今宵は新月。 月は見えない。 見えないのは解っているのに、つい視線で探してしまう。 千尋は、宮殿のバルコニーに出て、どの辺りに月が見えるのだろうかと考えた。 「…どうかされましたか? 我が君」 優しい夜のような声が下りてきて、千尋はにっこりと微笑んだ。 そこには、共に人生を歩んでくれると約束してくれた大好きな男性がいる。 にんまりと微笑むと、千尋は大好きな男性に視線を向けた。 「…柊…」 「夜風にあたると躰によくありませんよ」 ふわりと柊の外套が肩に掛けられて、千尋は躰よりもこころが温められたような気がした。 「…暖かいよ。どうも有り難う。だけど…柊が風邪を引いてしまうよ?」 「…大丈夫ですよ、我が君…」 「だけど」 千尋が心配そうに言うと、柊は落ち着いた笑みを浮かべる。 「…だったら、これで構いませんか? 我が君」 柊は千尋の肩に掛けていた外套を自分の肩に掛けると、そのまま背後から抱き締めてくる。 柊の外套をふたりでシェアをして、それが堪らなく温かかった。 「…温かいね…、本当に…。こうしたほうが、もっともっと暖かいよ」 「私も温かいですから、ちょうど良いのかもしれませんね…」 「柊が温かかったら、私も嬉しいよ。有り難う…」 千尋が礼を言うと、柊は更にギュッと抱き締めてくれた。 「…また星を見ていたのですか?」 「だって、星の一族のあなたが旦那様だもの。自然とお星様を見たくなるよ」 「それは嬉しいですよ」 柊が嬉しいと言ってくれるのが嬉しくて、千尋は甘く微笑んだ。 「ねえ、お月様ってどのあたりにいるのかな? 私、探しているんだけれど…」 「今宵は新月ですからね。見つけることは難しいでしょう。ただ、あのあたりにいるのではないかと思いますよ」 柊はだいたいの場所を指差してくれる。 千尋はその部分をじっと見つめると、何故だか癒されるような気分になった。 「…何だか生まれたてのお月様に見守られているみたいだよ」 「…そうですね…。月は常に私たちを見守ってくれていますからね…」 「うん…」 千尋は月があるだろう場所を見上げながら、幸せな気分に浸った。 「…我が君…」 「柊、さっきから気になっていたんだけれど、私のことを“我が君”って、ここで呼ぶのは止めて欲しいんだけれど…。だって今は、葦原千尋としてここにいるから。私自身の大切な時間だから、出来たら名前で呼んで欲しいんだけれど…」 「分かりました」 柊はフッと微笑むと、静かに頷いてくれた。 「では、葦原さん?」 「もう意地悪っ! 私がどう呼ばれたいかなんて、柊が一番解っているじゃないっ!」 千尋がわざと拗ねるように言うと、柊は温かな笑みを浮かべてくれる。 「…千尋…」 柊の声で甘く囁かれるだけで、蕩けてしまいそうになる。 柊の声は、不思議な魔力を持っていた。 「…嬉しいよ。私…、ふたりきりでいる時は、どうしても名前で呼ばれたいんだよ」 千尋が小さな子供がわがままを言うように言うと、柊は更にギュッと抱き締めてくれた。 「私も…こうしてふたりきりでいる時は、名前でお呼びしたいですよ」 「本当は敬語も嫌何だけれど…」 千尋がちらりと言うと、柊は首を横に振る。 「申し訳ございませんが、こればかりは直せないですね…。元々の私の口調ですから…」 「確かにそれは解っているんだけれど…、やっぱりかしこまった感じがするから嫌なんだけれど…」 「こればかりはお許し下さい、千尋。現に、風早に対しても、忍人に対しても、私はこの口調でしょう?」 「そうなんだけれどね…」 千尋は頷きながらも、ふたりで対等の言葉遣いをしたいとつい思ってしまった。 「千尋、ひとつ素敵な話を致しましょう。新月の話を。新月の夜に願い事をすれば、それが叶うという話をお聞きになったことはありますか…?」 「知らなかったよ」 今まで、願い事の対象として、月を眺めたことはなかった。 星に願い事をするようになったのは、柊と共にいられるようになったからだ。ロマンティストな気分になり、沢山のロマンティックを貰っている。 「…何か願い事がありますか?」 「願い事…」 千尋は、柊の言葉を反芻した後に、願いがたったひとつしかないことに気付く。 柊と一生そばにいたい。 千尋は柊の大きな手を改めて握り締めると、にっこりと微笑む。 「私の願い事はそんなに多くないかな…」 「月への願い事は、少しぐらいは欲張って良いそうですよ? ただし、欲張りすぎは禁物かもしれませんが」 柊は落ち着いた柔らかさの含んだ秋風のような声で呟くと、千尋の躰に更に密着をしてくる。 「…じゃあ…少しだけ欲張ってみようかな?」 「そうですよ。あなたは自分のことに対して、少しは欲張っても良いのかもしれませんね」 「…有り難う。何だか自分のことになると、なかなか思い付かないものだね…」 千尋が苦笑いを浮かべると、柊もまたくすりと笑う。 「新月への願い事は、自分のことでないと叶えられないそうです。…だから、ご自分の事を一生懸命祈ると良いですよ」 「…そうだね。欲張って祈ってみるよ」 「そうですよ」 千尋は目を閉じると、静かな気持ちになってゆっくりと祈る。 柊とずっと一緒にいられること。 柊と共に豊葦原を良くしていけること。 ふたりの家族が沢山増える事。 千尋はそれらを一生懸命祈る。 月の光に導かれた願いは、叶うような気がした。 柊もまた、新月に願いを託す。 いつまでも千尋のそばにいて、支える事が出来るということ。 千尋とふたりで沢山国の為に尽力を尽くしたいということ。 そして。ふたりで幸せで豊かな家族を作っていたいということ。 三つの願い事。 柊はそれを強く願った。 腕の中で、本当に幸せそうにしている愛しい者を見つめる。 月の光など注いではいない筈なのに、まるで月光の祝福を受けているかのように美しい。 これほどまでに透明な美しさを持つ女性は、他にいないのではないかと、柊は思った。 本当に非の打ち所などないほどに綺麗だ。 美しさには、様々な見方があり、その基準はひとそれぞれだと思う。 柊にとっては、千尋が誰よりも美しいのは間違いなかった。 本当に綺麗で、この先、千尋以上に美しいと思う女性は現われないのではないかと思った。 ふと柊の密着するような視線に気付いたのか、千尋が視線を上げる。 「…どうしたの…?」 不思議そうに見つめてくる千尋に、柊は微笑んだ。 千尋に出会ってから、彼女の柔らかさと強さを併せ持った優しい心に触れてからというもの、愛する者の前 では、いつも微笑みを絶すことがなくなった。 微笑みを絶やさずにいられること。 満ち溢れた幸せに浸っていられること。 これらは総て、千尋がいるからにほかならない。 こうして生きて千尋をずっと見守っていけることが、柊にとっては何よりも嬉しかった。 「…あなたが美しいと思っただけですよ。千尋」 素直な気持ちを言葉にすると、千尋は笑みを浮かべる。 照れと幸せが交錯する笑顔は、何事にも代えがたい魅力があった。 「…有り難う…。…柊、あなたの笑顔も、私を何よりも癒してくれるよ。本当にどうも有り難う」 千尋の笑顔に、柊は少しずつ唇を近付けていく。 「願い事はきっと叶いますね。もう叶っているかもしれませんが…」 「そうだね」 ふたりはくすりと微笑みあうと、満ち足りた気分で唇を重ねる。 そう。願い事はきっと叶う。 |