*記念日*


 女の子は誰だって記念日が大好きだ。
 クールに装っていても、本当はこころの奥底では記念日を祝って欲しいと思っている。

 アシュヴィンは今日が大切な日であることを、果たして覚えてくれているだろうか。
 ほんの少しだけ不安に思う。
 今日は二日ある結婚記念日のどちらでもないし、お互いにキスをした日でもない。
 ふたりが運命に引き寄せられて出会った日であることを、アシュヴィンは覚えてくれているだろうか。
 千尋にはそれだけが不安だ。
 アシュヴィンが覚えてくれていたら良いのに。
 そんな記念日に気を遣えないほどに、アシュヴィンが多忙を極めているのは解っている。
 それは千尋も同じことではあるけれども、やはり男性よりも忘れ難いのは確かだ。
 今日は早く帰ってきて欲しい。
 ふたりで出会った頃の想い出話を、たくさんしたいのに。そして、幸せな気分に浸りたいというのに…。
 それすらも出来ないのだろうか。
 千尋は、ふたりの甘い寝室でひとりきりになりながら、アシュヴィンを待ち続けた。
 先ほどから余り時間が経っていないというのに、数時間、いや数日経過したような気分になる。
 それほどまでの想いに支配されていた。
 逢いたい。
 ただ、それだけ。
 記念すべき日を大好きなひとと過ごしたいだけなのだ。
 なのにアシュヴィンは帰っては来ない。
 ふたりで過ごしたい日に帰ってきてくれないだなんて、千尋は泣きそうになった。
 わがままなのは解っている。
 いつもは沢山我慢をしているから、せめて今日は我が儘を言いたかった。
 千尋は熊のように部屋を動き回りながら、アシュヴィンを待つ。
 だが、帰る気配すらしなかった。
「もうっ!」
 香穂子は小さな子どものように言うと、クッションを壁に投げ付けてしまった。
「どうして帰ってきてくれないのよ」
 恨み節を言ってもしょうがないのは解っているけれども、これでは余りにも切ない。
 千尋は待ち疲れてしまい大きな溜め息を吐いた。
「…アシュヴィン…」
 大好きなひとの名前を口にすると、本当に泣きそうになる。
 本当はわがままなんて言いたくない。
 だが、特別な日だけは、わがままな女になりたくなる。
 溜め息を吐きながら夜空を見上げる。
 月の傾きでだいたいの時間が解る。かなり夜も更けてきた。
「アシュヴィン、帰ってきてよ…」
 小さい声で呟くと、千尋はそっと膝を抱えた。

 いつの間にかうとうとしていたようだ。
 千尋がたゆたゆと夢うつつに漂っていると、静かな足音が聞こえた。
 千尋は鼓動が跳ね上がるのを感じながら、躰をしゃきりとさせて姿勢を糺した。
 アシュヴィンだ。
 アシュヴィンがようやく帰ってきたのだ。
 遅いと、恨み節を言いたかった筈なのに、今は何も思い付かない。
 ただ、今はアシュヴィンに抱き締めて欲しいと思うだけだ。
 ゆっくりとドアが開かれて、アシュヴィンが姿を現す。
 その姿を見た瞬間、今まで悶々と溜め込んでいた想いが、総て綺麗さっぱりと忘れてしまった。
「ただいま、千尋」
 甘くて低い繊細な声に、千尋は笑顔になる。
 こうしてアシュヴィンが目の前にいるだけで解る。
 本当にそばにいてくれるだけで嬉しいのだと。
 それだけでスペシャルなのだと思わずにはいられない。
 千尋は、アシュヴィンに改めて笑顔を送ると、とっておきの言葉を伝えた。
「おかえりなさい」
 千尋の言葉に、アシュヴィンは花の蜜のように甘い笑みを浮かべてくれる。
 それが嬉しかった。
 ふたりでしっかりと抱き合って、“おかえりなさいのキス”をする。
 これで総てが帳消しにしてしまえるのは、好きという感情のマジックだ。
「遅くなったな。こんなに遅くて申し訳ないが、お前をとっておきの場所に連れて行きたい。大丈夫か?」
 とっておきの場所。
 なんてロマンティックな響きなのだろうかと思う。
 素敵な記念日の最後に、こんな大逆転があるとは、千尋は想いもよらなかった。
「もちろん、行きたいよ! アシュヴィンとなら何処へでも」
「有り難う、千尋。じゃあ早速、出掛けよう。黒麒麟を待たせてあるからな」
「うん!」
 黒麒麟に乗って行く場所は、不思議なロマンティックがあると相場は決まっている。
 アシュヴィンに手を引かれながら、千尋はロマンティックな気分で盛り上がっていた。

 アシュヴィンの背中にしっかりと掴まって、黒麒麟に乗る。
 天を駆ける時は、何とも言えずに爽快だ。
 背中に羽根が生えたような気分になる。
 このままもっと高くへ、もっと遠くへと行けるような気がした。
「ねえ、ロマンティックな所って何処?」
「着いてからのお楽しみだ」
「ケチ」
「肝心なことを話してもつまらないだろう? だからお預けだ」
「つまんない」
 ふたりは他愛ない会話を楽しみながら、闇を駆け抜ける。
 アシュヴィンが一緒にいるからこそロマンティックなのだ。
 アシュヴィンが一緒ではなかったら、恐ろしい気分にすらなるかもしれない。
「もうすぐ下降する。千尋、しっかりと掴まっていろよ」
「うん!」
 黒麒麟は着陸体勢に入ると、一気に急降下していく。
 暫くいた世界で楽しんだジェットコースターのようだ。
 黒麒麟は、柔らかな闇に包まれた森に降り立った。
 本当に月と星の光しかない。
「千尋、ここからはすぐだ。少しだけ歩こう」
「うん」
 ふたりは手を繋いで、ゆっくりと先に進んだ。
 先に進むと、アシュヴィンは少しいたずらめいた笑みを浮かべる。
「お前も喜ぶと思うぜ」
 アシュヴィンに手を引かれて踏み入れた土地に、千尋は息を飲んだ。
 月の光に厳かに照らされて、ま白の山百合が咲き乱れている。
 その凛とした美しさは、この世のものとは思えないほどだった。
「…綺麗…」
 初めてふたりが本格的に話すようになったのは、山百合の生息地でだった。
 あの時もかなり美しいと思ったが、今宵の美しさは別格だった。
 感動する余りに、涙が出そうになる。
 こんなにも綺麗な風景は他にないのではないかと、千尋は思った。
「今夜はどうしてもここに連れてきたかった。どうしても今日中に見て欲しかったんだ」
 アシュヴィンはちゃんと解ってくれていたのだ。
 今宵がふたりにとって、いや千尋にとっては大切な記念日であるということを。
「アシュヴィン…知っていたんだ…」
「ああ。俺たちが本格的に知り合った記念日だからな…。だからこそ山百合を一緒に見たかった」
 アシュヴィンは、ほんのりと照れくさそうにすると、千尋を温かな愛情が滲んだ瞳で見つめてくれる。
「…有り難う…。凄く…嬉しいよ…。こんなにも嬉しいことはないよ。アシュヴィン、有り難う…」
 千尋が泣き笑いの表情を浮かべると、アシュヴィンは困ったように笑う。
「こら、これぐらいのことで泣くなよ」
「だって、物凄く嬉しいんだよ。私、こんなに嬉しくてどうして良い が解らないよ」
「…これからは毎年、お祝いをする予定なんだからな。千尋、ふたりで沢山の記念日を作って行こう」
「うん。そうだね。凄く嬉しいよ。本当に毎日が記念日になっていくね」
「そうだな」
 ふたりは笑みを交わし合うと、しっかりと抱き合ってキスをする。
 本当にこんなに幸せなことはない。
 これからは毎日が記念日になっていく。
 ずっとずっと幸せであることを、千尋は確信していた。


Top