随分と優しくなった陽射しが、冬の訪れを教えてくれる。つんと澄み渡った初冬の空気は肌を刺すが、どこか心地良い緊張をくれる。 「こんな良い気持ちの朝なのに、寝ているおバカが目の前にいるのよねえ」 望美は眉根を寄せながら、信じられない恰好で眠る幼なじみに一瞥を投げる。枕を持って野放図にも眠る姿は、目も当てられない。沢山のファンがいるとは思えない姿だ。 「ったく、手を焼かせるなあ」 望美は将臣に呆れかえりながら腕を組むと、勢いよく布団を引っぺがした。 「世界一、起きるのが遅い男、起きろ〜っ!」 そのまま将臣はベッドから転がり落ち、有川家名物、将臣のヒヨドリ落としの完成である。 「ったく、いて〜な!!」 「毎朝、毎朝、同じパターンで起こしてるのに、学習能力がないなあ、将臣くんは!」 「ったく、そんなに乱暴だと嫁に行けねえぞ」 将臣は面倒くさそうに目を開けながら、寝ぼけ眼で望美を睨む。だが、そんなことで望美は怯まなかった。 「将臣くんに貰ってもらわないから良いです〜」 つんと顔を逸らすと、将臣は大げさな欠伸をしただけだ。 「早く着替えなよ。おばさんが朝ご飯セットして待っているからさ」 「今日のメニューは何だよ」 「トーストと、トマトサラダと、スクランブルエッグに、コーヒー」 「変わり映えしねぇな」 将臣はのっそりと立ち上がると、古びたロッカーダンスから制服を取り出す。譲のとは違い、将臣は着方が乱暴なのか袖が少してかてかとしていた。 「贅沢言わないの。野菜サラダは躰にもいいじゃない」 望美は歌でも歌うように、将臣の鞄の点検をしながら言う。 「トマトはくだものだろ?」 「トマトは野菜よ」 いつもの言い争いに、望美は唇を尖らせた。もちろん将臣はそんな表情を見せられても、引こうとしない。 「くだものだ」 ぴしゃりと言い切られ、望美は余計に抗争心がかき立てられ、自分の理論を振りかざした。 「くだものに塩なんてかけないよっ!」 「だったらスイカはどうなんだよ」 「スイカは野菜だよ」 「くだものだろ?」 「だって八百屋さんに売ってるじゃない!」 堂々巡りのいつもの会話。つい熱くなってしまうのは、子供の頃から変わらなかった。むぅとあからさまに拗ねる表情を浮かべる望美を、将臣が視線で威嚇する。睨み合うふたりの緊張を、将臣の母親が破る。 「望美ちゃん、将臣! 早くしないと本当に遅刻するわよ!」 望美が慌てて時計を見れば、もう、将臣が朝食を取る時間は残されてはいなかった。毎朝いつもこの調子で、結局は将臣が朝食を食べ損ねるのだ。 「ご、ごめんっ!将臣くん、ご飯食べる時間ないよ〜」 「直ぐに着替えるから、お前は鞄持って、玄関で待ってろ。直ぐ下りる」 「うん」 机の上にある将臣の鞄を持つと、望美は飛ぶように階段を下りていく。まるで三度の食事のように、いつも見られる当たり前の風景だ。 「おばさん、お邪魔しました〜」 「ええ、いつも有り難うね〜」 ふたりの朝のドタバタを、将臣の母は、まるでスラップスティックなコメディを見るように笑みを含んで見守ってくれた。 将臣は、校則違反も何処吹く風の恰好で、玄関先に風のように現れると、そのまま自転車のサドルに跨る。 「今日は新記録目指すからな。その時計で計っておけよ」 「うん、はい、これ」 望美はおやつとして持っていたショートブレッドを将臣の口に押し込めた。にこりと微笑むと、将臣もまるで木漏れ日のような笑みを返してくれた。 「サンキュ」 ショートブレッドを加えたままで、将臣は自転車のペダルを全速力でこぎ始める。極楽寺の駅までは、自転車で5分ほど。このままいけば、藤沢行きの遅刻ギリギリの----通称”最終電車”には間に合うだろう。 将臣の腰にしっかりと腕を回して、いつものように頬を広い背中に頬を当てる。こうすれば、流れるように吹き荒ぶ潮風を凌げるから。それに将臣の背中に頬を当てていると温かくて、安心できた。 「将臣くんの背中って気持ちよいなあ。湯たんぽみたい」 「のんきだよなあ、お前。遅刻しそうなのに、焦ってねぇし」 将臣は苦笑しながら、どこか困ったような響きを言葉に乗せている。 「将臣くんだって同じじゃない」 「----まあ、違いないけれどな…」 道が緩やかな坂に入り、将臣はペダルを全速力にこぐ。まるでジェットコースターのようなスリルがある。望美は笑いと悲鳴を同時に上げる。自転車が極楽寺の駅に滑り込む。朝の名物鎌倉高校生徒による大騒ぎに、誰もが優しい笑みを浮かべてくれた----通勤の人々は懐かしい青春時代を思い出し、通学の面々は羨望を浮かべていた。 所謂”最終電車”に乗り込み、ふたりはいつもの場所に陣取る。 「危なかったな」 「今日もね」 「だが降りてからが勝負だよな」 「そうだね」 ほんの短い時間江ノ電に揺られるが、ふたりの通学区間は湘南の海が最も美しく見える。初冬の光は、海に安らぎを与えるように注ぎ込み、幻想的に見える。望美は朝のこのひとときが大好きだ。特に、遅刻ギリギリの電車に乗ると、まるで天使の梯子のように太陽が海に光を放つ様子が見られるのだ。女の子はいつもロマンティックが好きだと相場が決まっているから、望美もこの風景は大切にしていた。 電車は定刻通りに駅に着く。それと同時にふたりは電車から飛び出した。 「走るぜ!」 「うん!」 風のように改札をくぐり抜けて、急な日坂を走って登っていく。ここは心臓破りの坂で、登校する際に最後の難関になる。 しっかりと手を繋いで、ふたりはまるで幼稚園の子供が登校するように、大騒ぎで走っていく。 「おい、有川、春日! そんなに手を繋ぎたかったら、学校終わってからにしろよ?」 予鈴が鳴るなか、ギリギリに校門を走り抜けたふたりを生活指導担当教師は、苦笑して見ている。「もうしょうがないなお前らは」と言い出しかねない雰囲気を兼ね備えている。 ふたりにとって、手を繋ぐこと自体は、抵抗のある行為ではない。小さな頃から繰り返し行ってきた行為は、親密さを確かめると言うよりは、あくびやくしゃみをするといったことと、同じレベルだった。特に望美にとっては。 特別な行為じゃない-----ずっとそう思っていた。そう、離れてしまうまでは。 空気のように、水のように一緒にいるのが当たり前で、今まで、”一緒にいなくなる日”を考えたことすらなかった、あの頃---- 離れてしまって初めて、水や空気と同じように、生きていくのに必要な相手であったことに気付いた。 夢の逢瀬をし、京で再会し、そして、三度、この熊野で再会した。 隣にいて当たり前だったのに、この時空での将臣はいつも隣にいてくれるわけではない。まるで三文のメロドラマのように、いつも離れていってしまう。その度に、訳の解らない痛みの強さが増大していった。 今回もまた…? この魂を引き裂かれてしまうような痛みがなんなのか、望美には解らない。時折、将臣を見るだけで、胸の奥が痛くなり、呼吸困難に陥るのだ。そう、空気が足りない。今まで、空気のように将臣が傍にいたのに、今はそうではなくなったから、酸素が足りないのかもしれない。 熊野に来てから、益々そう思う。 今もごく当たり前に傍にいる将臣は、水のように、空気のようにしっくりときた。まるで、ずっと一緒に行動していたかのようだ。 今更などと唇を噛みながら、望美は取り戻した”当たり前の日常”に縋り付いている。 抜けるように青く高い空は、無邪気に望美を包み込んでいるようだった。何の悩みもないような空を見ていると、いささか、嫉妬すら感じた。 多湿な気候のせいか草いきれで噎せ返るような気分になる。まるで、熱の降りに収監されたように、息苦しい。 だが本当に息苦しい理由を、心は識っているような気がした。 「ねえ、望美」 朔に声をかけられ、望美は顔を上げた。 「なあに」 「横、良いかしら?」 「うん、いいよ」 朔は穏やかに笑うと、まるで姉のような視線を望美に向けてくる。 「将臣殿が合流して、望美は嬉しそうね」 「うん! やっぱり当たり前の日常が帰ってきたような気がして、気持ちいいよ!」 明るく笑うと、朔はまるで遠い恋を懐かしむような視線を、望美に投げ掛けてきた。 「望美、純粋に、将臣殿が好きなのね」 「え!? そ、そんなことないよ! 将臣くんは幼なじみだし、凄く近しい存在というか、そんな愛だとかは、大げさだよ、ねえ」 朔にナイフで真理を切り裂かれたような気がして、望美は焦る。心臓が早鐘のようになり何だか落ち着かない。 「近すぎるから愛じゃないというわけではないとは想うわ。近すぎたから、愛だってことに気付かなかっただけかもしれないわよ。愛するのに、距離なんて関係ないもの」 胸がずきんと痛んで、喉がからからに渇く。次の言葉を紡ごうとして、望美は逞しい影に気付いた。 「望美、散歩に行くんじゃなかったのかよ」 話題の中心人物である将臣が現れ、望美はそれこそ飛び上がりそうになる。 「そ、そうだね。うん、将臣くん、行こう! あ、朔またね」 望美の焦り具合に朔はくすくすと笑いながら見送ってくれる。姉的存在の親友の笑みが、少しだけ憎らしかった。 あてどなく将臣とぶらぶら散歩をしながら、望美はふと足を止めた。 「本宮まで行ったら、恩人のところに、行っちゃうんだよね」 「ああ。お前を護れるのはそこまでだ…。申し訳ねぇけどな」 将臣の声がくすみ、こちらを見ようとはしない。望美もあえて将臣の顔を見なかった。 「うん、解ってるよ…」 「本宮までは、お前の好きなように俺をこき使っていいさ」 「うん、ありがと」 声が掠れてしまう。胸が震えるように痛くて、立っていられなくなるのをなんとか堪えた。この痛みの意味は何だというのだろうか。咽から血が流れてしまうほど、空気が取り込めないほどの痛みの意味は…。 自分以外に向けられる将臣の保護欲や優しさに、じりじりと灼けつくような嫉妬を感じた。この熊野の太陽と同じぐらいに。 熊野の陽射しは、土と緑のみずみずしい匂いを立ち上らせ、時折、ハッとさせるほどの鮮やかさを見せる。 そんな総天然色以上の彩りの中で、ふたりで肩を並べて歩くのは久しぶりだ。 ここは自分たちの時空軸ではないし、熊野だが、何だか懐かしい日常に引き戻された錯覚を覚える。 期限付きの日常回帰。本宮まで行けば、また、日常から切り離される。 当たり前だと思っていたことが、当たり前でなくなる日が来るなんて思いもよらなかった。 今、横にいる将臣の横顔は、細部まで良く識っている筈なのに、どこか遠い男の香りを滲ませている。それが将臣が過ごした過酷な時間をあらわしているのだろう。 ここにいるのは、かつて空気のように傍にいた将臣ではない。まるで別人のようだ。そう、ここにいるのは、望美が識っている将臣ではない。まだ幼さを輪郭に残した、体躯だけが大人だった将臣ではない…。 ここにいるのは男だ。 将臣が男であることに、どうして今まで気付かなかったのだろうか。いつまでも将臣が傍にいるわけではないと、思わなかったのだろうか。 自分のうかつさに涙が出そうだ。 汗なのか涙なのか解らない筋が頬を伝った。 熊野の夏は物憂げにさせる。望美は頬を伝う汗か涙かわからないものを拭う。将臣また、同じ仕草をしていた。 「…暑いな…」 「暑いと、冷たいものを食べたくなるね」 「そうだな…」 将臣はフッと遙か彼方に思いを寄せるように視線を遠くに向け、僅かに瞳を細めた。どこか神経質なその仕草は、将臣がかつての日常を思い出していることを、気付かせてくれた。 「冷えたトマト食べたいなあ」 「ここに、んなもんがあるかよ」 この時代にないものだから、恋しく食べたくなるのかもしれない。望美は、子供の頃の言い争いを思い出し、溜め息を吐くように笑うと、またあの言葉を口にした。 「…トマトは野菜だよ」 「いいや、くだものだろ」 将臣も先を見ながら、まるで儀式のように呟いた。 「くだものに塩なんかかけないよ」 「スイカはどうなんだよ」 「スイカは野菜だよ」 「くだものだろ?」 「だって八百屋さんに売ってるじゃん!」 「トマトだって青果店で売っているだろ」 くすくす笑いながら懐かしいやり取りをする。何の杞憂もなかったあの頃は、日常の一部として言い争いをしていたのに、今は特別な何かと感じる。 望美は押し黙った。 どうしてあの頃、気付かなかったのだろうか。 傍にいすぎて、空気みたいにお互いを感じていたから、気付かなかった------ こんなにも貴重な時間を重ねていたことを。今となれば、あれこそ奇跡の時間、神様から貰った最高のプレゼントだったのかもしれない。 このやり取りが出来なくなるなんて、哀しすぎる。 行かないで、どうか行かないで! 考えるだけで胸が震える。 激情の痛みは細胞の奥深い場所まで伝わり、望美は観念した。 -----私は将臣くんが好きなのだ----- その事実を認めると、心がすんなりと楽になるのを感じた。同時に、今まで将臣なしで過ごしてきた月日が、涙となってこぼれ落ちる。 無意識に将臣の服を掴んでいた。 「-----トマトはくだものだって認めるから…、スイカは野菜だって認めるから…傍にいてよ…」 声が小さな女の子のように震え、焦燥と諦めが背中に立ち上ってくる。涙がこぼれ落ちた。絶望で足が沈みこんでくるような気がして、これ以上立ってはいられない。 「…望美…」 将臣の声は困ったように低くなり、暫く沈黙をする。 その顔を見ることが出来ない。それを見てしまえば、絶望を突きつけられるような気がして。 「…ごめん。ワガママ言って…。許してね。将臣くん、困っちゃうもんね、うん」 幼なじみとして、努めて明るく振る舞いながら、望美はわざと笑った。視界はぼやけていたし、心は死んでしまったように冷たかったが、それでも笑った。 不意に将臣の眼差しが鋭く光る。 「ひとりで、納得すんなよ、このバカ!」 まるでずっと秘めていたものを爆破させるかのように将臣は言うと、望美を強く抱きすくめてきた。 腕の力も、胸板の厚さも、望美が識ってる将臣よりも遙かに逞しく、誰かを護れる強さを持っていた。 だが将臣だ。 頬に感じる温もりは、しっかりと抱きついた時の優しい雰囲気も、あの頃と変わらない。切ない懐かしさと、経年による男らしさに胸を焦がしながら、望美は将臣に甘えた。 細胞がざわつき、総てが将臣を好きだと囁いているみたいだ。 当たり前でなくなった瞬間に、本当のことに気付くなんて、本当にお笑いぐさだと望美は思った。 将臣は望美の顎を持ち上げると、脆さに揺らいだ深い色の眼差しを向けてくる。艶やかさと大人びた苦悩が感じられた。 将臣の顔が近づくと、望美は素直に目を閉じた。 唇が重なる。初めてのキスは、夏の青さと秋の愁いを感じさせた----- きっとこのキスでだけで、少しの間離れ離れになっても生きていける。またふたりは出会えるはずだ。出会えないのならば、運命を変えればいい。時空を辿りなおせばいい。ただ、将臣を探して。 「好きだ…」 苦悩に満ちた告白は、望美の魂を揺さぶり、心を抉る。 傍にいられないことは、誰よりも将臣が辛いことを、初めて気付いた。 「…私も、大好きだよ」 「…必ず、お前の元に戻ってくるから…。必ずお前を…」 そこまで言ったところで、将臣は口をつぐんだ。将臣の声は絶望と希望が交錯しているように思える。 「…うん、待ってるよ。ずっと、待ってる…。だからワガママは言わないよ、もう…。将臣くんのやるべきことを、やらなければならないことをして…」 望美は将臣を強く抱きしめる。それしか、今、愛を示すことは出来ないから。 お互いに識りすぎていたから、ずっと一緒にいたから気付かなかった強い想い。 この時空にバラバラになって飛ばされたことを、あの時、手をつかめなかったことを、何度も恨んだ。 でも、今はそうじゃない。 こうして、離れ離れになったからこそ、お互いの想いに気付くことが出来たのかもしれないのだから。 そう、朔の言うとおりだ。 将臣をずっと愛していた。 ただ余りに傍にいたから、愛していると言うことに気付かなかっただけなのだ。 望美は深く瞼を閉じると、歓喜に震える心を込めてもう一度呟いた。 「----待ってるから…」 夕方になると湿気の含んだ冷たい風が吹き始めた。 お祭りのような熊野の夏が、間もなく終わる---- |