*花の季節*


 執務をしながら、ちらりと補佐する席に座る柊を見た。
 柊の担当する執務は終わったのか、静かに目を閉じている。
 いつも完璧なまでにサポートしてくれているのが、千尋にとっては有り難い。
 あの闘いで千尋を助けてくれた八葉たちは、アシュヴィンを除いては、中つ国の重要な仕事に着いている。
 闘い前も後も、全力で仕事をしてくれているのが嬉しい。
 これ以上ないぐらいに感謝している。
 特に岩長姫を師と仰ぐ者たちは、最早、国の中枢になっている。
 本当に有り難いことだ。
 そして。
 精神的にも政治的にも、誰よりも千尋を支えてくれているのが、柊だ。
 いつもそばにいて、一緒に執務をこなしてくれている。
 それが千尋には何よりも嬉しかった。
 夕陽と寄り添うように目を閉じている柊を見つめながら、千尋はなんて綺麗なのだろうかと思う。
 幻想的で息を止めてしまいたくなる程に、美しかった。
 こうして執務室にいる間は、忠誠を誓うひとりの軍師として、千尋に接してくれている。
 それが千尋には何よりも嬉しいこと。
 だが、たまには甘さを見せてくれても良いのにと、思うこともある。
 不意に窓から爽やかな春の風が吹き込んでくる。
 ほんのりと春の花の香りが麗しい。
 深呼吸をしても華やいだ気分になる麗しさだ。
 これが春特有のときめきなのだろうと、千尋は思った。
 ふと風が柔らかな花びらを幾つか運んできた。
 可憐な薄紅色の花びらが吹き込んでくる。
 桜の花びら。
 これほどまでに美しい花はないのではないかと思いながら見つめていると、柊の髪に柔らかく絡んでいく。
 まるで桜の花びらが柊に恋をしているかのようだ。
 ほんのりとした嫉妬を感じながらも、千尋はくすりと笑った。
 本当に綺麗な、いつまでも見つめていたい風景だ。
 桜の花びらが舞い始めたということは、最盛期を迎えたのだろう。
 あれ程までに綺麗な花は他にはない。
 満開ならば、柊と一緒に見に行きたいと思う。
 時間が赦されるだろうか。
 今日のように、比較的に執務がゆったりとしている日が、チャンスなのかもしれない。
 千尋があれこれと考えを巡らせていると、柊の瞳がゆっくりと開き、千尋を捕らえた。
 なんて魅力的な表情をしているのかと思う。
「…我が君…、執務は終わられましたか…?」
 優しいトーンで話しかけられて、千尋は驚いて目を見開いた。
「あ、あ、うんっ。執務は終わったよ」
 にっこりと焦りながら笑うと、柊は頷いてくれた。
「…それはようございました。今日はゆっくりお休みになって…」
 柊がそこまで言ったところで、千尋は柔らかくて綺麗な髪に、指先を伸ばした。
「…桜…見に行きたいんだ…」
 柊の髪に着いた花びらを取ると、千尋は掌に乗せて見せる。
「…もう…桜の季節なんですね…。忙しくて忘れていましたよ」
 柊はやんわりと微笑み、千尋の掌を見つめる。
「だから、橿原宮の裏手にある桜を見に行かない…?」
 千尋が少しだけ甘えるように言うと、柊は僅かに意地悪な笑みを浮かべてその手を取った。
「……!」
 柊は千尋の掌にある桜の花びらにキスをする。千尋が息を呑むと、僅かに甘くていたずらめいた笑みを浮かべた。
 心臓がおかしくなるぐらいにドキドキしてしまう。
 喉がからからに渇いて、どうしようもなかった。
「…桜を見に行きましょうか…? 今ならば、まだ桜を陽の下で見ることが出来るでしょうから」
「うん、有り難う」
 耳の下が痛くなるほどのときめきで苦しくなりながら、千尋は俯き加減で呟く。
 耳が熱くなる程に真っ赤になってしまっていた。
 柊はくすりと笑った後、千尋の手を柔らかく握り締める。
 それだけでかなりドキドキしてしまう。
「…では参りましょうか? 我が君」
「うん」
 柊に手を引かれると、世界で一番幸せな女の子になる。
 執務室を抜けて、ゆっくりと宮殿に向かう。
 千尋が少しの間生きてきた時空のように、セキュリティシステムのようなものはないが、信頼出来る仲間たちが守ってくれているから何も問題はない。
 こうして柊と一緒に通り過ぎる度に、誰もが微笑ましいとばかりに笑ってくれたのが嬉しかった。
 宮殿を抜けて、千尋は柊とふたりで桜の美しい宮殿の裏手へと向かう。
 こうして春の美しいひとときを、柊と過ごすことが出来るのが嬉しかった。
「柊と桜を見るのがとても楽しみだよ。…あっちの世界で柊に出会った時も、桜の季節だったね…」
「…そうでしたね…。美しい季節でした…」
 柊は懐かしそうに微笑むと、千尋の手をギュッと握り締めてくれた。
 ふたりでゆっくりのんびり歩いて、桜並木が美しい川縁へと向かう。
 こうして柊とふたりきりになると、女王ではなくただの女の子に戻ることが出来るのが嬉しかった。
「わあ!」
 川縁に着くと、千尋は大きな声を上げる。
 感嘆の声を上げたくなる程に、目の前の桜は美しかった。
「…本当に綺麗だよ…」
 川縁の桜並木は、今が盛りとばかりに、薄紅色で辺りを覆い尽くしている。
 その美しさに、千尋はこころを奪われてしまった。
 命の最後のきらめきを魅せてくれている桜の花は、なんて美しくて切ないのだろうか。
 涙が出そうになる。
「…桜って…いつ見ても、物凄く綺麗だけれど…、いつも泣きたくなるぐらいに切なくなるんだ。花の命が、とても短いからかな…」
 満開の桜は、子猫の寝息ですらも吹き飛ばされてしまいそうなぐらいに、今にも飛び散ってしまいそうだ。
 儚さと危うさ、そして美しさは同居出来るものだということを、桜は教えてくれているかのようだ。
 夕陽が最後のスポットライトを桜の花に照らすように、見事なオレンジ色をプレゼントしてくれている。
「…この世界は、本当に美しいんだと思うよ…。本当に綺麗なのだと思うよ…」
 千尋は感動する余りに、思わず涙ぐんでしまう。
 夕陽の素晴らしきオレンジ色のスポットライトが、瞳に滲んで眩しかった。
「…千尋…」
 柊は優しい声で名前を呼んでくれると、涙を拭ってくれる。
「…有り難う…」
 千尋は笑おうとしても、上手く笑えない。
「…本当に綺麗な風景ですね。…あなたとこの風景を共有することが出来て、私はとても嬉しく思いますよ」
「私も嬉しいよ。柊とだから、物凄く感動するのかな…?」
「私もあなたと一緒だから、いつも以上に感動するのかもしれませんね」
「…うん…」
 柊はそっと背後から抱き締めてくれる。
「…こうして見たほうが、もっと素敵に見えますよ…」
「そうだね…」
 ふたりきりでいるから、こうして甘く幸せな時間を共有することが出来る。
 ふたりきりの時は、ひとりの女の子だから、そう接してくれるのが嬉しい。
「…本当に綺麗ですが、私は…、あなたが喜怒哀楽を浮かべて桜を見ている姿のほうが、より美しいと思いますよ」
「有り難う…。だけど柊…、あなたもとっても綺麗だよ…」
 千尋の賞賛に、柊は苦笑いを浮かべた。
「…ねえ、柊、本当にこの世界は美しいね…」
「はい。ですが世界で一番美しいのは…、あなたですから…、私にとってあなたは世界で一番美しい女性ですから…」
「有り難う。柊…。私にとっても柊が一番美しいって思っているよ…」
 柊は答える代わりに、千尋をギュッと抱き締めてくれる。
 桜なんて本当は口実。
 こうしてふたりで一緒にいたいだけ。
 想いが重なるなか、桜吹雪のなかでふたりは唇を合わせて、甘い愛情を確かめていた。


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