月下の舞い


 紫の雨のなかで再会を果たしたあなたは、勿論、何も覚えてはいなかった。
 ここにいるのはあなたであってあなたでなく、あなたでなくてあなたなのだから。
「止まないね…。雨…。もうすぐ仲秋の名月なのに…。下鴨さんで折角舞の奉納があるのにね」
 あかねは静かに雨が滴る外に向かって溜め息をつくと、てるてる坊主をティッシュで作り出した。
「週間天気予報だと…、曇りだな…。月が見えたほうが幻想的なのだがな…」
 季史は、八坂の塔の真上に上がる、黄色く滲んだ月を眺めながら、天気のゆくえを占っているように見えた。
「…”雨降りお月様”というのも、風情があって良いのかもしれないがな…」
 低く落ち着いた声は優しく響く。
 魂の再生は、怨み等の感情を一切捨て去り、優しい季史だけをあかねに届けてくれた。
 こうして自分の世界で共に生きられるようになったことが、何よりも幸福だ。
「あかねも楽しみにすると良い。今年の舞は豪快なものだからな」
「うん! だからね、雨は降って欲しくないんだよ」
 あかねはせっせといくつも”てるてる坊主”を作り、マジックで顔を描く。
「季史さんの顔を描いちゃおうかな」
 不意に季史を見つめる。
 月光に照らされた季史は、まるで幻影の世界から抜け出て来たようだ。
 シンプルなホワイトのシャツに、品のあるヴィンテージジーンズ。
 どれも季史に似合っている。
 月の光がこんなにも似合うのは、前世の影響なのだろうか。
 穏やかで優美な美しさは、あかねの瞳に涙を滲ませてしまうほどだ。
 季史を見ているだけで、全く飽きることがない。
 それどころか、ちゃんと背筋を伸ばして見なければならないのかと、あかねは思ってしまい、背筋を正した。
「…あかね」
 名前を呼ばれて、あかねはドキリとする。
 どうしていつもこのひとに名前を呼ばれると、胸の奥が切なく疼くのだろうか。
 甘くてどこか苦しい痛みに、あかねは涙が瞳いっぱいに溜まっていくのを感じた。
「あかね、どうした? ぼんやりとして」
「何でもないよ…」
 優しく綺麗な季史に見とれていただなんて、言えやしない。あかねはほんのりと目の縁を赤らめながら俯いた。
「何でもないような顔はしていないがな?」
 瞳を覗きこまれてしまい、あかねは飛び上がりそうになる。
 綺麗に澄んだ瞳は、山奥の清麗な湖のように見える。
 瞳の奥に揺らぐ光が、あかねの魂を揺さ振った。
「…隠し事はしないでくれ…。時々、そなたは心を遠くに向けている。遠い、遠い世界に…」
 淋しさを滲ませた声に、あかねは泣きそうになって思わずギュッと季史を抱きしめる。
「本当に何もありませんから。季史さんが綺麗だなって思っていただけで」
「…綺麗なのは…そなただろう?」
 季史が困惑気味に話すものだから、あかねは包み込むような素直な笑みを向ける。
「季史さんは本当に綺麗ですから」
 きっぱりと言い切ると、季史は照れを滲ませた瞳を向けて来た。
 スッと細められた瞳は、艶が滲んでいる。
「楽しみにしています。季史さんの舞」
「有り難う」
 優しい笑顔に、恋心が沸騰する。
 どうしてこんなにもこのひとが好きなのだろうか。
「何を舞われるのですか?」
「今年は、幽玄さと雄大さを表現するために、”斎陵王”だよ」
 自信を覗かせるように笑う季史とは対象的に、あかねの背筋は凍り付く。
 胸に過ぎるのは、”京”での出来事。”斎陵王”を舞ったものは死んでしまうというあの伝説と、かつての季史の最後。
 全身が嫌な震えで覆い尽くされて、心までも凍り付く。
 一気に流れる血が冷たくなっていくのが解った。
「…あかね、どうした?」
 心配そうに陰る瞳に、あかねは泣きそうになる。何かが起きそうな気がして、いてたまらなくなる。
「…斎陵王なんて…舞わないでよ…」
「あかね…!?」
「斎陵王なんて…、舞っちゃだめ…」
 我が儘なのは解っている。
 季史は、多流の時期家元として、将来を嘱望されている。
 神社に奉納する舞を断れるはずはないというのに、小さな我が儘を言わずにはいられない。
「下鴨さんで舞を舞っても良いから、”斎陵王”だけは、舞わないで…っ!」
 感情を熱病のようにぶつけるあかねを見て、季史は最初は驚いているようだったが、直ぐに宥めるような優しい顔になり、あかねを腕のなかで抱きしめた。
「…そんな顔はするな…。”斎陵王”の伝説があるから、そなたは心配してくれているのだな」
 涙で濡れたあかねの睫毛を弾いて、指先で拭ってくれる。そこから感じる温かさは、何よりも温かかった。
「…あかね、心配はない。そんな伝説は、ただの戯れ事。それよりも私は…、そなたにどうしても”斎陵王”を見せたいのだ。どうしてかは解らぬが、そなたに最後まで舞を見せたいのだ。だから、そんな顔をせずに、六日には見に来て欲しい」
「季史さん…」
 ギュッと季史を抱きしめ、また自身も抱きしめられて、あかねは苦しみと甘さで胸が締め付けられる。
 今は時空も時代も違うのだ。
 それに季史自身、舞い手の名門の家に生まれたのは変わらないが、妾腹でもなく、正統な多家の後継者なのだから。
 そのあたりも、あの時間の流れとは異なるものなのだ。
「…見に来てくれるか?」
 心許なく囁かれる声は、まるで小さな男の子のようだ。
 あかねは季史の胸に甘えるように額を押し付けると、小さく頷いた。


 奇跡なのか、仲秋の名月の夜、京都の空は澄み渡っていた。
 あかねは下鴨神社の境内にある舞殿の一番良い場所に座らせてもらい、季史の舞を待つ。
 ”斎陵王”。
出される演目は、あかねを心配させるとともに、どこか期待も抱かせる。
 嫌な記憶を払拭してくれるのではないだろうかと。
 だが、記憶が安心させてはくれない。
 薪で照らされた幽玄とした舞殿を、あかねはただ真っ直ぐと見つめるだけだ。
「あかねさん」
 声をかけられて振り返ると、そこには季史の家の弟子が立っていた。
「次期家元がお呼びですよ。舞殿の横でお待ちです」
「有り難うございます」
 あかねが舞殿横に向かうと、季史は甘やかな笑みをこちらに向けてくれる。
「あかね、呼び立ててすまないね」
「大丈夫だよ、季史さん」
 季史はスッと目を細めると、あかねの手を取り、握り締める。
「おまじない」
「おまじない?」
「…そうだ。あがらないようにな」
 フッと笑う表情が、干菓子のように甘い。
 心臓がロックのリズムを刻むのを感じながら、あかねは頬をはんなりとした紅色に染めた。
「大丈夫だよ、季史さんなら」
「あかねにぜひとも”斎陵王”を見せたかったから、この機械が得られて嬉しい。どうしてだろうな。そなたに”斎陵王”を見せたいと思ったのは」
 遠い視線を向ける横顔が、とても綺麗に見える。
 あかねは感極まり泣きそうになりながら、季史を見上げた。
「楽しみに見ているよ」
「有り難う。もうすぐ出番だから行く」
「うん。いってらっしゃい」
 今度は本当の”斎陵王”を見せてくれるのだ。
 あかねは席に戻ると、ただ背筋をぴんと伸ばして、見守った。
 闇のなかに浮かぶ月は、冷たさと温かさのどちらも持ち合わせている。
 あかねは舞殿の見つめながら、季史が無事に踊り終えることを願った。
 厳めしい面を付けて、季史が舞殿の舞台に上がる。
 幼い頃からの英才教育、そして本人の努力と才能が、難しく厳めしい舞を、優雅に見せている。
 こんなに勇壮な舞に優美さを加えることが出来るのは、きっと季史だけに違いない。
 涙がぽろぽろと溢れて、あかねは両手を組み合わせる。
 どうか何も起きませんように。
 ようやく手に入れた恋なのだから。
 どうか神様。
 まるでそこに、あかねと季史しかいないような錯覚を覚えながら、幽玄の美に魂を奪われていた。
 舞いが終わり、あかねは震える余りにその場から立ち上がることが出来ない。
 誰もが帰っていくなか、ただひとりだけ、余韻に浸っていた。
「あかね」
 ぼんやりとしていると、冴え冴えとした月光のような声に、名前を呼ばれた。
 顔を上げると、季史が立っていた。
「あかね、帰ろうか」
「うん」
 季史に手を差し延べられると、素直にそれを取ることが出来た。
すんなりと立ち上がると、あかねは季史の瞳を真っ直ぐ見る。
「…凄く良かったよ…」
「有り難う。そなたの賞賛だけで充分だ…。そなたのために舞ったのだからな」
 季史は柔らかい笑みを浮かべると、そっとあかねを抱き寄せる。
 温かな腕の力強さに幸福を感じながら、くちびるを重ねた。
 今宵は望月。
 もう”斎陵王”は忌み嫌う舞いではない。
 想い出は幸福色に塗り変えられる。




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