*置いてけぼりの感情*


 山百合が見たくなり、千尋はひとりで山へと向かった。
 山はとても空気が澄んでいて、千尋は何度も深呼吸をする。
 この新鮮な空気が躰に入り込んでくると、本当に躰の隅々まで気持ち良くなる。
 千尋は、山登りを楽しむように、ゆっくりと小高い山を登っていく。
 出雲に来て、白百合が本当に好きになってしまった。
 それはきっとアシュヴィン故だろう。
 白百合を髪に飾って似合うと言ってくれたから。
 千尋は白百合をゆっくりと眺め、こころの疲れを取りたかった。
 ゆっくりと、白百合が群生する場所まで登りきると、千尋は人知れずにひっそりと咲き乱れる、白百合の群生地へと入った。
「誰だ!?」
 先客に声を掛けられて驚いて顔をあげると、そこにはアシュヴィンがいた。
「…アシュヴィン…っ!」
「何だ…千尋か…」
 アシュヴィンは何処か安心したかのように溜め息を吐くと、千尋を見つめてきた。
「アシュヴィンも来ていたんだ。気分転換?」
「…そうだな」
 アシュヴィンはゆっくりと千尋に近付いてくる。
 近付かれる度に、千尋は肌が震えるのを感じる。
 だがそれは嫌な気分ではなかった。
「…ここを教えたのは、お前だけだから…、お前以外に来るはずはないんだがな…。…お前以外の誰かにこの場所を冒されるのは我慢ならないからな」
「アシュヴィン…」
 アシュヴィンの言葉は本当に嬉しい。
 何処か照れを隠して話す姿が可愛いとすら思った。
「ここは本当に綺麗で癒されるよ。このまま、ずっとここにいたいぐらいだもの」
「そうだな…。ここは俺たちがいる世界とは別世界だ。闘いだとか、そんなことは関係ないような気がする」
「…そうだね…」
 終わりが見えないこの戦いがいつか終わって、常世や中つ国に平和や安定がやってくるのだろうか。
 その時、自分はどうしているのだろうか。
 頑張っているのだろうか。
 先が見えない。
 その先を想像することが出来ない。
 きちんと足を踏み締めた上で、立っていられるのだろうかと、千尋は思った。
 アシュヴィンはどうなのだろうか。
 千尋は横にいるアシュヴィンの精悍な横顔を見つめる。
 アシュヴィンは未来を見据えているような気がする。
 千尋よりも現実的でしかも希望が溢れた未来を見ているような気がした。
「ねえアシュヴィン…、アシュヴィンは…、どのような未来を見ているの…?」
「未来…?」
 アシュヴィンは少しだけ驚いたように眉を上げたが、直ぐにいつものように魅力的だがひとを食ったような笑みを浮かべた。
「…未来…ね…」
「この戦が終わってからは、どうしようと思っているのかなって、思ったんだよ」
「…戦の後ね…。敵将のお前に話さなければならないことか…?」
 アシュヴィンはクールさとからかいを含んだような声で言いながら、千尋を見つめる。
 真直ぐで幾分かクールな魅力的なまなざしに、千尋はうろたえた。
 その表情を見て、アシュヴィンはおかしそうに軽く吹き出す。
 「冗談だ。戦の結果がどいあれ…、俺がしなければならないことはひとちだ。民の幸せの為に、復興に力を入れて頑張る。それだけだ」
 アシュヴィンは力強い声で言うと、まるで未来を見つめるかのように、遠くを見つめている。
 その表情は、本当に魅力的だった。
 輝かしい未来と希望に溢れている。
 とても素敵だと思った。
 羨ましいとも思った。
 千尋は、まだ中つ国の民のことや平和の安定を思う程の余裕を持ち合わせてはいないから。
 いつかこうしてアシュヴィンのように堂々と言う事が出来るのだろうか。
 千尋は自分自身に対して懐疑的になってしまった。
「…お前はどうなんだ? 戦が終われば、どうしたい?」
 アシュヴィンに逆に振られてしまい、千尋はうろたえてしまった。
「随分とびっくりしているようだが…?」
 からかうように言われて、千尋は顔をしかめた。
「…戦を終わらせて…、この豊葦原に平和が戻ったら…、みんなが幸せであるように祈ると思う…。平和で幸せな世の中になって欲しいと思うけれど…、それからどうして良いかが分からないんだよ…。どうすれば平和を意地出来るのか、みんなが幸せになるのか…。私には分からないから…、先ずは勉強をしなくちゃならないけれど…」
 千尋は、アシュヴィンのように未来を真直ぐ見つめてはいたいが、それが出来ない自分にジレンマを感じてしまう。
「…正直だな…。お前のように真直ぐものを見る事が出来れば、きっと解るようにはなってくるだろう。それにはやはり、前を向いて走るしかないんだけれどな」
「うん。そうするよ。どうも有り難う」
 アシュヴィンと話しているだけで、かなり元気になる。
 何か悩んでいる時に、こうして話すと不思議と楽になるのだ。
「…俺たちは、国の為に民の為に尽くす為に生まれてきたんだ。だから、誰よりも国に希望を持って未来を見ていかなければならない」
 アシュヴィンは千尋を見つめると、柔らかくて甘いまなざしを浮かべてくれる。
「…だが…、ここは中立地帯だ…。国の話はここまでだ…。俺もお前も息抜きに来たのには違いないからな」
「そうだね」
 千尋は頷くと、フッと僅かに笑みを浮かべる。それに応えるかのように、アシュヴィンも微笑んでくれた。
 アシュヴィンは、山百合を一輪摘むと、千尋の髪にさしてくれる。
「…本当は戦場なんかに身を置くよりも…、お前はこうして笑っているのが一番似合っているのかもしれないな…」
「アシュヴィン…」
 アシュヴィンはゆっくりと千尋に近付くと、フェイスラインをゆっくりと扇情的に撫でてくれる。
 そのリズムの優しさに、千尋はゆっくりと目を閉じた。
 こんなに素敵な瞬間は他にないのではないかと思いながら。
「…こうしているほうが似合っているなんて…、俺が言ったとお前の仲間が聞いたら…、恐らくは怒るだろうな…」
 アシュヴィンは苦笑いを浮かべながら、千尋を見つめてくる。
 その瞳の奥には、複雑な感情があることを、千尋は見逃さなかった。
「…どうして?」
「どうしても。…お前は戦場に出るよりも、こうして花に囲まれて笑っているのが似合っている。…平和になり…、それが叶うのであれば、俺は…」
 アシュヴィンは言葉を濁すように言うと、千尋から手をそっと引く。
 手を引かれた瞬間、千尋は何かを失ったような気がしてしょうがなかった。
「アシュヴィン…、それから…?」
 言葉の先が知りたい。
 だがアシュヴィンは言葉を紡ぐことはせずに、静かに視線を高い位置に逸した。
「何でもないんだ」
 アシュヴィンは、感情を吹っ切るように言うと、誤魔化すように押し黙る。
「…アシュヴィン…」
 千尋が今すぐにでも泣きそうな表情をすると、ただ苦笑いを浮かべるだけだった。
「…お前に会えて良かった。話せたこともな。だが、今度会う時は恐らくは戦場でだろうな…」
 戦場。
 ふたりがこうして話す事がないということを示している。
 もっとそばにいたい。
 もっと話をしたい。
 なのに言葉に出来なくて、千尋はただ見つめることしか出来ない。
 こんなにも言葉を紡ぐのが難しいなんて、恋はなんと切ないのだろうかと思った。
 黙ってじっとしていると、突然、アシュヴィンが抱き締めてくる。
 息が出来ないほどに抱きすくめられて、千尋は胸が切なさでいっぱいになるのを感じた。
 抱き締められたのは、ほんの一瞬。
 千尋が呼吸を苦しげにすると、アシュヴィンは直ぐに離れた。
 一瞬見せた瞳が、とても切なく深い想いを湛えていた。
 向けた背中が、ひどく寂しげだ。
 アシュヴィンは何か言いそうで言わないまま、足速に立ち去る。
 千尋は切ない恋心で胸が千切れそうになるのを感じながら、アシュヴィンを見送るしかなかった。
 大好き。
 その感情だけを置いてけぼりにされただけで。


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