柚木編
ホワイトデーだなんて、バレンタインデーに比べるとあまり重要ではないと思っていた。 だが、いざ、ホワイトデーできちんと返さなければならない立場に立たされたら、重要なイベントのように思えてくる。 それは、恋をする相手の素晴らしい笑顔を見てみたいから。 それだけのために、色々と考えてしまう。それがまた、ドキドキしたり、甘い気分になったりして楽しかったりもする。 大学も決まり、卒業式も済んでしまった以上、最早、関わらなくても、振り回されなくても良いに決まっている。 なのにこうして携帯を手に取り、ディスプレーには香穂子の電話番号を表示させている。 発信ボタンを押せば、いとも簡単に繋がってしまうだろう。 もうそんな必要はない。 繋がる必要はない相手じゃないか。 生きる世界が違い過ぎる。 星奏学院の生徒で無くなった以上、特にこれからは全くといって接点はないのだから。冷酷に斬り捨ててしまえば良いし、自分にはそれが出来るはずだ。 なのに出来ない…。 自由なように見えて、幸せなように見えて、本当は見えない様々な茨にがんじがらめになって動けないでいる自分。 それを一番理解してくれているのは、誰よりも香穂子だ。 家族にすら隠している素顔の自分を、香穂子だけは解ってくれている。 香穂子にだけ、本当の自分をさらけ出すことが出来たと言っても、言い過ぎなんかじゃない。 いつか、この躰とこころを蝕む“茨”を、香穂子なら切り裂いてくれると思っている。 だからこそこの関係に区切りを付けなければ、“家”の期待は応えられない。 なのに…。まるで何も知らない小さな子供のように、求めずにいられなくなる。 こころに勝てる筈もなく、柚木は電話の発信ボタンを押した。 「…香穂子?」 「あっ…! 柚木先輩っ!」 電話の前の香穂子の声は弾んでいて、快く思ってくれているのが解る。 ホッとする瞬間だ。 「14日の昼間…、君に振り回されてあげても良いよ?」 どうして香穂子にはこんな言い方しか出来ないのだろう。 本当は振り回されたくて仕方がないのに。 「じゃあ振り回します」 どこか笑みを声に混じらせながら、香穂子はキッパリと言う。 こんなところが他の女とは違うところ。だからこそ惹かれずにはいられないのかもしれない。 「どちらに行きますか?」 「近場で、北鎌倉なんてどう…?」 「良いですね! 行きます!」 どうしてこんなにもこの声が心地好いのだろうか。まるで楽園にいるかのようだ。 柚木の唇が僅かに上がった。 「…じゃあ、現地で待ち合わせをしよう。…遅刻をしたり…、この俺を待たせたらどうなるか…。解っているよね…?」 素を出して低い声で囁くことが出来るのは香穂子だけだ。 香穂子は知っているだろうか? 素を出しているときは、総てを預けていることを。 「…が、頑張ってみます…」 余り積極的でない声に、声を立てずに笑ってしまった。 「…どんなお仕置をするか…考えておくよ…」 「早起きしますっ!」 「…期待はしていないよ…」 こんな会話を交わすだけなのに、こころの総てを開放している気分になる。柚木がこころから笑えるのはこの瞬間だけだった。 「…じゃあ、また…。遅刻するなよ?」 「はい、と言っておきます…。だけどホントに楽しみにしていますからっ!」 「ああ」 電話を切った後、切ない溜め息が出た。素晴らしき時間を失った気分で、苛々する。 柚木は携帯のディスプレーに映し出された通話時間を眺めながら、ぼんやりとした。 香穂子をいじめるようにからかうのは、好きだからだ。 まるでいじめっこの小学生の理論だ。 素直になり過ぎて、逆になれない自分の複雑さに閉口しながら、柚木は携帯を閉じた。 鍵をかけてある引き出しを開け、そこの奥深くに置いている“ホワイトデー”のアクセサリーを眺めた。 七宝焼きのペンダントは、菖蒲の見事な図柄があり、プラチナのチェーンが上品に寄り添っている。 文字通り鎖だと思った。 これで香穂子をつなぎ止めたいなどと思ってしまっている。 「…似合うだろうな…」 本当は香穂子をつなぎ止める資格なんてない。なのにずっとつなぎ止めたいとすら思う。 「…この俺が…こんなに夢中になるなんてな…。音楽よりも…離したくないものが出来るなんて、思わなかったな…」 柚木はひとりごちると、そっとペンダントを引き出しにしまいこんだ。 約束の日、柚木が到着すると、香穂子は既に北鎌倉の駅前に立っていた。 「これで“お仕置”は、なしですよね?」 ニッコリと微笑む香穂子に、柚木は薄い笑みを浮かべた。 「…そうだな…」 香穂子が自慢げに笑う姿が可愛くて、つい素直な笑みを浮かべることが出来た。 「この辺りはかなり植物が綺麗なんだ。俺は気に入っている」 「私も、綺麗な植物をいっぱい見られるのが嬉しくてしょうがないです」 「…余り羽目を外すなよ…。迷惑だからな…」 「はあい」 どこか不満そうに呟きながら、香穂子は歩き出した。 「きゃあっ!」 何もない場所でお約束過ぎるぐらい見事に躓いた香穂子を、柚木は軽々と受け止めた。 「…ったく、ぼっとするなよ」 「…ご、ごめんなさい…」 厳しく感情のない視線で睨み付けると、香穂子は一瞬しゅんとする。それはまるで飼い主に怒られた犬のようで可愛かった。 「…しっかり掴まっとけよ。お前みたいにドジな女は知らないな」 まるで手錠をかけて連行するかのように、柚木は香穂子のか細い手首をしっかりと握り締める。 きっと知らない。 こうしてずっと束縛したいと思っていることを。 手首に食い込む指が、とても熱かった。 美しい和の庭園を散策しながら、ふたりは春のひとときを思い切り楽しむ。 デートらしいデートは、ひょっとして初めてかもしれない。 柚木は初めて感じる楽しさに、屈託なく笑みを零した。 香穂子も柚木の笑顔を見て、頬を赤らめながら素直に笑う。 春の陽射しと相俟って、香穂子がキラキラと輝いて見えた。 掴まえたい。 離したくない。 柚木は香穂子の手首を強く握ったまま、死角になっている境内のはしに向かう。 捕らえてやる。 閉じ込めて離さない。 「…髪を上げて項を出すんだ」 いきなり言われても香穂子は戸惑うばかりのようだ。 「あ、あの?」 「命令だ」 キッパリと言い放つと、香穂子は素直に従った。 白い項は、まるで絹のように綺麗だ。 柚木はそこに、香穂子のために用意しておいたペンダントをかけた。 ずっと鎖でふたりを繋いでいたい。 「あ…っ!」 ペンダントを見るなり、香穂子が固まるのが解った。 肩を震わせているところを見たところ、気に入ってくれているようだ。 「…香穂子、決めたよ…。俺はその鎖でお前を縛り続ける」 甘い言葉なんてやらない。 これが柚木の精一杯甘い言葉だ。 それを香穂子が解ってくれているのは、キスのあとのはにかんだ笑顔で解った。 |