった。 「ペアチケットって、誰か大切なひとでも誘うのかしら?」 音楽家浜井美沙としてではなく、母親としての柔らかな表情に、蓮は一瞬ドキリとする。 整った涼しげな瞳は、蓮のこころの奥底までもを、見透かしているかのようだ。 何だか違う意味で緊張する。 今まで母親に対して緊張したのは数えきられないほどあるが、それとはまた違った緊張だった。 厳しい超一流の音楽家として母親を見る緊張と、何処にでもいるような温かな気持ちで接してくる母親を見る緊張。 後者のほうが馴れていない分、勝手が狂ってしまう。 「…最近、あなたの演奏は良い方向で変わってきているわ…。今までは…そうね、冷たい氷だった。シベリアの永久凍土のような演奏ね…。飛び抜けた技術…。だけど演奏は、誰も寄せ付けないような孤高さがあったけれど…。今は違うわ」 母親の瞳がフッと優しく弛む。 「きらびやかな温かさを感じるようになった…。そうあなたを変えたひとが、ご一緒かしら?」 母親は遠回しに言う。それがまた、超一流ピアニスト浜井美沙らしいところだ。 隠そうとしてもきっと見破られる。蓮は降参すると正直に認めた。 「…そうです」 「コンクールに出ていた、ヴァイオリンの子?」 母親にキッパリと言い当てられ、耳朶が熱くなるのを感じた。 別にドキドキすることはないというのに、何故だか鼓動は最高潮に達する。 不意に母親の表情が緩んだ。 「やっぱりね。あなたはお互いに高められる相手でないと、恋は出来ないもの…」 蓮を真っ直ぐと見つめた母親は、少しも咎めている様子はなく、むしろ歓迎でもするかのように、優しくなる。 「良い恋をしているようね…。あなたと恋の話が出来て嬉しいわ」 「……」 ふと母親が寂しさと嬉しさを交差させたようなまなざしで蓮を見つめる。 こちらのこころも甘く切なく締め付けられた。 「…あなたにとって生涯唯一の本物の恋だと思うわ。でないとなかなか壁は越えられなかったでしょうから」 力強さを秘めた、細くて長い指先を頬に宛てられた。 「…なくしてはダメよ…。決してね」 母親の瞳は真摯に光り、蓮のこころのなかに語りかける。 「…はい、そのつもりです」 蓮は揺るぎない気持ちを伝えるために、キッパリと言い切る。 これだけは自信があった。 「演奏が終了したら、彼女と楽屋に来なさい。お話をしてみたいから」 「はい」 香穂子に言えばきっと緊張するだろう。しかし上手く立ち回れるはずだ。 「楽しみにしているわ」 母親のピアノの音色よりも深い声は、本当に楽しみでいてくれていることを表していた。 試験休み中も、レッスンのために毎日香穂子とは顔を合わせる。 練習室に入ると、急にドキドキしてしまった。 たかが母親のリサイタルのチケットを渡すだけだ。ただそれだけなのに、まるでコンクールの本選前のような気分だ。いや、それ以上の緊張なのかもしれない。 「…香穂子、その14日のことなんだが…一緒に行かないか?」 何だか言葉にするのがもどかしくて、チケットの入った封筒のみを手渡した。 「…コンサート?」 「ああ」 「蓮くんセレクトねコンサートならきっと素晴らしいよね! 楽しみ!」 香穂子は明るく言いながら、封筒をそっと開けた。 「…あ…、浜井美沙さん…! 蓮くんのお母様っ!」 あからさまに驚いておどおどしている香穂子に苦笑しながら、蓮は落ち着きを取り戻す。 香穂子の慌てている顔を見ると、何だかほのぼのとした気分になるのだ。 「大丈夫だ。そんなに慌てなくて。母さんも君に逢いたいと言っている」 香穂子にしか見せない明るく純粋な笑顔を浮かべて言ったが、その慌てぶりは更に激しくなる。 「だっ、だって、れ、蓮くんのお母様って、す、凄いピアニストだしっ!」 香穂子はすっかり固まってしまい、表情も引きつってしまっている。それがまた可愛いと言えば、可愛いのだが。 「大丈夫だ、そんなに慌てなくても。母さんの職業は確かにプロのピアニストで、超一流だ。単独でリサイタルを開くことが出来る、ひじょうに少ない日本人だ。だからこそ、音楽に対してはかなり厳しい」 「だ、だからこんなに慌てているんじゃない」 「だが…、母親としてはいたって普通の母親だよ。確かに厳しい努力をして今の地位を築いたひとだから、 音楽には厳しいが、後は本当に普通なんだ。だから心配しなくて良い…。今回は、浜井美沙ではなく、月森美沙として、君に逢うんだから」 香穂子は硬直した表情に、何故だかはにかみを加えた。香穂子の百面相は見ているだけでも楽しかったが。 「…そ、それは余計に緊張しちゃうよー! だって、蓮くんのお母さんだから、気に入って貰おうとか、な、なんかへんなことを考えちゃうし…。あ、何を言っているんだろ、私っ!」 早口で自分で言っておいて、焦る香穂子に、蓮はニコニコ笑ってしまう。 「緊張する?」 「あ、当たり前じゃないっ!」 「…じゃあ、緊張を俺なりに取ってやるよ」 蓮は香穂子にゆっくりと近付くと、宥めるための優しいキスをする。 「…あ…」 「これで緊張は治ったはずだ」 「う…」 香穂子は真っ赤になって俯いたまま、暫く、蓮を見ようとはしなかった。 ホワイトデーリサイタルの当日、香穂子は可憐なワンピースを身に着けて来た。 いつもよりも清楚で、かつ甘い雰囲気がある。余りに可愛くて、蓮が息を呑んだほどだ。 「…凄く似合っている。今の季節にはぴったりだな」 「良かった…」 蓮の母親に逢うという緊張が、香穂子の顔を強張らせていたが、今、少しだけ和んだ。 「行こうか」 「はい」 しっかりと手を繋いで、みなとみらいホールへと入っていく。横にいる香穂子はとても綺麗だった。 リサイタル中、香穂子は夢見心地で浜井美沙のピアノを聴いていた。きらきらと輝く世界を見る乙女のように、うっとりと聞き惚れていた。 蓮は母親の演奏よりも、香穂子の綺麗な横顔が気になって仕方がなかった。 尊敬する母親の演奏よりも自分のこころをつき動かすものがあるとは、正直、思わなかった。 だが、こうして蓮のこころを奪い去る存在が現れたのだ。 願わくば、母親の演奏ではなく、自分だけを見て欲しいと思ってしまう。 リサイタル中、蓮が香穂子から視線を逸らせることはなかった。 「き、緊張するーっ!」 「大丈夫だ」 手をしっかりと繋いで、香穂子を楽屋へと連れて行く。 蓮が楽屋ドアをノックした瞬間、香穂子は飛び上がってしまった。 「大丈夫だ」 現れた浜井美沙は、先ほどステージで見せた厳しいプロの音楽家の顔はなく、そこには母としての顔がある。 「まあ、あなたが日野香穂子さん?」 「はっ、はいっ」 柔らかな母親としてのオーラに、香穂子は直立不動になった。 「…蓮を宜しくね。あなたがいなくてはこの子はダメになってしまうから…」 母親はただそれだけを言うと、ニッコリと笑った。 「はいっ!」 香穂子は潔く挨拶をすると、深々と頭を垂れた。 その姿を見せつけられて、蓮のこころはグッと惹きつけられる。 本当はこちらが再び最高のお返しを貰ったかもしれない。 蓮は嬉しさの余りに、ふたりを交互に見ていた。 「今日、有り難う」 「こちらこそ、有り難う…」 ふたりだけで帰りたくて、母親の送迎を断り、帰路につく。 「…凄く嬉しかった…」 香穂子の言葉に返事をするように、蓮は口付けた。 「有り難う…」 |