*婚礼前夜*


 愛する男性と結ばれる。
 これほど女にとって幸せはないとは思う。
 まさに、今の千尋は、文字通りに愛する男性と結ばれるのだ。
 なのに関わらず、千尋の気持ちは苦しい程に重い。
 解っている。
 結ばれるのは、愛し合っているからではないからだ。
 あくまで政略結婚。
 これほど切なくて痛い結付きは他にないと、千尋は思う。
 アシュヴィンと明日は正式な婚礼がある。
 愛する男性と結ばれるのに、表情は少しも晴れてはいなかった。
 もしこれが、本当に愛し合っていると解っているならば、こんなにも苦しむことはなかっただろう。
 だが残念なことに、アシュヴィンが恋情を抱いてくれているのは皆無に近い。
 千尋の一方通行的な恋だ。
 成就することなんて、かなり難しいのではないかと、千尋は思わずにはいられなかった。
 明日は大切な日だから、しっかりと眠らないといけないことぐらいは解っている。
 沢山の笑顔を浮かべなければならないことも。
 こんなにも幸せなことなど、なかなかないというのに。
 なのにきちんと笑えない自分が、千尋は悔しくてしょうがなかった。
 どうやっても眠ることが出来なくて、千尋はとうとう中庭に出ることにした。
 出てはいけないとは解ってはいるが、どうしてもこの気持ちを何とか沈めたくて、千尋は庭に出る。
 夜風はひんやりとする程に気持ちが良くて、ほてった気持ちも躰も、程よく冷ましてくれりようになった。
 千尋は、ただ無心で、夜空を見上げた。
 本当に星空が美しい。
 アシュヴィンと愛し合っているならば、こんなにも嬉しい結婚前夜はないのにと、思わずにはいられなかった。
 ゆっくりと歩いていると、気持ちが落ち着いてくるのが解る。
 千尋は深呼吸をしながら、明日がリアルな結婚式であれば良いのにと思わずにはいられなかった。
「…こんなところで何をしているんだ!?」
 鋭い声が響いて振り返ると、そこにアシュヴィンが立っていた。
 気難しそうなしかめっ面を浮かべて、千尋をじっと見つめて来る。
 見つめられるだけでドキドキしてしまうのは、それだけアシュヴィンを愛しく思っているからだろう。
「明日は早いから、早く寝るんだ」
 アシュヴィンは、まるで千尋を窘めるように言う。
「少し風に当たりたかったんだ。気分転換をしたくて…」
 千尋が作り笑いを浮かべると、アシュヴィンは苦笑いを返してきた。
「それで風邪を引いてしまったら、本末転倒だ。気をつけるんだな」
「うん」
 千尋は頷くと、アシュヴィンから離れようとした。
しかし、アシュヴィンが声を掛けてきた。
「少しぐらいなら、外に出ても構わないだろう。少しだけなら」
「…うん…」
 千尋は頷くと、暫く、空を見上げることにした。
 こうしてふたりで並んでいると本当に不思議な気分になった。
 今までに抱いていたネガティブな感情が、するすると溶け出していくのを、千尋は強く感じていた。
「千尋…、明日の準備は出来たのか?」
「私が準備をすることは余りないから、そんなにすることはなかったよ」
「…そうか…」
 アシュヴィンはフッと微笑みながら、千尋を見る。そのまなざしがいつもよりもかなり優しくて、思わず息を呑む。
 こんなまなざしを向けられたら、愛されていると勘違いをしてしまうではないか。
「…だったら今夜はしっかり眠ったほうが良いぞ。明日のためにもな。明日はかなり忙しいからな、しっかりと休まなければな」
 アシュヴィンはいつもよりも甘い気遣いをくれる。それが千尋には嬉しかった。
「…有り難う。だけど、アシュヴィンだってしっかり眠らなくっちゃダメだよ。明日は忙しいんだから」
 千尋がにっこりと笑いながら言うと、アシュヴィンは苦笑いを浮かべた。
「…そうだな。確かにお前の言う通りだな」
「うん。だから早く寝たほうが良いよ」
「お互いな…」
 つい顔を見合わせて、ふたりは笑ってしまう。
 不意にアシュヴィンの表情が何処か寂しそうになる。
「…なあ千尋…、お前…、ひょっとして…、眠れないのか…?」
 キッパリと指摘されて、千尋はうろたえずにはいられない。
「…どうして…」
「何となくな…。…俺も同じだから…」
 アシュヴィンは夜空を見上げると、フッと寂しそうに瞳を陰らせる。そのまなざしの深い影に、千尋は泣きそうになった。
 なんて魅力的で、なんて胸に迫るまなざしなのだろうか。
 千尋と同じ気持ちなのかもしれない。
 そう思うと、もっと心を寄り添いたくなる。
「…アシュヴィン…。…うん、眠れないよ…。…何だか緊張しちゃって…」
 千尋は素直な気持ちを声に滲ませながら、アシュヴィンを見る。
 アシュヴィンも解っていたのか、柔らかく頷いてくれた。
「やっぱりな…。俺も緊張してしまっていたからな…」
「…うん…。緊張し過ぎて、何だか胸が痛かったんだ…。だけど、結婚自体は嫌じゃないんだよ。むしろ…」
 早口でそこまで言ったところで、千尋はハッとする。
 アシュヴィンが今までにないぐらいに真摯で愛が溢れたまなざしを向けている。
 友愛ではなく、明らかな恋情に、千尋の心臓はパニックを起こし始めた。
 こんな瞳で見つめられたら、本当に一溜まりもないではないか。
 千尋は呼吸が浅くなるのを感じながら、ためらいがちにアシュヴィンの瞳を見つめた。
「…むしろ? その後は何なんだ?」
「…むしろ…」
 千尋は口ごもる。
 本当のことを言ってしまったら、アシュヴィンは驚くだろうか。
 それとも、同じ気持ちだと言ってくれるのだろうか。
 千尋は考えすぎる余りに、次の言葉を繋げることが出来なかった。
「…むしろ…、何だ? むしろ嬉しいだとか…、お前は言いたいのか?」
 アシュヴィンの掠れた声に、千尋は追い詰められる。
 真実を伝えたい。
 誰よりも好きな事を。
 だがそれをアシュヴィンは認めてくれるのだろうか。
 それが解らない。
 言いたいのに素直にはなれない。
「…千尋…」
 アシュヴィンの綺麗な指先が、千尋の頬を緩やかになぞってくる。
 余りにも官能的なしぐさに、千尋はどうして良いかが分からない。
 ただ鼓動だけが暴走しているのを感じた。
「…どうなんだ…?」
 アシュヴィンのよく響く魅惑的な声が、千尋のこころを揺さぶってくる。
「…私…、私は…」
 呼吸困難に陥ってしまい、どう返して良いのかが、千尋には分からなかった。
 本当に恋情が絡むと、何をすれば良いのかが、全く分からない。
「…私…、アシュヴィンとは…、政略だとかそんなものは感じていない…。こうして…結婚式を挙げるのは嫌じゃない…。だけど…」
 これ以上言うと息が続かない。
 だが、アシュヴィンは直ぐに千尋の想いを理解するように、真直ぐなまなざしを放ってくれた。
「…政略なんて…俺も少しも思ってはいないさ…。…だが…、本来、俺たちが主体になるべきなのに…、様々なことが絡んで身動きが取れなくなっている…。それが…お前も嫌なんだろう?」
 千尋のこころを見透かすようなアシュヴィンの言葉に、息を呑んで顔を上げた時だった。
 深い角度からアシュヴィンの唇が重なってくる。
 そのまましっとりと唇を重ねられて、千尋は夢を見ているのではないかと思った。
 唇が離れた後で、アシュヴィンは千尋を見つめる。
「…明日は早い…。…もう寝よう。部屋まで送っていく」
「有り難う」
 千尋の手を引くと、アシュヴィンは部屋まで連れて行ってくれた。
「…また明日…」
「うん…」
 アシュヴィンはふと千尋を見る。
「…いつか二人だけで…。いや…何でもない」
 アシュヴィンは静かに背中を向けると、自室へと向かう。
 いつかふたりだけで、結婚式を…。
 千尋にはそう聞こえ、こころの中の約束に思えた。
 千尋もそっと約束をする。
 ふたりだけの結婚式をいつか挙げることが出来るのなら。
 これほどの約束はないように思えた。


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