真名


 名前が、人間が持つ初めての呪だと、どこかの偉い陰明師が言っていた。
 自分ほど名前にこだわらない人間はいないのではないかと思っていたが、やはり縛られているのかもしれない。
 特に幼なじみの夢を見た朝には。
 朝陽が厳かな月光に見える朝には。
 朝陽に浮かぶ影が現れ、将臣は胸を突かれた。息を呑むほどの衝撃に、時間が止まる。
 こんな場所に幼なじみがいるはずはないのに。今は京にいて、仲間たちに護られて暮らしているはずなのに。
 将臣が目を眇めるようにスッと細めると、影は見馴れた側女のそれになった。
「重盛様、そろそろおめしかえの時です」
「ああ。入れよ」
 将臣が低い声で言うと、側女が入ってくる。
 現実が襲い掛かって来た。
 今は有川将臣ではない。平重盛だ。
 戦場では容赦なく冷徹に人間を斬る平家の将だ。
将臣は背筋をしっかりと伸ばし、立ち上がった。
「還内府殿、本日からご出立されるとのことで…」
 側女の声が震えている。とりたてて恋愛感情があるわけではないが、将臣にとっては、気に入りの側女であった。
 将臣は何も言わずに、世話を受ける。
「私をご一緒に連れて行っては下さらないのですか?」
「危険だ」
 キッパリと冷酷に言い放つと、側女はよよと泣き崩れた。
 将臣は目を細めると、静かに女の顎に手をかけ、引き寄せる。
 恋愛感情とは別に、性的衝動が躰を貫く。男とは、どうしようもない生き物だと、将臣はこの世界で識った。
 そのまま深く唇を重ねると、将臣は側女を寝処へ引きずり込んだ。
 汚れている。
 有川将臣としての心は、ここでは必要ないから。幼なじみの前以外は…。


 熊野でまさか会えるとは思わなかった。
 長い旅路の草枕で、幾度となく幼なじみに逢いたいと願ったからだろうか。
「将臣くんっ!」
 大切で大切過ぎるぐらいに愛おしい幼なじみにその名前を呼ばれれば、自分に纏わる汚れたものが総て抜け 落ちてしまいそうな気がする。
 自分が真っさらのままの自分になったように、将臣には感じられた。
 飛び込んで来た優しい温もりを、魂ごと抱きしめてやる。胸の奥が泣きたいぐらいに甘く痛み、自分を狂わせた。もうこの手から幼なじみを離したくないと、躰も心も叫んでしまっている。
「望美…、もう一度俺の名前を呼んでくれねぇか?」どこか苦しみが滲み出る言葉に、望美は驚いたように目を 見開いた。どこか心配そうな眼差しが伺い知れる。
「どうしたの?」
「いいから、言えよ…」
「…うん。将臣くん」
 返事をしてくれた今も、名前で呼んでくれているのが嬉しい。望美は改まるように喉を鳴らした。
「将臣くん」
「サンキュな」
 ギュッと華奢な骨を折ってしまいそうなぐらいに抱きしめると、望美は喘いだ。
 幼なじみの前なら、本当の自分でいられる。素直な自分をさらけ出すことが出来た。
 ここにいるのは、義理や血脈にがんじがらめになっている平重盛ではなく、自由気ままな男子高校生有川将臣なのだから。
「将臣くん、朝ごはんまだでしょ? だったらね、譲くんが一生懸命作ってくれるから。食べようよ!」
 子供の頃から変わらぬ人懐こさで、望美は真っ直ぐに、”有川将臣”を引き出してくれる。それがとても嬉しかった。
「久し振りだな、譲の飯を食うの」
「でしょ! だから一緒に食べようよ! それにみんなにもちゃんと紹介したいしね」
「はい、はい」
 肩から重荷がすんなりと消える。将臣は、望美の無垢さに憧れを抱きながら、その顔を見つめていた。
 有川将臣の自分でいたいと思いながらも、頭のどこかに自分がやらなければならないことが、頭を擡げていた。
 有川将臣。
 平重盛…。
 自分はいったい誰なのだろう。アイデンティティはいったいどこにあるのだろうか。
 将臣は胸の感情が、麻酔を打ったときのように、うとうとしてしまうのを感じた。
 名前が呪。
 そんな言葉が頭を過ぎった。
 親から貰った、有川将臣という名前は、大切な幼なじみに呼ばれる名。
 平重盛は、家族のような親しみがある平の家を護る為の名前。
 どちらも欠けてはならない大切なもの。
 ふたつをどちらか撰べと言われれば、将臣がふたつに裂けるしかない。
「どうしたの?」
 考えこんでいると、望美が顔を覗きこんできた。
「何でもねぇよ! おら、行くぜ」
「うん!」
 望美の柔らかな髪を撫でると、明るい笑顔が戻ってきた。

 将臣と重盛。
 どちらかを選び取る日が来ようとは、思ってもみなかった。
 ずっと心の奥では疑念があった。
 もしかしたらが。
 しかしこんなことが実際に起ころうとは思っていなかった。
 実際は、起こるべくして起こると感じていたのにも関わらず、起こらないと思い込んでいたのかもしれない。
「ま、将臣くんっ!?」
 こんなにも切ない声で、悲痛に名前を呼ばれたことなどなかった。
 将臣は、こんなに哀しい太刀を受けたこともなかった。
 背筋が寒い。
 自分が本気で斬ろうとした相手は、よりによって愛おしい幼なじみだとは、思いたくなかった。
 有川将臣の心は麻痺し、叫び声を上げて今でも崩れそうになっているというのに、平重盛は真っ直ぐに大太刀を振りかざしている。
 ふたりの自分。
 どちらも自分で、捨て難いもの。
 運命が今、情け容赦なく将臣に真実を選び取らそうとしている。
 お互いに殺意を込めた剣を交わしたのだ。
 それならもう迷うことなどあろうはずもない。
 将臣は、迷いを振り切るように、その眼差しに力を込めた。
「……俺は…恒武天皇の後胤、平重盛……! 源氏の神子、覚悟!」
 望美が泣いている。
 泣きながら太刀を合わせている。
 そんな瞳をするな。こちらが狂い死にしてしまいそうになる。
 だから。だから。
 どうか、自分を敵だと認めて、この太刀を返して欲しい。
 将臣としての心は血を流しているのに、それを無視する。
 こうなってしまった以上、自分は平重盛だ。
 もう有川将臣には戻れない…。
 なにもかも麻痺してしまい、もうやけになってしまっている。
 護るべきものを手放し、傷つけようとしていたのだ。何もかもいらない。
 もう誰も愛せないから。
 名前は呪だ…。
 真実の名前だなんてもうどうでも良い。


「望美! 荷物の積み込みが済んだぞ!」
「うん! 解った!」
 将臣が声をかけると、望美はまるで子供みたいにこちらにかけてきた。
「ったく、お前はガキみてぇだな」
 頭を言仁にするかのように撫でると、望美は可愛いらしく拗ねた。
「何よぉ。そのガキにいやらしいことをする人は誰なのよっ!」
「さあな」
 望美が一緒に南の島に来てくれると言ってくれた時、氷の世界が再び動き出した。
 強張る躰と魂を、望美は癒してくれた。
 敵対していたことも、なにもかも越えて、ずっと共にあってくれると。
 これ以上に嬉しい出来事なんてなかった。
「将臣くんが何をしていたとしても私には関係ない。たとえ還内府なんて呼ばれていたとしても、私には将臣くんは 将臣くんだよ。小さな時からずっと見てきた、大好きなひとだよ。世界で一番大好きなひとだよ。それだけは解って欲しい。私は名前が好きなんじゃないよ。中身が好きなのよ。将臣くんがたとえ権左衛門でも好きだよ?」
 望美は上目使いをで将臣を照れたように見てくる。それが可愛いかった。
「俺も、お前がゴンザレスでも好きだぜ」
「そんな名前有り得ないよ」
 泣き笑いをする望美に手を伸ばす。
「有り難うな」
 将臣は望美を抱きしめる。
 大切なものを手に入れた以上、もう偽りは捨てよう。自分を飾る必要はない。
 平重盛であっても、有川将臣であっても、もういいではないか。
 どちらも確かに自分であったのだから。
 名前の呪から解き放たれた瞬間、より自由になることが出来た。
「さあ行こうぜ。俺達が笑っていられる楽園へ!」
「うん! 将臣くん!」
ふたりは手を取り合い、船に乗り込んで行く。
 名前などただの呼び名に過ぎない。
 いくつ持っていても良い。
 愛を込めて呼ばれた名前こそ、真実のものであるはずだから。
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