「アシュヴィンのばか…」 千尋はソファに突っ伏しながら、自分でも訳が解らないままに呟く。 恐らくはアシュヴィンへの甘えなのだろうと、自分でも思っている。 アシュヴィンは、千尋が心から甘えられる数少ない相手のひとりだからだ。 千尋は気分が優れない余りに、瞳に涙を滲ませると、真っ赤になった顔をアシュヴィンに向けた。 アシュヴィンはと言えば、困ったような顔をしている。 「…俺のせいかと言われたら…半分以上はそうなんだがな…」 アシュヴィンは困ったように言うと、千尋が腰掛けるソファに自らも腰掛けた。 アシュヴィンは愛しそうに千尋を見つめると、頬をなだめるように撫でてくれる。 それがとても心地好い。 千尋が気分が優れないのは、ひとえにアシュヴィンの子どもを身ごもっているからだ。 妊娠初期の悪阻の苦しさに、千尋はくたくたになっていた。 「…アシュヴィンが悪い訳じゃないんだけれど…ごめんなさい…」 千尋が謝罪の言葉を口にすると、アシュヴィンは僅かに微笑んでくれる。 「…しょうがない…。男には解らない感覚だからな。こればっかりはな」 「アシュヴィン…」 アシュヴィンの受け止めてくれる広い心に感謝をしながら、千尋はその顔を見上げた。 「…寝台で横になるか…? そちらのほうがかなり体調はマシだろう?」 「だってそうしたら、アシュヴィンのそばにはいられないじゃない。それが嫌なの」 我が儘なのは解っている。 だが、こんな気分だからこそ、アシュヴィンのそばに居たいのだ。 大好きな男性のそばならば、気分もかなり落ち着くだろうから。 千尋が小さな子どもがするようにアシュヴィンの衣服を掴むと、苦笑いを浮かべられた。 「しょうがないな…」 困ったように言いながらも、アシュヴィンは抱き締めてくれる。 「有り難う」 「どう致しまして」 ギュッと甘えるように抱き着くと、それに応えるようにしっかりと抱き締めてくれるのが、嬉しかった。 暫く、アシュヴィンに抱き締められてじっとしていると、気分がかなり良くなってくるのが不思議だ。 千尋は息を定期的なリズムですると、段々と落ち着いてくるのを感じていた。 「…執務中にくっついてごめんなさい。かなり気分は良くなってきたよ。私もここで座りながら、自分の出来る範囲内で頑張るね」 千尋が顔をあげて、にっこりと微笑みながら呟くと、アシュヴィンは眩しそうに目を細めた。 「余り無理はするなよ。もうお前ひとりの躰じゃないんだからな」 「うん、解っているよ。無理はしないよ。有り難う、アシュヴィン。心配してくれて」 千尋が微笑むと、アシュヴィンもまた微笑んでくれる。そこには愛があると思わずにはいられない。 熱くて甘くて温かくて。そして激しいふたりの愛。 それが嬉しい。 穏やかさと激しさの相反するものを持つ愛は、なんて素晴らしいのだろうかと思った。 「アシュヴィン、甘やかせてくれて有り難う。これだったら甘いお父さんになっちゃうね」 千尋の言葉に、アシュヴィンは苦笑いをする。自分でも認めざるをえないといったところだろうか。 「…息子だったら厳しくするつもりだ。…娘だったら甘くする。どうせお前が、息子だったら甘くして、娘だったら厳しくするんだろうからな。ちょうど良いんじゃないか。俺たちは。均衡が取れている」 「そうだね」 本当にそうだ。 ふたりの子どもは、常世を、そして中つ国の未来を担うのだから。 「千尋…少し気分転換をしないか?」 「気分転換?」 「宮殿の中庭で申し訳ないが…、ゆっくりと散歩でもしないか…?」 アシュヴィンの言葉が嬉しくて、千尋は思わず笑顔になる。だが、アシュヴィンはかなり執務が溜まっている。 働いても働いても精力的に頑張るものだから、いつも山のような仕事量になってしまっている。 千尋はそれが心配で思わず表情を曇らせた。 「アシュヴィン…、大丈夫なの…? …その…、お仕事大変そうなのに、散歩なんかして…」 「…俺も気分転換をしたかったからな。ちょうど良い」 「…有り難う」 こうして気遣ってくれるのがとても嬉しくて、千尋は思わず笑みを向ける。 「行くか。宮殿なんて近場で申し訳ないがな。時間が出来たら、橿原の宮の裏手に行こう。清流を見に」 「うん、そうだね…。有り難う…」 香穂子がにっこりと笑うと、アシュヴィンは手を握って立ち上がらせてくれた。 ふたりで手を繋いだままで部屋を出る。 こうして触れ合っているだけで、かなり嬉しい。 笑顔がこぼれ落ちてしまうほどに。 「夜の中庭も雰囲気が良いかもしれないね」 「中つ国程は冷えないからな。お前にはちょうど良いだろう」 ふたりで中庭に踏み入れて、ゆっくりと散歩をする。 「星が綺麗。橿原とはまた違う星が見られるんだね」 「そうだな。だが、橿原の星も俺は好きだけれどな」 「だけど残念だな。今夜はこんなにも綺麗に晴れ渡っているのに、お月様が全く見えないなんて…」 千尋は残念とばかりに小さく溜め息を吐いた。 「…今夜は新月らしいからな。生まれたての月は見ることは出来ないからな…」 「そうなんだ…。残念だよ」 「まあ、そんなにがっかりはするな。新月は良いことがあるんだからな」 「良いこと…?」 千尋が不思議そうに小首を傾げると、アシュヴィンは穏やかなまなざしを向けて来る。 「常世の伝説なんだが…、恐らくは…、中つ国でも同じようなものがあるだろうな。新月に願い事をすると、必ず叶うそうだ。欲張りし過ぎてもダメだが、遠慮し過ぎてもダメなんだそうだ」 「へえ…」 千尋は興味深くアシュヴィンの話を聴きながら頷く。 「ただ自分のことに関することだけを祈ると良いそうだ。それも不思議な話だけれどな…」 「そうだね。自分の事だけっていうのは、かなり難しいかもしれないね」 「そうだな」 アシュヴィンは頷いた後で、高い高い空を見上げる。 確かに、自分が主役の願い事はふたりにとってはかなり難しかった。 千尋は一生懸命考える。 いつまでもアシュヴィンと一緒にいたい。 明るく楽しい家族を作って行きたい。 元気な赤ちゃんが産みたい。 そんなことを考えてしまう。 自分自身の願い事なんてそんなに多くはない。 それはアシュヴィンも同じだろう。 愛する男性と、一緒にいられるのだから。 それだけで本当に満たされている。 「新月に願ってみるか…」 「うん。そうだね」 千尋は頷くと、アシュヴィンと手を繋いだままで、ふたり一緒に高い空を見上げた。 こうして手がしっかりと結ばれていたら、お互いの願い事が相乗効果で高まるのではないかと、千尋は思う。 千尋はしっかりと新月に願った。 アシュヴィンが何を祈っているのかは、何となく感覚で解る。 こうして手を繋いでいれば、心も繋がっているような気がしたから。 ふたりしてほぼ同時に祈り終わり、瞳を開ける。 お互いに同じようなタイミングで見つめあった。 「願ったか…?」 「うん、願ったよ」 お互いに何を祈ったかはあえて言わない。 だが、手を繋いでいるからお互いに解るような気がした。 アシュヴィンと見つめあいながらどちらからともなく軽くキスをした後、ふたりは宮殿に向かって歩き出す。 「良い気分転換になったかか?」 アシュヴィンの問いに、千尋は大きく頷く。 「これで散歩は終わりだが…気分転換になったか?」 「うん十分だよ」 ふたりはしっかりと手を繋ぐと再び宮殿へと向かう。 きっと願いは叶うと信じて。 |