暗闇で漂っている時に助けてくれたひとには触れることが出来ない。 ゆきの代わりに呪詛を受けてくれた、本当はかなり優しいひとなのだ。 だからこそ、あの切なくて苦しい想いを抱いてしまうのだ。 触れることが出来ない大好きなひと。 触れたい。 その躰を抱き締めてあげたい。 だが、それは叶わぬことだ。 手を繋ぎたい。 触れたい。 ゆきは切なく思うだけで、何も出来なかった。 宿の庭にひとり立ちながら、ゆっくりと空を見上げた。 天海と出会うことは夜が多い。 誰にも見つからないから? 自分でも悪いことをしているような気持ちになるが、それでも天海を嫌いにはなれないし、好きでいることを止めることは出来ない。 皆を裏切っていることぐらいは解っている。 それでも、天海を幸せな気持ちにしてあげたかった。 ひとりで庭に面する縁側に座っていると、優しくて妖しい影を感じる。 直ぐにそれが誰かが解った。 天海がゆっくりとこちらに近付いてくれ、ゆきをじっと見つめる。 なんて妖艶なのだろうか 「愛しい子……。君は私を呼びましたか……?」 天海の声が甘く切ない響きになって届く。 ずっと会いたかったのは、ゆきだ。 こうしてゆきがこんなにも間近に見つめて、息遣いすら感じる。 こんなにもリアルなのに、それは総て幻なのだ。 いくら触れようとしても、触れられないのだ。 「呼んだよ、天海に会いたかったの」 「嬉しいことを言ってくれますね、君は……」 天海はゆきにそっと触れようとする。 実際には全く触れられないのだ。 それが泣きたくなるぐらいに哀しい。 触れたい。 ゆきはそんな衝動に駆られて、天海に触れようとした。 だが、また指先からすり抜ける。 大好きなひとに何度となく触れようとしても、触れることが出来ないなんて。 こんなに近くにいるのに出来ないなんて。 こんなにも苦しくて切ないことは、この世にないのではないかと、ゆきは思った。 「……どうしたら、天海に触れられるの……? どうしたら」 切なくて赦されない想いを滲ませながら、ゆきは呟く。 声も肩も震えて、ゆきは思い詰めるように天海を見た。 すると天海もまた、美しい顔に愁いを秘めて見つめてくる。 天海もまた同じ気持ちでいてくれるのだろうか。それを考えると苦しくなる。 「……君は……、私に触れるなどと、考えてはいけません……。君をけがしてしまうかもしれませんから……」 天海は深みのある声で囁きながらも、何処か苦しそうだ。 ゆきは天海の触れられない指先に触れる。 すり抜ける指先は、まるで掴みきれない天海そのものを象徴しているようだった。 「……触れたいのに……、どうして触れられないんだろう……」 ゆきがひとりごちると、天海はふと静かに目を伏せる。 寂しさ、苦しみ、哀しみ。そのような感情が滲んでいる。 「ゆき……。君は、君の八葉に酷いことをした私を触れたいと思っているのですか……?」 天海は艶のある甘い声を哀しく響かせながら、静かに呟いた。 言葉に詰まってしまう。 確かに八葉にはかなり酷いことをしている。だが、ゆきにはいつも慈しみを持って接してくれた。 だからこそ、ゆきは最後に憎みきれない。 それどころか、いつも助けてくれているのだ。 そんなひとを完全に憎むことなんて出来やしない。 ゆきは泣きそうになりながら、ただじっと天海を見つめた。 「……優しい子……。だけど君は、私の為に泣かなくても良いんですよ……」 静かに天海は言うと、まほろばの指先でゆきの涙を拭う。 拭うことなんて出来ない筈なのに、何だか触れられた場所が温かいような気持ちになった。 温かさは、天海への思慕が見せてくれたものかもしれない。 ゆきは胸が苦しくなるのを感じながら、天海を見た。 本当は触れたい。 目の前にいる、光の象徴のような少女。 暗闇にいた自分に、光を魅せてくれた初めての少女。 光がどんなにか素晴らしいものであるということを、初めて教えてくれた少女だった。 自分の知らない世界を魅せてくれたひと。それゆえにひとめで心を奪われてしまった。 胸が苦しいのに、甘くて、切ないのに、美しい。 そんな感情を教えてくれたひと。 この感情を知らない前に戻りたいとは思ったことはない。 目の前いる愛しい少女とひとときでも一緒にいられる。 それだけでも天海は幸せだった。 触れることが、温もりを感じることなのかどうかは解らない。 もし愛を感じることが出来るのならば、天海はゆきに触れたくてしかたがなかった。 ゆきの本当の意味での温かさを感じることが出来たのであれば、こんなに幸せなことはないだろう。 温もりを感じるということは、心に触れることと同じ意味なのだろうかと、思わずにはいられなかた。 泣いている愛しい少女をそのままにしておくことなんて出来ない。 だが、この指先で触れてあげることすら出来ないのだ。 こんなにも愛しくても、涙を拭って抱き締めてあげたくても。 ひとに触れる。 ひとを抱き締めるといっても、どのようなものかすら解らなかった。 だが、永き時間を越えてようやく出会った愛しいひとを通じて、ようやくどうするのかが解った。 だからこそ。 ゆきを抱き締めたいと思う。 神という立場を超えて、ひとりの男として愛しているから。 本当に、ゆきと同じような立場で生まれていれば、こんなにも切ない想いをしなくても良かったのではないかと思わずにはいられない。 短い生でも構わない。 それでもその間は、ずっとゆきのそばにいたいと、天海は思わずにはいられなかた。 ずっとそばにいたい。 ゆきのそばにいられたら、それだけで幸せ。 同じ立場で歩いて行けるのなら、これ以上のことはない。 お互いに触れて、触れられて。そんな関係になれたらと、思わずにはいられなかた。 ゆきはじっと天海を見つめている。 ゆきの大切な八葉に何をしても、大きな心で赦してくれる。 赦さなくても良いのに。 もっとなじってくれたら、諦めることも出来るかもしれない。 だが、ゆきが優し過ぎるから。 つい甘えた感情を抱いてしまう。 ゆきを独り占めすることすら出来るのではないだろうかと。 そんなことは、ずっと叶わないことである筈なのに。 神としては、望んではいけないことなのに。 それでも天海は求めずにはいられなかた。 触れたくても触れられない。 もどかしさが天海の胸にのしかかってくる。 いつか。 季節が起これば、ゆきを触れることが出来るのだろうか。 このような季節を起こすことが出来るのは、恐らくはゆき以外にはいないだろう。 ゆきが愛しい。 いつか抱き締めることが出来る日が来るだろうか。 天海は苦しい心をあえて胸の奥にしまっておき、ゆきを見る。 「いつまでもこうしていることは出来ませんよ……。部屋に帰りなさい……」 「……天海……」 ゆきは離れようとはしない。 恐らくは天海が行かない限りは動かないだろう。 天海はゆきの為に、わざと背を向けてその場で消える。 ゆきとは本当は離れたくはないのにと思いながら。 ひとりになったゆきは唇を噛み締める。 好きで好きで堪らなくて、溢れてくる恋情に胸が苦しくなる。 ゆきは恋心ごと深呼吸をすると、自室へと戻る。 いつか。 互いに抱き合えることを信じて、希望にすがって、ゆきは自室へと戻った。 苦しい恋心と共に。
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