執務が一段落終えて、ふと横で仕事の補佐をしてくれている柊を見た。 千尋のまなざしには気付かずに、柔らかな陽射しを浴びながら執務に没頭している。 その横顔は、本当に美しくて魅力的だと思った。 思わず見入ってしまう。 うっとりと目線を向けていると、柊が気付いたように落ち着いた笑みを浮かべて、視線を動かした。 「いかがされましたか? 我が君…」 「あ、う、うん。執務が一段落したから、少しだけのんびりとしたいなって思っただけだよ」 千尋の言葉に、柊は頷く。 「そうですね。気分転換に少しばかりしましょうか」 「ホントに! 嬉しいよ」 千尋が椅子から勢いよく立ち上がると、柊は柔らかな笑みを浮かべる。 「我が君は気分転換が必要だったご様子ですね。では、橿原の宮の周りをゆっくり散歩でもしましょうか」 「嬉しいよ! 柊と一緒にゆっくりと歩くなんて久し振りだもん」 「…そうでしたね」 柊は陽射しを浴びながら眩しそうに頷いた。 ふたりで執務道具を片付けて、執務室を出る。 プライベートな衣服に着替えたいのは山々だが、時間がもったいないような気がして、このままでいることにした。 執務室から宮殿を歩いて、ようやく外に出ると、千尋は開放的な気分になっていた。 「何だかこうしているととても気持ちが良いよね。空もいつの間にかこんなにも澄んで高くなったんだね。気持ちが良いね」 「そうですね。本当に綺麗な青空ですね」 宮殿の中庭をゆっくりと散歩をしているのを、柊は後ろからゆっくりと着いてきてくれる。 それが千尋には何よりも嬉しい。 いつもこうして見守られている。 だからこそ、どのようなことにも前向きに取り組んでいくことが出来るのだ。 「柊、裏の泉に行ってみない? 畝傍山に登りたいなんて言わないから」 「…全く…。しょうがない我が君ですね。解りました。最近執務を頑張っていらっしゃるから、ご褒美ということで」 「有り難う」 柊はしょうがないとばかりの表情をわざと浮かべていたが、何処か華やいだまなざしだった。 橿原の宮をこっそりと出て、美しい滝と泉のある森へと向かう。 千尋にとっては最も気に入っている場所のひとつだ。 これほどまでに綺麗な場所は他にないのではないかと思う。 「ここまで来たら大丈夫でしょう? 柊」 手をしっかりと繋いで欲しい。 千尋はおずおずと柊に手を差し延べてみた。 すると柊はゆっくりと手を包み込んでくれる。 その優しい温もりに、千尋はうっとりとこころが満たされるのを感じた。 「…こうしていると落ち着くよ…」 「私もですよ」 ふたりは顔を見合わせて微笑みあった後、泉に向かってゆっくりと歩いていく。 手を繋いで、ただ歩くだけなのに、こんなにも幸せに満たされる。 幸せ過ぎて、唇に笑みが滲んだ。 柊と手を繋いでいられる幸せを噛み締めながら、千尋はずっと笑顔をたたえる。 柊がいつも一緒にいるから笑顔でいられるのだということを、改めて感じずにはいられなかった。 泉に着くと、千尋は嬉しさの余りに駆け出してしまう。 「…全く我が君は…」 柊が苦笑いを浮かべながら見守ってくれている。 それだけで千尋は何よりも幸せだと思った。 柊がもう離れていかないという確信があるから。 こうして手を離すことなくいられる。 柊が一緒にいてくれるのを解っているから。 こうして無邪気に笑っていられる。 柊がそばにいるから。 いつも前を向いていられるのだ。 「柊! 早くお出でよ! 一緒に行こう!」 千尋が手招きをすると、柊はゆっくりとした歩調で近付いてきてくれる。 こうしていつも手が届く場所に居てくれているから。 いつでも抱き締めてくれる場所に居てくれるから。 千尋はにっこりと微笑みながら泉の前に屈んで、水を掬った。 「ここの水は本当に澄んでいて綺麗だね。いつまでも見つめていたいって思うよ」 千尋は泉の水で喉を潤した後で立ち上がろうとした。 「きゃっ!」 いきなり足を取られてしまい、千尋は今にも泉に落ちてしまいそうになる。 だが、直ぐ近くに柊がいてくれたから、華奢な躰を受け止めてくれた。 「…あ…有り難う…」 顔を上げると、落ち着いた笑みを浮かべる柊と目があってしまった。 「…大丈夫ですか? はしゃぎすぎるのは余りよくありませんよ」 「…解ってる。だけど…、柊と久し振りに一緒に過ごせたから嬉しくて…」 「いつも執務室ではご一緒しているではありませんか?」 柊はあくまで柔らかく穏やかな口調で言う。 解ってない。 それはプライベートではないから、千尋には余り意味のないことであることを。 「…こうしてふたりきりでプライベートに一緒にいられるのは、なかなかないからだよ」 千尋が拗ねるように言うと、柊は苦笑いを浮かべた。 「…そうですね」 「…それに…、今は“我が君”だなんて言わないで欲しいんだよ…。今は女王ではなくて、ただの“葦原千尋”だもん…」 プライベートな時までも主君として扱わないで欲しい。 今は、恋するひとりの女の子なのだから。 「…解りました…。だけど千尋…、私はここではあなたを君主としては扱ってはいませんよ?」 「…え…?」 柊の言葉の意味が分からなくて、千尋は思わず顔を上げる。 すると柊は魅惑的で何処か妖艶な笑みを浮かべると、千尋を誘惑するかのような瞳で見つめてきた。 「…あなたをこうして腕の中で閉じ込めているんですからね…」 「…あっ…!」 柊に力を込めて抱き締められて、千尋は息が出来なくなる。 こんなにも息苦しくなるほどに抱き締められるのは、初めてかもしれなかった。 「…柊…」 苦しいくせに、もっと抱き締めて欲しいだなんて、全く矛盾している。 だが、これこそが恋情なのだと千尋は思った。 「…柊…」 「…私はいつでもあなたをこうして抱き締めたいと思っているのですよ…。あなたの前で堪えているに過ぎません…。あなたが女王であられる前に、私もひとりの女性でいて欲しいと思っています…。あなたがひとりの女性に戻られる時には、こうして抱き締めて差し上げたい…。いいえ…、抱き締めたいと思っているのです…」 柊の迸る想いが伝わってきて、千尋は泣きそうになる。 本当に涙が出そうになるぐらいに切なくて、千尋は思わず柊を抱き締めた。 「…千尋…」 掠れた甘い声で名前を呟かれるだけで、幸せだ。 こんなにも幸せで良いのだろうかと、千尋は思う。 「…あなたが私の唯一の君主であることは変わりません。だが…、私の個人的な忠誠は…、中つ国の女王ではなく…。葦原千尋…あなた個人にあります…」 「柊…」 柊の言葉が嬉しくて、また涙ぐんでしまう自分がいる。 こんなにも泣きそうなぐらいに幸せで良いのだろうかと、千尋は思った。 「…私も女王として、中つ国や民を愛しているよ。だけど、葦原千尋個人としては、柊…。あなただけを愛しているの」 「…千尋…」 いつもは敬称でしか呼んでくれない柊が、名前で呼んでくれるのがとても嬉しい。 ふたりきりの時だけのとっておきのご褒美のように思えた。 柊はフッと微笑むと、千尋にゆっくりと顔を近付けてくる。 「ご褒美が欲しいですか?」 「ご褒美が欲しいよ」 にっこりと笑うと、柊は唇を近付けてきてくれる。 そのとっておきのキスに千尋は酔っ払いながら、また前を向いて頑張れると思った。 |