*台風の日*


 台風が二つも来ている。

 そのせいか、せっかくの休日なのに、出掛けることが出来ない。

 小松の家は台風対策をするようなものがないから、何もすることはない。

 ゆきは手持ちぶたさで、ぶらぶらと部屋のなかを歩き回る。

「どうしたの?落ち着かないね」

 小松は在宅の仕事をしながら、ゆきを見つめてきた。

「台風が二つも来るんだなあと思うと、落ち着かなくて……」

 ゆきが苦笑いを浮かべながら言うと、小松はしょうがないとばかりに、これまた違う意味で苦笑いを浮かべた。

「君が落ち着かなくてどうするの?私の生まれた場所の家ならともかく、ここは台風が二つぐらいならびくともしないよ。もう少し落ち着きなさい」

 小松は呆れたようにピシャリと言った。

「分かっているんですが……」

 分かっていても落ち着かないのは確かだ。

 空を見たり、テレビのニュースで台風の進路を見ると、なんだかグレーな気分になる。

「怖いの?」

 小松が何処かゆきをからかうように言う。

「怖いというわけではないんですけれど、不安というか……」

 この言葉で表現できない感情を、どう表現すれば良いのだろうか。

 とても複雑な気持ちだ。

「しょうがないね」

 小松は呆れるように言うと、ゆきを真っ直ぐ見つめた。

 小松は仕事をする手を休めたかと思うと、ゆきを柔らかくだきしめてくれた。

 いきなりだったので、ゆきは驚いてしまったが、安心するのは間違いなかった。

 ときめきとドキドキ、そして安心が同時に成立するのだということを、ゆきは小松に教えて貰った。小松に抱き締められるだけで、ゆきは安堵した。

「……こうしていると、安心する?」

「安心シマス……」

 ゆきがはにかみながら言うと、小松は幼い子供にするかのように、背中を何度かポンポンと叩いてくれた。

 とてもリズミカルで、ゆきはホッとする。

 こんなにも優しいリズムは他にない。

「君は小さな子のようだね」

 小松はクスリと笑うと、しっかりとゆきを抱き締めてくれた。

「ね、ずっとこうしていたい?」

 小松が優しく問いかけてくる。

 ずっとこうしていたいのは、間違いない。

 ゆきは素直に頷く。

「こうしていたいです」

 ゆきは言ったところで、小松を見上げた。

「小松さんのお仕事の邪魔にならないなら……」

 ゆきは遠慮がちに呟く。

「何言うの。元々、今日はふたりで出かける予定だったでしょ?だから、気にしないの。台風で外に出るのが難しいから、こうしているだけだから。私はそれに甘えて仕事をしているだけだしね……」

「小松さん……」

「ほら、さっきから、“小松さん”と呼んでいるよ?全く君は、小松さんと呼ばないように言ったでしょ?」

「はい」

 まだ、馴れない。

 つい“小松さん”と呼んでしまう。

 名前で呼ぶのは、ゆきにとって恥ずかしくて堪らなかった。

 まだまだ修行が足りないと思いながら、ゆきはドキドキが止まらない。

「やることが決まったね」

「……やること……ですか?」

「ああ。決まったね。君がこの体勢で、私の苗字ではなく、名前を呼ぶのを練習する。良いでしょ?」

 いきなりそんな練習をするなんて、恥ずかしくてしょうがない。

 ドキドキしてしまい、ゆきは全く落ち着かなかった。

 やはり意識しすぎてしまう。

 ゆきは真っ赤になりながら、小松を上目遣いで見つめた。

「恥ずかしいです……」

「どうして?これぐらいは恥ずかしくはないでしょ?だって、もっと恥ずかしいことをしているんだから」

 小松はしらりと言う。

「ほら、帯刀さんって、言ってみなさい」

 いきなり言われても、恥ずかしさを通り越している。

 なかなか上手く口に出来ない。

 ゆきはなんとか頑張ろうと思うが、モゴモゴしてしまう。

「ほら、帯刀と呼んでごらん?」

「た、帯……刀……さ……ん……」

 最後はしりつぼみになってしまった。

 名前を呼ぶのは、本当に恥ずかしい。ジタバタと手足を動かして、逃げ出したくなるぐらいに恥ずかしいのは確かだった。

 こんなにも恥ずかしい想いをしていることは、小松には理解出来ないのだろう。

 込み上げてくる恥ずかしさに、ゆきはどうして良いのかが解らない。

「まだまだだよ、ゆき。私の名前をまともに呼べる時もあるのにね」

 小松はわざと意地悪に艶やかに笑いながら呟く。

 小松の名前をまともに呼べることが、かつてあったのだろうかと、ゆきはつい小首を傾げてしまう。

 そんな記憶はないからだ。

「……いつ、ですか……?」

 つい訊いてしまう。

 そんなことは聞いたことはない。

 ゆきの質問に、小松は呆れるように苦笑いをした。

「気づいていないの?」

「はい」

 ゆきは自信を持って頷いた。これには小松も溜め息を吐いた。

「あのね、君が私の名前を呼んでくれるのは、心と身体で愛し合っている時だよ……」

 小松の声がとても艶やかに低くなる。ゆきは背筋がゾクリとするほどの甘い感情に震えた。

 顔から火が出てしまいそうなぐらいに恥ずかしい。

 喉がからからになって、落ち着かない。

 ゆきはゆでダコのように真っ赤になった。

「無意識……、なのかな?」

 小松はからかうように、わざと強調して言う。恥ずかしすぎてどうして良いかが、解らない。

 このまま小松の腕の中で、ジタバタせずにはいられなかった。

「ほら、暴れない」

「……だって恥ずかしい……」

「君は、本当に飽きないね。可愛いし」

 クスリと笑われて、ゆきはもう穴があったら入りたい。

 小松はそれを楽しんでいるようだった。

 ゆきが顔を隠すと、小松はさらに抱き寄せてくる。

「ほら、そんなことをしないの。私がいるから、台風なんて怖くないでしょ?」

「……怖くはないですけれど……」

 ゆきがもごもごと言うと、小松は更に抱き締めて、背中を柔らかく撫でてきた。

「だったら言えるよね、帯刀って」

「それとこれとは」

「関係あろうとなかろうと関係ないよ。さあ、どうぞ」

「……た、帯……刀……さ……ん」

「もう一回」

「た、帯刀さん」

「よどまずに」

「た、帯刀さん」

 最後は半ばやけくそで言った。

「まあ、及第点。合格まではいかないけれどね」

 小松の一言に、ゆきはホッと深呼吸をした。

「名前を言えるようになってくれたことだし、さてと、君が台風のことを忘れられるようにしようかな」

「え?」

 そのままゆきは抱き上げられて、ベッドに運ばれる。

 台風とはまた違う意味での嵐に巻き込まれた。

 



モドル