山奥の美しく小さな滝壺を見つけた時、千尋は思わず息を呑んだ。 周りには山百合が群生し、滝からは虹が浮かんでいる。 まるで昔見た絵画の風景のようだ。 千尋はそこに魅入られるように近付くと、そっと水を覗いた。 「意外に浅いよね…。これなら入れるかな…」 千尋は手を入れて確かめた後で、決意をする。 水浴びをするには、ここは最適な場所なのかもしれない。 歩き回って疲れてしまっていたし、汗が滲んで気持ちが悪い。 ここで水浴びをしてから帰っても良いだろう。 こんな場所ならば、誰も来ない。見られることはない筈だ。 千尋は衣服を脱ぎ捨て、叢に隠してしまうと、滝壺の中にゆっくりと入っていく。 肌に直接感じる水が気持ちが良くて、千尋は思わず息を呑んだ。 「お水も飲めそうだね…」 千尋は水を両手で掬って飲み干すと、心地が良い清涼感を感じた。 「ホントに美味しい水! 橿原市の水とは違うよ」 喉の乾きを潤すまで水を飲んだ後、千尋はのんびりと水に漬かった。 白さが眩しい山百合が見える中で、千尋は静かに呼吸をする。 本当に見事な百合だ。 凛としていて気高くて、憬れて止まない花だ。 山百合を見つめながら、千尋は大好きなひとを思い出していた。 アシュヴィン。 山百合を髪にさしてくれた時、どんなに嬉しかったか、きっと本人は知らないだろう。 あんなにも嬉しい花のプレゼントはなかった。 千尋は気高き白百合を見つめながら、この花を髪に飾れば、アシュヴィンは褒めてくれるだろうかと、ぼんやりと考えてみた。 頭を空っぽにしたくて、アシュヴィンは黒麒麟で、豊葦原を駆け巡る。 沢山の難題を突き付けられている今は、気分転換をしなければならない。 そうしなければ崩れてしまいそうな気がした。 山奥まで駈けてきた。 不意に山百合の麗しい香りと、柔らかな水音が聞こえてくる。 アシュヴィンは黒麒麟から降りると、音と香りがある方向へと、吸い寄せられるように向かう。 群生する山百合がとても綺麗だった。 「…本当に見事だ…」 ここの山百合を摘んでいけば、千尋は喜んでくれるのだろうか。 アシュヴィンはそれだけを考えながら、ゆっくりと近付いていった。 明らかに滝が流れる音とは違う、誰かが水を浴びる音が聞こえる。 近付いては失礼なのは解っているくせに、アシュヴィンは、吸い寄せられるように近付いていった。 白百合の群生する先には、小さな滝壺がある。 滝からは見事な虹が見える。 そして。 その先に見える、官能的でいて何処か清らかな姿に、一目で心を奪われた。 魂を揺さぶられたと言っても過言ではない。 そこには無防備にも生まれたままの姿で水を浴びる、千尋の姿があった。 余りにも美し過ぎて、アシュヴィンは、しばし、自分を忘れてしまう。 こんなにも綺麗な女性の躰を他にはいない。 柔らかな曲線はとても女性らしくて、アシュヴィンの心を揺り動かす。 触れてみたいと思うほどに、官能的な姿だった。 誰にも見せたくない。 誰にも渡したくはない。 アシュヴィンは、ゆっくりと千尋に近付いていく。 このまま抱き締めて、自分以外の誰にも見せたくはない。 本当に麗しい。 アシュヴィンは、千尋を強く抱き締めたくて、滝壺に更に近付いた。 今まで出会った女の中で、最も惹かれた相手だ。 好きだ。 いや、愛している。 だからこそ誰にも渡したくはないのだと思った。 髪を下ろして水を浴びる千尋が、本当にきれいだ。 こんなにも惹かれた相手は他になかったのだから。 足音と気配を背後に感じて、千尋はハッとして躰を咄嗟に隠して振り返った。 そこにいたのがアシュヴィンであったから、心臓が止まるのではないかと 「…千尋…」 アシュヴィンは、無防備な千尋の背中を見つめるなり、一瞬、惚けたようなまなざしをする。 恥ずかしくて、千尋は思わず肩まで水に漬かった。 勢いよく水に漬かってしまったからか、激しい水音がして、アシュヴィンがハッとしたように息を呑むのが聞こえた。 「…すまない…」 「大丈夫だよ…」 千尋はわざと落ち着いた風に装ったが、それは難しかった。 声が震えて、上手く対応することが出来ない。 アシュヴィンがゆっくり近付いて来るのが解る。 胸が早鐘のように響く。 逃げれば良いし、少しあちらへ行って欲しいと、言う事も出来る。 なのに、それが出来なかった。 アシュヴィンが近付いてくることが、不快ではなかった。 一瞬、そこに水の精がいるのではないかと、アシュヴィンは思った。 こんなにも透き通るような柔らかな美しさを持つ女性を、今まで見た事はなかったから。 じっと魅入られるように見つめることしか出来ない。 柔らかな躰のライン、信じられない程に華奢な肩。 それらが異性として、堂々とアシュヴィンを引きつけてくる。 このまま抱き締めたいと思った。 このまま腕の中に閉じ込めて、離したくないと思った。 そして何よりも、このまま誰にもこの姿を見せたくはないと思った。 美しい。 だが、口に出しては言うことが出来ない。 それほどまでに、こころを揺さぶられていた。 アシュヴィンは、この秘密の美しい場所は、千尋の為にあるのではないかとすら思う。 魅入られたまま、ゆっくりと近付いた。 「水の加減はどうだ?」 いつものように振る舞うのが難しいほどに、千尋を意識してしまっている。 アシュヴィンは子どものように、水に指先を漬けた。 「…水の加減はって…、さっぱりして気持ちが良いよ」 千尋は何処か困惑するかのように言うと、華奢な躰を自分自身で抱き締める。 それがなまめかしい。 「これぐらいの休息は赦されるかもな…。…あ、橿原に入る日程が決ったそうだ」 アシュヴィンの言葉に、千尋の背中が緊張する。 「うん、有り難う…。こうしてはいられないね。服を着るから、暫く、あちらで待っていてくれないかな?」 千尋の声が僅かに震えている。 いつものように甘くからかえないほどに緊張しているせいか、アシュヴィンは素直にそれを受け入れた。 「解った。ここを出たところで待っていよう」 「…うん…。有り難う…」 アシュヴィンはそっと秘密の花園から出ると、溜め息を吐いた。 千尋は水から上がると、震える指で衣服を身に着けた。 心臓がまだバクバク言っている。 橿原に攻め入る日程が決まったことよりも、アシュヴィンに肌を見られたことが、緊張して仕方がなかった。 何とか衣服を着けた後で、千尋はアシュヴィンが待つ場所へと向かう。 「アシュヴィン、着替えたよ」 「ああ…」 再び熱いまなざしで見つめられて、千尋は躰の奥深くが燃え盛るのではないかと思ってしまう。 ただじっと見つめられているだけなのに、胸の奥が切なく鳴り響いた。 アシュヴィンの指先が伸びてきて、千尋の円やかな頬を捕らえる。 「…後少しだ…。頑張ろうな…」 「…うん。後少し、頑張ろう」 見つめられて、泣きそうになる。 千尋が潤んだ瞳を向けると、アシュヴィンは苦しげで真摯な表情を浮かべる。 そのまま唇が近付いて来る。 重なっただけのキスは、想像以上に甘かった。 「戻ろう」 「うん…」 アシュヴィンに手を引かれて、ゆっくりと歩いていく。 橿原での闘いが終わってからも、ずっとこうしていられたらと、千尋もアシュヴィンも、思わずにはいられなかった。 |