約束


 今宵は仲秋の名月。
 夢のなかであのひとに逢えるだろうか。
 望美は、冷たさを孕んだ風に当たりながら、膝を抱えて座り込んでいた。
「…将臣くん、逢いたいよ…っ!」
 こんなに将臣を思慕するのは、名前と同じ満月だからだろうか。
 今までは月のひかりは温かいと思っていたのに、今宵は冴え冴えとしているように気すらする。
「…逢いたいよ…将臣くん…」
 すすきが辺りを覆い始め、いよいよ秋も盛りになることを示している。
「…いつ逢えるの? 吉野越えを一緒にしようって、約束したのに…」
 望美が顔を膝に埋めると同時に、頭のうえに大きな掌がぱふりと音を立てて落ちてきた。
「待たせたな、望美」
 深みのある艶やかな声に顔を上げれば、そこには、困ったように微笑む将臣が立っていた。
「将臣くん!」
「ごめんな。ちょっと野暮用があってな。急いで来たつもりだったんだけれどな」
「将臣くん…」
 淋しげに笑いながら、将臣は望美の横に腰を下ろす。
「マジ、ごめん。これでも、月見には間に合わせようって思ったんだけれどな」
「ぎりぎり間に合ったから、許してあげるよ」
 わざとしょうがないなとばかりに生意気な口を叩き、笑顔で将臣を見つめる。
 ホッとしたように将臣は微笑むと、望美をふざけるようにして抱き寄せた。
「サンキュな」
「うん」
 ふたりで膝を抱えて、まるで子供のように月を眺める。
 去年は月見団子を取り合いながら、風流なんてどこかに忘れてきてしまったような、賑やかな月見を楽しんだ。
 譲が受験生だから静かにしなさいと、ふたり揃って怒られてしまった。
 馬鹿みたいに幸福だった、あの頃。
 もう遠い昔の過ぎ去った日々のように感じてしまう。
「何だか嘘みてぇだよな」
 将臣はひとりごちるように呟くと、ただ真っ直ぐ月のひかりを見つめる。
 目をスッと細め、まるで忌ま忌ましいものでも見るように、月に視線を投げていた。
 横顔を見ると、随分と大人びてしまったように思える。月に照らされている将臣は、望美の知っている、屈託のなさなんて、すっかり影を潜めているように見えた。
「月見と言えば、団子を取り合うことばっかしていたのに、こうして今はただ見つめているだけで、幸せな気分になれるなんてな。何だか昔の月見が、違う次元で経験した、夢のなかの出来事みてぇだよな」
「…そうだね。夢みたいだね…。だけど私は、どっちが夢かは解らないよ…。こっちが夢の世界なのか、それとも元いた場所が夢の世界か…」
 あやふやだねと、望美が笑うと、将臣は今まで見たことのないような、秋風のような寂しい笑みを浮かべた。
「…そうだな。こっちに来たばかりの頃は、何度も願ったさ。夢であってくれって。これは長く覚め難い夢なんだって、何度も言い聞かせたさ…。だけど、ふと考えたんだよ。こんな血生臭い夢なんてねぇってな。そうしたら、自分がここにいる理由が肯定出来た」
 淡々と低い声で話す将臣は、どこか達観している。様々なことを乗り越えてきた結果、このような心境になったのだろう。
 広くて逞しい背中。
 本当に頼りになって、がっしりと護ってくれる背中。
 けれども、いくら広い背中といっても、背負えるものには限界がある。
 将臣は想像出来ないほどに大きなものを背負っている。
 とうてい望美には抱えきられないものを。
 だから、いくら護りたくても、望美を護るキャパシティなど、将臣にはもう残されてはいないのだ。
 だから護れないのだ。
 ほんの少しですらも。
「…こっちに来て月を見るのがくせになっちまってさ。お前のことを思い出せるからかな…」
 将臣は月を見ながら、始めて柔らかな笑みを浮かべた。
「…今夜は満月だから、夢でも逢えるかもしれないね。満月って、どうして一月に一回しかないのかな…。毎日満月だったら、太陽みたいにいつでもまあるくいたら、毎晩でも将臣くんに逢えるのに。会えない分、毎日でも…」
 望美は月に無理難題を押し付けるように、越えを震わせながら呟いた。
 涙がせり上がってきても泣けない。
 泣いてしまえば、将臣を困らせてしまうから。
「…将臣くん、馬鹿みたいだね、私って」
 望美はごまかすように笑うと、涙で滲んだ瞳を見られたくなくて、視線を月に投げ掛けた。
「月は姿を変えるから、美しいんだ…」
「そうだね…」
「月は、姿を変えるから美しいが、俺は満月が何よりも好きだ…」
 将臣は魂の奥底から声を搾り出すと、望美を力強く抱きすくめる。
 余りの強さに、望美は呼吸すらも覚束なくなった。
 今だけはこうして抱きしめて貰える。
 今だけはこうして傍にいてもらえる。
 嬉しいのに。抱きしめて貰い、こうして傍にいてもらえるだけで、何よりも嬉しいのに。
 なのにそれ以上のものを求めてしまう。
 それ以上のものなんて、求めてはいけないというのに。
「…将臣くんに我が儘を言っちゃうよ…。こんなに強く抱きしめられたら」
 声が震えて、いつの間にか涙が瞳からぽろぽろと零れ落ちてきてしまう。
 望美は肌を震わせながら、感情に押し流されそうになるのを、必死になって踏み止まった。
「…贅沢だよね。今まで、散々、将臣くんを独占し過ぎていたのに、まだ欲しがるなんて、本当に贅沢だよね…」
「望美…!」
 名前を呼ぶ将臣の声は、今までで一番苦悩に満ちている。そんな声を出させてはいけない。
 そんな声を出させたら、余計に心配をかけてしまう。
「大丈夫だよ、将臣くん。満月だから、我が儘、言っちゃっただけだよ。今はこうして一緒にいられるから平気なんだ」
 望美は顔を上げて笑ってみる。だが、泣きそうになってぐちゃぐちゃな顔だから、全く説得力なんてありはしないが。
「…ムリすんな。俺とふたりだけの時は。今だけは、ちゃんと甘えろ…」
「ましゃおみくん…」
 そんなに優しくされたら、本当にとことんまで甘えてしまうではないか。望美は涙の関を止められず、一気に溢れ出した。
「吉野を越えるまでは、めいいっぱい甘えてくれて、構わねぇから…」
「うん、うんっ!」
 将臣は望美の心ごと抱きしめるように抱くと、背中をあやすように何度も撫でてくれた。
「…全部終わったら、必ずお前を迎えにいくから…。それまでちゃんと待っていろ」
「…うん、将臣くん、うん」
 それが確かな約束でないことぐらいは肌で感じ取っている。けれども少しの可能性でも信じて、望美は頷く。
「仲秋の名月が証人だからな。きっと叶う約束だ」
「そうだね…。きっと…」
 強く願えば必ず叶う。そう教えてくれたのは、星の一族の祖母スミレだ。
 だからこそ、こうして月に誓う。
 将臣は望美の唇に、触れるだけのキスをしてくる。
 胸が締め付けられそうな切なくも甘い痛みに、望美は涙を零した。
 誓いのキス。
 それはお月様だけが識っている。




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