*ヴァレンタイン協奏曲*

柚木編


 バレンタインが近付くと、女の子はそわそわわくわく。
 家庭科の授業も、チョコレートケーキを作ったり、学校もバレンタインに協力的だ。
 この瞬間だけは、香穂子は普通科にいて良かったと思う。
 音楽科には、音楽通論を始めとする音楽関係の授業が沢山あるからか、家庭科はなく、香穂子たち普通科生徒とは違うカリキュラムになっている。
「チョコレートケーキをさ、柚木様に上げるんだー」
 クラスメイトのひとことに、香穂子はドキリとする。
 柚木は『王子様』として、普通科でも人気は高い。きっとそれは、柚木が巧みに被る仮面を見ているから。
 その奥にある本心を知っているのは、香穂子以外にはいないだろう。
 悪魔のように残忍で、氷のように冷たい柚木のもうひとつの顔を。
 火原ですら知らない。
 香穂子は思わず背中をゾクりとさせた。
 チョコレートケーキを渡したとしても、あの柚木のことだ。焼却処分をしてしまうかもしれない。
 渡したい、チョコレートケーキを。
 あんなにロマンティックな伝説があるのだから、恋する女の子ならばそれを試してみたかった。
 星奏学院普通科の甘い甘い伝説。
 家庭科の調理実習で焼いたチョコレートケーキを、大好きなひとにプレゼントすれば、そのひとと結ばれる。永遠に幸せになれる…。
 どこの学校にもある、とろけてしまいそうな伝説。
 チョコレートケーキに想いを込めて贈りたい。だが三年生は自由登校だ。今日、柚木が学校にいるとは限らない。
 香穂子は溜め息を吐きながら、家庭科室へと向かった。

 最近、毎日のように学校へと行き、図書室で勉強するのが日課になっている。
 国立大学の二次試験まではあと少し。
 音楽科から関係のない大学に進学予定の柚木は、こうして受験までのラストスパートをかけていると、誰もが思っている。
 好都合だ。
 本当は、そんなことをする必要はない。試験には充分に自信もある。
 本当の目的は、普通科にいるどうしようもない女に逢うこと。
 こんなことを知られたくはない。
 だから、勉強、受験という伝家の宝刀はとても都合が良かった。
 静かにくだらない問題を解いていると、落ち着きのない普通科男子が話をしているのが聞こえた。
「二年生女子のチョコレートケーキの実習が始まったんだなあ。さっき、すげぇ甘い匂いがして、思わずふらふら入り込もうとした」
「バカか、お前」
「だってさ、今年こそ、『チョコレートロマンス』を実現したいって思うじゃないか? 可愛い子からと思ったら、実現したいって思うだろ? 幸せな恋が出来るっていうんだからな? チョコレートケーキを貰ったら、幸せな恋が実るって、お前も聞いただろ?」
「まあな。うちの学校は、ロマンスの伝説が好きだからな。『ヴァイオリンロマンス』しかり、『チョコレートロマンス』しかり」
 ふたりの会話を小ばかにして聞きながら、柚木の脳裏には、香穂子の明るい表情が浮かび上がった。
 余りにも真っ直ぐで、曲がったことも、表裏があることも嫌いな少女。
 打算がなさすぎて、かえって目を引いた。
 香穂子も普通科の二年生だ。
 当然、誰かにチョコレートケーキを渡すかもしれない。
 彼女の周りにいる、自分以外の男を思い浮かべる。
 胃がキリキリと捩じれるように痛むのと同時に、どす黒い感情が全身を支配した。
 許さない。
 絶対に許さない。
 香穂子が自分以外の男にチョコレートケーキを渡すなんて。
 たとえその相手が火原であったとしても、絶対に許すことは出来なかった。
「二年生の次にチョコレートケーキを作るクラスは…」
 男達が話しているのは、香穂子のクラスだった。
 香穂子は、放課後に、柚木がここにいることを知っている。
 チョコレートケーキを持って現れなかったら、首すら絞めてしまうかもしれない。
 醜い独占欲と恋情が、柚木を更にどす黒い色に染め上げていた。

 柚木は受け取ってくれないかもしれない。
 だが香穂子は、自分の恋心のありったけを、柚木にぶつけるように、チョコレートケーキを焼き上げた。
 ふっくらとした感覚は、誰よりも上手く焼けたという自負がある。
 シンプルにかつ美しくラッピングをして、深呼吸をした。
 柚木の笑顔ではなく、冷たい表情が浮かぶ。
 香穂子はそれを打ち消すように、何度も首を振ると、チョコレートケーキを入れた紙袋を抱き締めた。
 どうか。想いが届きますように。
 『チョコレートロマンス』が本物になりますように。
 ただ神様とファータに祈った。

 図書室に行くと、柚木がいることを嗅ぎ付けた女子生徒たちで、かなり賑わっていた。
 ここで引くなんてことは、勿論、出来るはずもない。
 香穂子は覚悟を決めて背筋を伸ばすと、女子生徒たちを掻き分けて、柚木に向かう。
 どんな女の子たちにも負けないと、しっかりとした強い意志を秘めていた。

 来た!
 凛とした応戦モードの香穂子を見つけ、柚木は僅かに自然な笑みを浮かべた。
 それでこそ自分が恋をしている少女だ。
 今日の香穂子は本当に麗しい。
「柚木先輩! 調理実習で作ったチョコレートケーキです!」
 堂々と手渡してきた香穂子に、柚木は薄く整った唇を僅かに歪めた。
「有り難う、日野さん」
 冷たい光のなかに愛情を隠しながら、柚木は香穂子を見つめる。
「みんなのケーキも受け取るよ。有り難う」
 にっこりと微笑む柚木に、そこにいる誰もが黄色い歓声を上げた。もちろん、香穂子を除いてだ。
 柚木は、冷たい何も持たない感情のままでチョコレートケーキを受け取ったあと、紙袋に雑に入れた。
 もちろん、香穂子のものを一番上にする。
 香穂子にメモをそっと渡す。
 練習室に来るように。
 目で合図をすると、香穂子は僅かに頷いた。

 ふたりきりで練習室に入ると、柚木は緊張を解きほぐし、仮面を脱ぎ捨てる。
「そのチョコレートケーキを全部どうするんですか?」
「決まってる。捨てる」
 冷ややかな笑みを浮かべると、香穂子は信じられないとばかりに眉を潜めた。
「…お前の以外は…」
 香穂子のこころのど真ん中を狙ってストレートを投げると、流石に息を呑んだのが解った。
 柚木は香穂子のチョコレートケーキのパッケージを開けると、一口分をちぎって口に含んだ。
 香穂子のドキドキがこちらまで感じる。
 だから簡単には美味しいと、言ってはやらない。
 香穂子が作ったチョコレートケーキが、どんなパティシエが作ったものよりも優れているなんて、言ってなんかやらない。
「…ねぇ、知ってる? 香穂子、チョコレートを食べている時って、人間の脳は、恋をしているのと同じ状態になるって?」
「知らなかったです…」
 頬を赤らめる香穂子を引き寄せて、柚木は顔を近付ける。
「…だからバレンタインデーにチョコレートを贈るのかもしれない…。恋をしていると錯覚させるために…」
 柚木はフッと甘いのにどこか氷を帯びた瞳を香穂子に向ける。
「…だから、この瞬間、俺はお前に恋をしている。だからお前も同じような甘い感覚を、分けてやるよ」
 柚木は香穂子の唇に、自分のそれを重ねる。
 共有したチョコレート味は、みるみるうちにお互いの熱で溶けていった。
 素直には認めてはやらない。
 今はこのチョコレートに総てを託して…。





Top